第9話 正義の味方②
「日野君、よかったら先生と一緒に教室に行かないかな? ちょっと早いけど、今日は今からもうクラスに行くつもりなの」
樹希が距離を取った事に気が付いていないのか、それとも気付かないふりをしているのか、和香はにこやかな笑顔のまま近づいてくる。
詰め寄られているのが他の男子生徒なら、喜んで和香に付いて行くのだろう。
だが、沙耶と二人の時間を過ごしていた樹希には、急にやってきた和香は何を考えているのか分からない邪魔者でしかなかった。
「いえ、すみません先生。僕はまだ沙耶と話しがあるので」
「あらそうなの? じゃあせっかくだし途中まで立川さんも一緒にどうかな?」
「あの、先生……間に合うようには教室に戻りますから、僕の事は気にしないでください。先に行っててもらって構いませんから」
樹希はこの時すでに声が少し震えてしまっていた。
自分に向かってぐいぐいと距離を詰めて来る和香に、ちょっとした恐怖を感じていたからだ。
親身で優しい教師像を押し付けて来るかのような和香の姿勢は、樹希にはただの張りぼてのようにしか見えなかった。
その張りぼての内側でいったいどんな事を考えているのかと思うと、樹希にはとても信用できるものではなかったのだ。
和香が距離を詰めて来るのに合わせて樹希はまた後ろに下がる。
声を震わせて拒否する樹希の様子を見て、和香も何かに気が付いたらしい。
さっきまでの笑顔を瞬時に萎めて、まるで枯れかけの花のように身体を丸くして立ち止まった。
和香のその表情は、心底申し訳ないと本当に心を痛めているような悲痛なもので、流石に樹希も少しの罪悪感に襲われた。
「ごめんなさい日野君。ちょっと馴れ馴れしすぎたわよね? でも、私、実はどうしても日野君に聞いておきたい事があって、それで声をかけたの」
そこまで和香が聞きたい事に、樹希は正直心当たりがなく戸惑った。
和香がやたらと樹希に構うのも、その聞きたい事とやらが理由だったのかもしれない。
「……何ですか?」
意を決して質問を促す樹希。
和香は少し間を置いた後、意を決したように口を開いた。
「その、日野君は、何かクラスに居ずらい理由でもあるのかしら?」
その質問をされた時、樹希は心臓を鷲掴みされたような気分になった。
「な、なんでですか? なんで急にそんな事」
「いえ、私の気のせいだったらごめんなさいね。でも、なんとなくクラスの様子を見てると、ちょっと思うところがあって」
言いにくそうに、痛ましいほどに顔を歪ませて話し続ける和香。
その表情を見ていると本当にこちらを心配しているのだろうかと、樹希ですらそう思ってしまいそうだった。
「もし、何か困ってる事があるなら私に相談してほしいの」
また一歩樹希に詰め寄って来た和香は、真剣な表情で樹希を見つめてくる。
決意に満ちたようなその顔は、子供のために必死で問題に取り組もうとする教師としての顔だった。
「私ね、余計なお世話かもしれないけど日野君が心配なの。担任っていう立場ももちろんあるけど、それ以上に困ってる事があるなら力になりたいから、遠慮しないで頼ってほしいの。きっと力になれるように頑張るから」
また一歩、和香が距離を詰めて来る。
偽善的なそのセリフは、ともすれば鼻で笑いたくなるようなものだった。
だが、和香の必死の形相からは、軽い圧力すら感じる程の気迫があった。
その気迫に押された樹希は動けない。
詰め寄って来る和香をただ見ている事しかできない。
もう少しで手の届く距離まで和香がやってきてしまう。そんな時だった、
「先生、樹希が怯えてるんでもう止めてください」
頼りになる幼馴染が、樹希を庇うように前に出ていた。
その頼もしい背中が視界に入ったおかげで、樹希は少しだけ余裕を取り戻せた気がした。
「あ、ごめんさない! 私はそんなつもりじゃ」
「先生がどんなつもりだったとしても、樹希が怯えたのは事実ですから」
