第11話 邪魔者②
「あ、日野君! 待って、朝の事で話しがあるの!」
沙耶と早足で廊下を歩いていた樹希。
まだ時間に余裕があるとはいえ、理恵がもうすぐ迎えに来てしまうという状況ゆえに急いでいたのだが、そんな時にかぎって運悪く誰かに呼び止められてしまった。
いや誰か、ではない。
その声を聞いただけで、樹希には声をかけてきた人物が誰かすぐに分かった。
きっと沙耶にも分かったのだろう。
自分のせいで遅れそうになっているという罪悪感もあるのかもしれないが、呼び止められた瞬間、沙耶は本当に忌々しそうな顔つきになっていた。
「よかった。まだ帰ってなかったのね」
そう言って小走りで駆け寄ってきたのは、やはりと言うか分かり切っていた通り、樹希のクラス担任の和香だった。
今朝も樹希はこの女教師から声をかけられたのだが、その時の和香は並々ならぬ気迫をたぎらせて距離を詰めて来た。
樹希の状況を心配しているとは言っていたが、一体何が和香をそこまで駆り立てるのかは樹希には分からない。
まだ三年のクラスが始動して一月と少し、クラス担任として問題になりそうな事は早めに片付けておきたいのだろうか。
それとも周りでよく聞く噂通り、本当に優しく面倒見のいい性格ゆえになのか。
あるいは理恵と繋がっていて、それで樹希にやたらと目を掛けてくれているという可能性も充分あり得る。
和香がこうして樹希に接触をはかろうとしてきたのは、何も今日が初めてではなかった。
三年生になって数週間経った頃には、樹希はこうして何度となく和香に声をかけられるようになっていた。
初めから教師をあまり信用していなかった樹希は、和香に話しかけられるたびに、あまり相手にすることなく距離を取っていた。
あまり関わりたくないと態度でそれとなく示せば、これまで理恵と繋がっていたであろう教師たちのように、すぐ声をかけて来なくなるだろうと思っていたからだ。
だが和香はそんな樹希の態度を気にして避けるような事はせず、それどころか、樹希がいくら距離を取ろうとしても向こうからグイグイ距離を詰めて来た。
何度話す事はないと距離を取っても、それでも話しかけて来る和香の対応に、最近は樹希も少し困っていたくらいだった。
この頃樹希は和香の勢いに押されてしまう事もあり、その度に一緒にいてくれる沙耶が庇ってくれる事も多くなっていた。
樹希には和香の事がよく分からなかった。
今まで出会ったどの教師とも違い、必死と言っていいほどの熱意を持って何度拒絶しても声をかけてくる。
和香を警戒していた樹希でさえ、今では他の教師とは本当に何かが違うのかもしれないと、そう頭の片隅で考えてしまう事もあった。
だが、それでも教師に裏切られた過去のトラウマはそう簡単には消えはしない。
こんなにも親身になってくれそうな教師でも、実際には裏で何かがあるのではないかと考えてしまう。
樹希はそれほど大人を信用できなかった。
そして、それは樹希の話しを唯一聞いてくれた沙耶も同じなのかもしれない。
沙耶は今も、樹希以上の拒絶をその視線にのせて和香に向けている。
沙耶がそんな行動をとるのも、樹希を心配してくれているがゆえになのだろう。
だが、和香はその刺さるような視線を受けても構わず近寄ってくる。
その瞳には、まるで樹希の姿しか映っていないかのようにも見える。
和香はすぐ傍で睨んでいる沙耶をまったく気にすることなく、樹希の前まで小走りでやってきた。
「日野君、今朝はごめんなさい。あの時は私がどうかしてたわ、いきなりあんな事を言われても困っちゃうよね」
「あ、いえ、別に大丈夫です」
「……そっか、ありがとう。でね、良ければお願いがあるのだけど、今から私に時間をくれないかな?」
「時間って、呼び出しか何かですか?」
「あ、違うの! そういうのじゃなくてね、先生と少しお話しない?」
樹希は少し呆気に取られた。
目の前にいる教師が何を言っているのか理解に苦しんだからだ。
「お話って、どういう事ですか?」
「それこそ何でもいいの。好きな物だったり、お家では普段何をしてるだとか、先生に日野君の事を教えて欲しいの」
「……ちょっと、いきなりそんな事を言われても困るんですけど」
「あ、もちろん日野君が困るような事は無理やり聞き出したりなんてしないわ。本当にただの雑談で構わないの。それこそ普段立川さんとしてるような何て事ない事を先生も聞きたいなって思ってね」
もはや樹希は少し呆れ気味で和香の話しを聞いていた。
朝は樹希のクラスでの立ち位置を心配して、いきなり踏み込んだ事を聞いてこようとしていた。
だから今もまたその関連の話しかと思えば、今度はただの雑談がしたいらしい。
樹希は思わず眉をひそめながら、目の前で穏やかに笑っている教師の顔を見つめた。
