第8話 正義の味方①


「日野君、立川さん? こんなところでどうしたの?」


 廊下で沙耶と談笑中、樹希は不意に声をかけられて振り向いた。


 この学校で樹希に声をかけてくる人間なんてあまりいない。


 樹希が会話をするのは、ほとんどが沙耶か亮だけ。


 あとは教師くらいのもので、だからこそ樹希には、声をかけてきたのが誰なのかおおよその検討はついていた。


 振り向くとそこにいたのは、樹希が予想していた通りの人物。


 豊田とよだ和香のどかだった。


 樹希のクラスの担任教師。


 興味がなかった樹希は正確な年齢を忘れたが、和香はまだ二十代の若手女性教師だ。


「二人ともいつも一緒で本当に仲がいいのね。でも、そろそろ教室に戻らないといけない時間だよ」


 にこやかな笑顔の和香が、親し気に近づいてくる。


 そんな和香の様子からは、あまり生徒と教師という垣根は感じられない。


 フレンドリーな空気を醸し出して、積極的に生徒との距離を詰めようとしているらしい。


 豊田和香という人物は、教師として学校では中々の人気があった。


 その理由としては、まず若い女性だという事があげられる。


 歳が他の教師よりも近いというだけで、生徒たちはそれだけ親しみが持ちやすいものだからだ。


 そして、その人気に拍車をかけているのは、なによりも和香の容姿と人柄だった。


 豊田和香という人物を端的に表すなら、母性溢れるおっとりとした大人の女性、だろうか。


 柔らかい安心感のある笑顔。


 どんな人でも優しく包み込んでくれそうな包容力。


 和香という名前が体を表しているかのような、波のない穏やかな性格。


 それに加えて、さらに人目を惹きつける容姿だ。


 サイドアップにまとめられ胸元に垂れている綺麗な長い黒髪が、和香の大人らしい上品さを醸し出している。


 さらには沙耶ほどではないが女性の中では高いの身長と、スーツをはちきれんばかりに盛り上げている豊満な胸が、男性の目を自然と惹きつけてやまない。


 優しさと魅力あふれる大人の女性。


 その要素をこれでもかと持ち合わせている和香は、当然のように男子生徒から人気があった。


 それでいて、持ち前の優しさと面倒見の良さで女子生徒からも慕われているらしい。


 和香の生徒からの人気は中々に高く、クラスメイトとはまったく会話をする事がない樹希ですら、和香についての会話を学校で何度も聞くことがあった。


 そして、和香の話しをしている生徒たちは皆が口を揃えてこういうのだ。


「いい人だよね」と。


 和香について聞こえてくる話題は、悪いものが一つもなかった。


 どんな相談にも親身にのってくれて、けして生徒を馬鹿にすることなく寄り添ってくれる。そんな他の教師とは違う存在。


 聞こえてくる会話では、生徒たちの間で豊田和香という人物の評価は総じて高く、その人気っぷりを象徴していた。


 特によく聞こえてくる噂では、理不尽に怒られていた生徒を他の教師から庇った事もあるらしい。


 まさに生徒にとっては正義の味方と言えるような教師なのだろう。


 そんな和香が声をかけてきて樹希は、



 一歩後ろに下がって距離を取っていた。


 樹希が和香から距離を取ったのは、彼女を警戒しているからだ。


 何故なら樹希にとって教師は、母と繋がっているかもしれない危ない存在なのだから。


 樹希はこれまでの人生で、何度か教師に自分の境遇を相談した事があった。


 流石の樹希でもそれくらいは行動した事があるのだが、結果は今の現状を見れば分かる通りだ。


 小、中、高と樹希は理恵の決めた私立の学校に通っていた。


 つまりは、学校も理恵の監視下にあるという事だったのだが、その頃の樹希はそこまで考える事ができなかった。


 樹希が小学生の頃、普段から優しくて、樹希によく目を掛けてくれる教師がいた。


 いつも優しく寄り添ってくれるその教師が好きで、樹希は自分の境遇を相談したのだ。


 すると教師も親身になって樹希の話しを聞いてくれ、あの時樹希は、これで少しでも境遇がよくなればと期待に胸を膨らませた。


 のだが、その考えが甘いものだとすぐに思い知らされることになった。


 何故なら、その後に待っていたのは理恵からの口にも出したくないような長時間の折檻だったからだ。


 一見、樹希に寄り添って力になってくれそうだった優しい教師は、実は裏で理恵と繋がっていたのだ。


 理恵だって馬鹿ではない。自分の行いが世間的にどういうものなのかを当然分かっているのだろう。


 理恵がどうやって教師を手名付けたのかは樹希には分からない。


 単純に金なのか、それともその美貌をちらつかせたのか。


 はたまたもっと恐ろしい何かをつかったか。


 どんな事情があったのか樹希は知らないし、知りたくもなかった。


 ただその時から樹希は、教師に相談しても無駄だと悟り、周りの大人を信用しなくなった。


 喩えどんなにいい人そうに見えても、喩えどれだけ樹希に優しくしてくれても、それは全て理恵の指示かもしれないし、ただの演技かもしれない。


 見せかけの表面だけでは、裏で何を考えているかまでは分からない。


 それは今目の前にいる和香にも言える事だった。


 生徒たちとの関りが多い和香だが、中でも何故か樹希に話しかけて来る事は多かった。


 それは樹希の自意識過剰というわけではなく、客観的な事実だ。


 樹希自身も嫌に構ってくるとは感じていたし、以前沙耶からも同じように言われたからには、それは正しい認識なのだろう。


 樹希には、どうして和香がそこまで自分に構うのか見当もつかなかった。


 クラスメイトたちも教師の前では露骨に樹希を蔑ろにしたりはしないが、担任として何かを察したのだろうか。


 あるいは理恵からの差し金だろうか。


 表面上はいい人だと言われていても、その実態はどうか分からない。


 樹希にとって理恵と繋がっているかもしれない和香は、正義の味方には決してなりえなかった。

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