「……ごめんなさい。こんな話、いきなりする事じゃないよね。でも、私は本当に日野君のために――」
「結構です。そんな押し付けの偽善なんて、なんの役に立たないものは必要ありませんから。樹希には私がついてるんでもう放っておいてください。行こう樹希」
食い下がろうとする和香を、沙耶はぴしゃりと跳ねのけた。
和香をまったく相手にしようとしない沙耶に手を引かれて樹希も歩き出す。
そのまま和香とすれ違った時、横目に見えたその本当に悲しそうな表情は、なんとなく樹希の心にこびりついた。
「ありがとう沙耶」
教室の前まで戻って来た樹希は、そこでやっと口を開くことができた。
目の前で繰り広げられた幼馴染と女教師の舌戦、とまでは言わないが、沙耶が和香を圧倒する様子を見ていた樹希は、情けないことに呆気にとられて何も言えなかったのだ。
やっと口を開いた樹希に、沙耶は心配そうな視線を向けて来る。
「いいの、でも気を付けてよ樹希。あの教師なんか妙に近寄って来るし」
「うん。何でか分かんないけど、やっぱり気のせいじゃないよね」
「樹希なら心配ないと思うけど、あの見た目に騙されて下手に信用しちゃダメだよ」
「そうだね、先生は信用できないから」
「……あの先生も理恵さんに言われてるのかもね。だから、変に気を許しちゃダメだよ? 何かあったらまずは私を頼る事、いい?」
優しくまるで子供に言い聞かせるような口調の沙耶。
別に樹希は揶揄われているわけではない。それだけ沙耶が心配してくれているということだ。
だから沙耶のその様子が少し微笑ましくて、樹希は少しだけ明るい気分を取り戻せた気がした。
「大丈夫だよ沙耶。僕が信頼できるのは、沙耶だけだからさ」
「……そう、ならいいの」
和香を警戒していたからだろう、それまで真剣な表情をしていた沙耶だったが、樹希の言葉を聞いた瞬間、急に頬を赤くしてそっぽを向いた。
上ずるその声からはどこか嬉しそうな響を感じ、樹希は少し嬉しくなったのだった。
それから、チャイムが鳴るギリギリまで一緒にいてくれた沙耶は教室の中まで樹希に付いてきてくれた。
樹希一人ならすぐに陰口が飛んでくる教室だが、沙耶が傍に入る時は露骨に悪口を言う者は一人もいない。
「じゃあ樹希、また次の時間も来るから」
「うん、ありがとうね沙耶」
「一人でどこか行ったりせずにちゃんと待ってるのよ?」
「あの、僕は子供じゃないんだからさ」
「ふふ、ごめんって、心配でついね……じゃ、またね樹希」
「うん、またね沙耶」
樹希が見送る中、教室から出ていく沙耶は一度振り向いて手を振ってくれた。
樹希も沙耶に手を振り返す。
笑顔になった沙耶が背中を向けると、樹希はすぐに刺さるような視線を感じた。
沙耶と入れ替わりで少し暗い表情の和香が入って来たことで、特にクラスメイトから嫌味を言われることもなかったが、樹希には向けられた一際強い視線の意味が分かっていた。
それは多分、嫉妬だ。
家が金持ちでいつも車で送迎されて、教師からも優遇され、さらには美人の幼馴染にこんなにも構われている。
誰からかは分からないが、ああも沙耶に目を掛けてもらっている姿を見せていれば、嫉妬心を煽ってしまうのも当然かもしれない。
樹希は以前から沙耶が心配してくれるほどに、先ほどの視線が強まっているのを感じていた。
だが、気付いているのは樹希だけ、沙耶はそれには気付いていない。
樹希は何度か沙耶にそのことを伝え、教室に来るのを遠慮してもらおうかとも考えた。
必要以上に誰かの嫉妬を煽るような事をしたくはなかったからだ。
だが沙耶の好意を無碍にもできない樹希は、そのまま向けられる感情全てを受け入れるしかなかった。
こうして、休み時間ごとに沙耶がやってくるたび、太一は誰からかも分からなぬ嫉妬の視線に貫かれ続けた。
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