ニコニコと柔らかな笑みを浮かべている和香。
その表情からは、樹希にはとても真意を読み取る事などできそうもない。
和香が本当に笑っているのか、ただその表情を顔に貼り付けているだけなのかも樹希には判断できなかった。
前々から樹希には、和香の考えている事がまるで分からなかったが、ここまでくると理解しようとする方が無駄な努力なのかもしれないとさえ思えてきてしまう。
「雑談って、急になんでそんな事を……」
「先生ね、日野君と友達になりたくて……あ、変な意味じゃないのよ!? その、自分のクラスの生徒の事もよく知らないなんて情けないでしょ? だから何でも相談してもらえるような担任でいたいから」
「……はぁ、そうですか」
樹希はもう和香の会話に付き合っているのが面倒になった。
要は、和香は雑談さえすれば仲良くなって、樹希が何でも教えてくれると思っているのだろう。
何とも粗末な考え方だ。
自分が友達を作った時、本当にそれだけで相手が何でも教えてくれるようになったと思っているのかと、樹希は和香に言ってやりたくなった。
自分が子供だった時を思い出して見ろ、と。
だが、そんな事を言ったところで余計な時間を使うだけだ。
もう付き合う必要もないと判断した樹希は、早々に会話を切り上げて帰る事にした。
「あの先生、すみませんけど、僕今急いでるので失礼します」
樹希がそう言った瞬間、和香の朗らかな笑顔に陰りが見えた。
「……あのね日野君。先生ね、本当に日野君の状況が心配なの。絶対に力になるって約束するから、お願いだから、少しだけでいいから私に付き合ってくれないかな?」
樹希の話しを聞いているのかいないのか、和香はまだ食い下がってくる。
しつこい、というよりも、執念だろうか。
今の和香からは、朝と同じような必死さがにじみ出てきているのを樹希は感じていた。
「いや先生、だから今は忙しいので――」
「私、日野君の気持ちをきっと分かってあげられる自信があるわ。だから遠慮しないで不安な事とか嫌な事を私に話して欲しいの。日野君の担任として、いえ、一人の大人として私は貴方の事が放っておけないの!」
急に一歩詰め寄ってきた和香に樹希は両肩を掴まれた。
予想もしていなかった和香の行動に樹希は反応することも出来ず、動揺している間に肩に鈍い痛みを感じた。
軋むような音をたてて、和香の指が樹希に肩に食い込んでくる。
いったいどうすれば、その柔らかそうな手でこれほどの力を出せるのか、そんな事を考える間もなく、樹希は痛みで声を漏らした。
「っ!? せ、先生、ちょっと痛ぃ」
「一人でため込まないで、ね? きっと私が力になるから。でも、まだ日野君は私の事をそんなに知らないし、いきなり信用なんてできないのは分かってるの。だから今日は少しお喋りでもしましょう? お互いの事を少しずつ知って、そうすればきっと話しにくい事も自然と言えるようになるから」
和香はもはや樹希の言葉を聞いていないのかもしれない。
樹希が痛いと訴えているにも関わらず、和香はまだお喋りをしようと言ってくる。
顔を至近距離まで寄せてきて、瞬きすらせず早口でまくし立ててくる和香は、樹希が恐怖を感じるには充分な迫力があった。
会話を始めた時とはまるで人が違う。
樹希が拒否したあたりから、和香は興奮でもしたかのように様子が変わってしまった。
いったい何がこの教師をここまで必死にさせているのだろうか。
うっすらとそんな事を考えていた樹希が、痛みで何も考えられなくなった時だった――
「いい加減にしてください!!」
――廊下の端にまで届きそうな声が響き渡った。
樹希はもちろん、我を忘れていたような和香でさえ少し身体を震わせている。
次の瞬間には、樹希が肩に感じていた痛みがなくなった。
沙耶が、和香の手を掴んで引き剝がしてくれていた。
「先生、私たち急いでるって言ってるじゃないですか? 生徒の都合なんて無視ですか?」
沙耶は樹希と和香との間に身体を滑りこませ、おでこがぶつかりそうな程に和香に詰め寄っていく。
そこで和香もやっと我に返ったのか、先ほどまで樹希に語り掛けて来ていた時とは様子が一転して、今は心底慌てているようだった。
「あ、ごめんなさい! また私、自分の都合だけで――」
「分かってくれたならもういいですよね。先生の都合を私たちにまで押し付けないでください。失礼します」
沙耶は和香の言葉を遮ると、返事も聞かずに歩き出した。
樹希も沙耶に手を引かれてその背中に続く。
さっきまでの様子がおかしかった時とは打って変わって、しゅんと項垂れている和香。
その極端な変化が気になりはしたものの、樹希は沙耶と校門へと急いだのだった。
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