第10話 邪魔者①


 針のむしろである学校での一日を終え、やっと放課後を迎えた樹希は、今は教室で沙耶が迎えに来るのを大人しく待っていた。


 放課後も沙耶が教室まで迎えに来るのは毎日の決まり事のようなもの。


 いつの頃からか必ず見送りに来てくれるようになった沙耶に、樹希は教室で待っているようにお願いされているのだ。


 だが、いつもならもうとっくに迎えに来ている時間を過ぎても、今日は中々沙耶がやって来ない。


 沙耶に何かあったのだろうかと、一度は探しに行くことも考えた樹希だが、結局は大人しく教室で待っている事しか出来なかった。


 沙耶を探しに行って、運悪く入れ替わりになってしまうのが一番怖かったのだ。


 何故なら、樹希はスマホや携帯電話を持っていないからだ。


 むしろこういう場合はスマホですぐに連絡を取る場面なのだろうが、樹希にはそれができなかった。


 今時高校生でスマホや携帯を持っていない人間を、少なくとも樹希は自分以外には知らない。


 学校にいる生徒たちはいつでもその手にスマホを持ち歩いているし、外を歩いている同年代らしき人たちだってそれは変わらない。


 この学校でスマホを持っていない生徒は樹希だけなのではないだろうか。


 樹希のようにスマホや携帯を持っていない高校生は、この日本中を探せばそれなりにはいるのだろう。


 けれど、それでもまず間違いなく少数派のはずだ。


 樹希がスマホの類を持っていないのは、理恵に必要ないと言われてしまったからだ。


 子供が親に何かをねだる事は特に珍しくもない普通の光景。


 そして、高額な物になるほど親が渋るというのは、きっとどの家庭にでもある一幕だろう。


 だが、普通は一度親からダメだと言われてもすぐに話しが終わるようなものでもない。


 子供がまだ幼ければ、泣いてごねたりするだろう。


 少し成長しているのなら、親子で話し合って、テストや何かしらで頑張ったご褒美として設定したりするかもしれない。


 もちろん、よほど裕福な家庭なら、子供が望むままに何でも買い与える親だっているはずだ。


 だが、樹希はそのどのパターンにも当てはまらない。


 樹希は自分から理恵に何かを欲しいと言ったことなんて、今までの人生でほとんどなかった。


 何度か言った事があるのは、全て樹希がまだ幼い頃の事。


 それなりに成長してからは、自分から理恵に何かをねだると言う事を樹希はしなくなった。


 そんな事をしても無駄だと気付いたからだ。


 自分の全ては理恵に支配されていると悟り、我がままを言う程に自分で自分を追い詰める事になると樹希は学んだのだ。


 その辺の子どもと同じように駄々をこねれば、それだけ自分が酷い目にあう。


 理恵にとって都合のよい人間として生きなければ、樹希に待っているのは辛い時間だけなのだから。


 だから樹希はスマホや携帯を理恵にねだった事もない。


 どうせ友達だってほとんどいないのだ。


 今のように沙耶との待ち合わせの時は確かに不便だと思う事はあるが、樹希が必要だと感じるのはそれくらいのものだった。


 家でも樹希は理恵の身の周りの世話で忙しく、沙耶と連絡を取り合う暇もあまりないだろう。


 などと、樹希は自分に言い聞かせていた。


 それでも、クラスメイトたちを見ているとどうしても欲しくはなるもので、心の中では周りの同級生たちのようにスマホを持っている自分に憧れていた。だが、


「そうそう樹希、高校生になったからってスマートフォンとか欲しがらないでよ。あんなもの貴方には必要ないんだから」


 高校に入学してすぐに言われた理恵の一言で、樹希はその憧れもきっぱりと諦めた。


 理恵からそう言われた以上、素直に頷かなければ自分で自分の首を絞める事になってしまう。


 スマホを買ってもらえない事よりも、理恵の機嫌が悪くなる方が樹希には大問題だ。


 だから樹希は、笑顔ですぐに頷いたのだ。


 というわけで樹希は沙耶と連絡を取り合う事ができない。


 下手に動いてすれ違いになれば、今よりも合流する事が余程難しくなってしまうだろう。


 つまり樹希には、初めから待つという選択肢しか残されていないのだ。


 こうして樹希は、居心地の悪い教室に留まる事を余儀なくされていた。



 放課後になってどれだけの時間が過ぎただろうか。


「樹希! 待たせてごめん!」


 流石に沙耶の事が心配で樹希も落ち着かなくなってきた頃、やっと慌てた沙耶が教室に駆け込んできたのだった。


「ホントごめん! 帰り際に担任に掴まっちゃって」

「沙耶、僕は全然気にしてないから一旦落ち着いて、ね?」

「う、うん。でも、もう時間ないから急いで外に行かないと!」


 沙耶はかなり焦っている様子だった。


 というのも、樹希に定められた時間が迫っている事を沙耶も知っているからだ。


 樹希は毎日理恵が迎えに来て、その車で下校している。


 理恵が迎えに来る時間はいつも決まっていて、樹希はその時間の前には必ず昇降口で理恵の到着をまっていなければならないのだ。


 喩え理恵が少し遅れたとしても、樹希が遅れる事は許されない。


 あれは小学生の頃だっただろうか。


 樹希は一度、理恵を待たせてしまった事がある。


 あの時は、まだ周りに他の生徒たちがいるにもかかわらず、公衆の面前で理恵に叱られた。


 酷い剣幕で怒鳴る理恵が恐ろしくて、樹希は恥も外聞もなく泣いたのを今でも覚えている。


 あの時の様子は沙耶も見ていた。だからこそ沙耶は遅れて焦っているのだろう。


 自分のせいで樹希を酷い目に合わせまいと、急いで走って駆けつけてくれたのだろう。


 その沙耶の気遣いが樹希にはむしろ嬉しかった。


「今からでも充分間に合うから、そんなに焦らなくても大丈夫だよ沙耶」

「けど、少しでも余裕を持って待ってないと、理恵さんが早く来ちゃっても怖いし」

「……そうだね。いつも気を遣わせちゃってごめんね」

「それこそ気にしないで、私が見送りをしたいからいつも樹希に待っててもらってるんだし、迷惑かけてるのは私の方だから」

「そんな事ないよ。沙耶がいつも付いてきてくれて僕は本当に心強いんだ」

「樹希…………私はいつでも一緒にいるから。ほら、もう行かないと」

「あ、そうだね。ちょっと急ごうか……」


 またあの鳥籠に戻りたくはない。


 本心ではそう思いながらも、樹希は沙耶に手を引かれて教室を出た。


 理恵との約束の時間まではまだ十分ほどの猶予がある。


 このまま普通に昇降口に向かえば、少し余裕を持って理恵を待つ事もできるだろう。


 だから、この時の樹希は沙耶程は焦っていなかった――



「あ、日野君! 待って、朝の事で話しがあるの!」


 ――のだが、こういう時に限って邪魔者というのはやって来ると相場が決まっているのかもしれない。

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