第12話 妄執


 樹希と沙耶が校門前に到着した時、まだ理恵の車は到着していなかった。


「……なんとか間に合った、みたいだね。あぁよかった」


 まるで自分の事のように安心して胸をなでおろす沙耶を見て、樹希は思わず苦笑した。


 校舎に備え付けられている大きな時計を見れば、理恵との約束の時間まで残り数分しかない。


 まさにギリギリと言っていい程の時間帯だった。


 今日は沙耶が遅れて来たとはいえ、本来ならもう少し余裕を持って校門まで来れていたはずだった。


 それがここまでギリギリの到着になってしまったのは、全て樹希の担任の和香のせいだと言えるだろう。


 急いでいた樹希は途中で和香に呼び止められてしまい、そこで余計な時間をくったのだ。


 優しくていい先生だと生徒たちの間でも評判の和香。


 普段はおっとりとしていて親しみやすい空気をまとっているのは確かだ。


 だが、樹希に声をかけて来る時の和香は、何故か異様に前のめりでやってくるの。


 いつも熱心に声をかけてくる和香。


 教師を信用していない樹希は最初、あまり和香を相手にしていなかった。


 それでも最近では、その必死ともいえる熱意に心を動かされそうになったこともあったのだ。


 だが、今日の和香は明らかに距離のつめ方が強引だった。


 あの距離感を間違ったような踏み込み方は、ともすれば傲慢さが見え隠れしていた。


 熱心と言えば聞こえはいいかもしれないが、樹希の言葉も聞こうとせず、事情を無視するようならばそれは単なる押しつけであり、向こうの自己満足に他ならない。


 いくら断ろうとしても必死に食いついてきた和香のせいで、ここまで時間がかかったのだ。


 危なく理恵との待ち合わせに遅れそうになった事もあり、樹希の中で和香への苦手意識は今日で一気に高まっていた。


「はぁ~、あの先生って空気読めないなぁって前から思ってたけど、今日は一段とぶっ飛んでたね」


 そう言う沙耶は心底うんざりしたような顔をしている。


 樹希はそんな沙耶を見て、きっと自分も同じような顔をしているのだろうと思った。


「だねぇ。こっちの話しを全然聞いてくれないから困ったよ」

「しかもさ、急に樹希の身体に触るとかちょっとあり得ないよね? 女だからってさ、訴えれば普通にセクハラになるんじゃないあれ」


 沙耶が軽蔑を込めた声で非難する。


 和香から解放してくれた時も沙耶はとても大きな声を出していたが、どうやら相当怒っているらしい。


 樹希はそこまで考えられていなかったが、沙耶の言う事はもっともだと思った。


「言われてみればそうかもしれないね。男の先生が女子にあんな事したら不味いどころじゃないもんね」

「間違いなく大問題になるでしょ。証拠写真でも撮ってやればよかったかな」

「あはは、とにかく沙耶が一緒にいてくれてよかったよ。僕だけだったらあのまま先生に連れて行かれちゃってたかも」

「それ冗談に聞こえないから笑えないって、いい樹希、ああいう時ははっきりと言わないとダメだよ?」


 自分の情けなさを指摘されて樹希は少し慌てた。


 けれど、沙耶を見ればその言葉が馬鹿にしたものではなく、心配ゆえに出たものだという事が樹希にはすぐに分かった。


 そんな事を冗談でも言わないでと、眉をゆがめた沙耶の表情が彼女の心情を分かりやすいく物語っている。


 よっぽど心配をかけてしまっている事に気が付いた樹希は、ただ謝る事しかできそうになかった。


「なんか先生の雰囲気に気圧されちゃって、ごめんね沙耶、僕が情けないから」

「樹希が謝る事じゃないってば、あの先生が悪いんだからさ。むしろ今日私が遅れたからあんな事になったんだし、ごめんね樹希」

「いや沙耶こそ謝る必要なんてないよ! 沙耶がいてくれたから先生から解放されて、こうして間に合ったんだからさ、僕がはっきり言えなかったからだよ。ごめんね」

「あんな急に詰め寄られたら仕方ないって、ちょっと怖いもんあの先生。だから樹希は気にしないの、私が遅れたからごめんね。これからはもっと早く来るから」

「いやいや、僕がごめん」

「いや、私が」


 定番の流れになって、二人の間にはどちらからともなく笑いがこぼれる。


 こうして沙耶と笑い合っているだけで、樹希は幸せな気分になれた。


 沙耶は樹希にとって心の清涼剤だ。


 和香に詰め寄られた時の恐怖は、もう樹希の中に微塵も残ってない。


 そうなると今度は、どうしてあんなにも和香が必死になっていたのかが樹希は純粋に気になってきた。


 まるで周りが一切見えていなかったような和香の瞳。


 樹希は和香と至近距離で目を合わせた時、あの真っ黒な瞳いっぱいに自分の姿が映っているのを確かに見たのだ。


 自分の姿でいっぱいになっているその瞳を見た時、樹希は確かに恐怖した。


 けれど、今は逆に気になった。


 どうすれば、いや、何があればあそこまで必死になれるのだろうか。


 のめり込むという表現がピッタリな程、和香は樹希以外には目もくれていなかった。


 喩え理恵と繋がっていたとして、それでもあそこまで必死になれるものだろうか。


「ねぇ沙耶、何であの先生はいつも声をかけてくるのかな? 今日は必死すぎてちょっと怖かったけど」


 樹希がそう聞くと、笑っていた沙耶は真顔になり、少し考えるように顎に手を添えた。


「たぶんだけど、いい?」

「全然問題ないよ。沙耶は何か分かるの?」

「あぁ言う人はさ、きっと自分がいい人だって褒められたくて必死なんだよ」

「それって、承認欲求的な事?」

「そんな感じなんじゃないかな。よくあの先生の話しを聞くけどさ、異様なくらいに皆好意的じゃん? それって冷静に考えてみるとちょっと変じゃない?」

「変って……好意的な意見しかないのが変なの?」

「なんかさぁ、狙ってそういう人でも演じてないと、ここまでいい噂ばっかりが広まらないと思うんだよね」

「う~ん、たしかにそうなのかな?」

「自分は優しくて素晴らしい人だって、周りから言って欲しいんじゃないかな。だから助けがいりそうな人を見たら積極的に声をかけてるんだと思う」

「……僕の状況も何となく知ってるみたいだったしね」

「そ、だから樹希の事も助けてさ、もっと自分の評価を上げたくて必死なのかなぁって」


 沙耶のその考えは、樹希にはとても的を射ているような気がした。


 ただの根っからのいい人と考えるより、さらには理恵と繋がっていると考えるよりも、自分の評価のためというのが樹希には現実的に思えたからだ。


「ま、私の考えで本当にそうかは分からないけどね」


 冗談めかして笑ってみせる沙耶。


 だが、沙耶の考えを聞いた樹希の中では、もう和香についてのイメージが固まりつつあった。

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黒い羊は鳥籠の中で死ぬ 美濃由乃 @35sat68

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