妖怪かく語りき
@an3588
第1話
【その男、不幸につき】
傘がない。
神喰卯一郎(こうばみういちろう)はコンビニの傘立を見つめて思った。
俺の傘「だけ」ない。
卯一郎には驚きも憤りも、焦りも落胆もない。あるのは慣れた喪失感だけである。店に入る前より激しくなった雨の飛沫が顔にかかる。
半透明のビニール傘逹が突っ込まれた傘立ての、一カ所だけ空いている穴は、ほんの数分前に卯一郎が黒色の折り畳み傘を刺していた所だ。
『今日は所により雨の予報です。外出の際は、折り畳み傘を持ってお出掛け下さい』
お天気お姉さんが笑顔で教えてくれたので、卯一郎は素直に持って出た。
お姉さんの予報は当たった。家を出てすぐ雨は降り始めたので得意気に傘をひらき、お天気お姉さんに心の中でお礼を言って、コンビニにつくと傘立てに差し込んだ。傘の柄には『神喰卯一郎(こうばみ ういちろう)』とマジックで書いていた。それが今はない。
ぽっかり空いた傘立ての、他の穴には幾本もの、似たりよったりの乳白力のビニール傘が無造作に突っ込まれている。傘泥棒に何故わざわざあの傘を選んだのかと問うてみたいがおそらく叶わないだろう。
雨足はさっきより激しくなってきて、卯一郎は傘への未練を捨てた。
雨空を少し睨んで、ふーっ、と息を吐いた。
もう、傘を持つのをやめよう。
持ってなけりゃ、盗られることもないはずだ。
次に鼻から水分の多い空気を思い切り吸い込んで、土砂降りの雨の中に走り込んでいった。
卯一郎がアパートに着いた時には全身ずぶ濡れだった。
これなら走っても歩いても変わらなかったろう。そして最後の仕上げとばかりに側道を走る車が水たまりを思い切り良く踏み去っていった。
卯一朗は無表情で自分の住む部屋のほうへ歩き出す。
建て付けの悪い部屋のドアを慣れた様子でゆすって開ける。今日は大して手間取らずに空いてラッキー、と思った矢先、閉める間際のドアにがっ、と長い爪の手が掛かった。
「おかえりい」
剥げかかったピンクのマニキュア。長い髪の間から覗く、ひじきと見紛うほどマスカラが盛られた睫毛と、アイラインが黒くにじんだ充血した目が笑う。
「……あ、瞳さん、……こんちは」
卯一郎は、どうにか仰け反らずに返すことが出来た。
紅に塗られた口はニイッと横へ広がる。思わず目をそらす。何度見ても慣れない。その口から、狂気じみた高い声が発せられた。
「キャーーーーーーー」
突然の咆哮に卯一朗の身体がびくっと身震いする。
「ーーーアハハハハァ! やだあ!ずぶ濡れえ! だいじょうおぶう!?」
すぐに返事が出来ない卯一朗に、瞳さんは一瞬で無の顔になる。
「ねえ、わたし大丈夫って聞いてるんだけど」
はっとする卯一郎。
「わたしの話聞いてる?」
「だっ……い、じょう、ぶ、です」
絞り出した言葉にひとみさんの機嫌は直った。
「えーぜんぜんだいじょうぶじゃないよおー。ぜーんぜんだいじょうぶじゃないよおー?」
「えっいや、大丈夫です」
「ひとみたんがあっためてあげるからね」
瞳さんがドアの隙間から入り込んで来ようとする。繰り返される甲高い声。脳と耳への凶器。
卯一郎は顔の下半分を笑顔の形にしつつ、この隣人でもありアパートの管理人の一人娘でもある目黒瞳(めぐろ ひとみ)が入って来るのを全力で押し留めた。ここは瞳の両親が所有するアパートだが、人生も脳も放蕩した娘に管理人という役目と住む場所を与えている。そして瞳さんは卯一郎を毎日管理しようとしてくれているのだ。
「最寄り駅から徒歩10分。コンビニ、スーパーも徒歩圏内。バストイレ別、これで家賃が月3万円! こんな好条件、他にありませんよ」
不動産会社の営業マンの笑顔を信じた。良い物件を紹介してくれたと思った。営業マンの言った事はすべて本当だった。
が、言わなかった事情のほうにかなり問題があった。
入居初日に瞳さんに挨拶した時にはドアの隙間から無言で見られただけだった。きっと人見知りする、大人しい人なんだと思った。
だが、翌日の朝、瞳さんは卯一郎の部屋の前でおはようの挨拶の為に出待ちしていた。卯一郎は礼儀正しい人なんだと思った。
瞳さんは翌週には卯一郎の生活パターンを理解した。
しばらくすると電気や水道ガスのメーターの確認、出すゴミをチェックして家計簿(かなり正確な支出金額)をつけ「今月使い過ぎだよ」と教えてくれるようになった。
こんな女がいるなんて聞いてねえ!
と猛りたくとも、もう一度引っ越しできるほどの蓄えはない。
精神的な負担以外は好条件なアパートであることに間違いはなかった。
「大丈夫です大丈夫です。すぐ、風呂入るんで。痛いっ!腕、握らないで!……大丈夫です! それじゃ!」
肘と膝でなんとかドアの向こうへ瞳さんを押しやり、鍵を閉める。ドアの内側に貼った『悪霊退散』のお札に一礼して風呂場までつま先で二歩。冷え切った心と身体を早く暖めてやりたい。
急いで身体にはりついた冷たい服を脱ぎ、ユニットバスの中に入ってシャワーの柄を持ち、湯と水の蛇口を3:7の割合でひねる。
湯になるのを待つ。
待つ。
待つ。
慣れた嫌な予感が背を這う。
希望は捨てない。卯一郎は人生が希望を持ちつつ現実を受け入れる平行作業の繰り返しだということを知っている。
しかしいつまで経っても水しか出てこない。
「またか………」
排水溝に無常に流れ込んで行く水を眺めた。
また給湯器が故障したようだ。
湯気のない流水は冷たく、目の前をただ流れ落ちていく。
「諸行無常……」
なんでかこの世の理は、俺の周りだけやたら流れが厳しく、冷たい。
でも考えても仕方ない。
卯一郎は息を吐いて、吸って、冷たいシャワーを頭にかけた。
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