第7話 大丈夫


「樹希から離れて」


 それは恐ろしく低い声だった。


 その声を聞いた瞬間、さっきまで得意げに話しを続けていた亮が押し黙り、樹希からすぐに離れていく。


 背中を丸めて小さくなり、逃げるように小走りで離れて行く亮の姿からは、先ほどまで樹希に向かって雄弁に語り掛けていた時の自信は微塵も感じられない。


 今の亮はまるでヒロインに絡んでヒーローに追い返される子悪党そのものだ。


 そして、亮を追い返してくれたヒーローがゆっくりと教室に入って来た。


 その堂々たる歩みを邪魔する者は一人もいない。


 急にやってきた人に驚いて逃げて行く小動物や虫のように、前に立っていた者たちはそそくさと道を開ける。


 何者にも邪魔されることなく、その人物は真っすぐに樹希の元までやってきた。


「樹希、大丈夫?」


 ヒーローの声は、先ほどの恐ろしく低い声とはまるで別ものだった。


 どうして同じ人間がここまで違う声を出せるのかと、樹希はいつも不思議に思っていた。


 樹希だけに向けられる慈悲と慈愛に満ちた優しい声。


 その声を聞くだけで、樹希には勇気が湧いてきた。


 その姿を見るだけで、樹希は心の底から安心する事ができた。


 だから樹希は、その人にだけは笑顔を見せてこう答えるのだ。


「大丈夫」




「来てくれてありがとう。ちょっと困ってたから」


 その後、樹希はヒーローと一緒に廊下に避難した。


 あのまま注目を集めたまま教室に居てはまともに会話も出来ないからだ。


「いいの、それより!」


 ヒーローが急に語気を強めて詰め寄って来る。


 樹希が不味いと思った時にはすでに遅い。


 仁王立ちしたヒーローによって、壁際に追い詰められてしまった樹希には逃げ場がなかった。


 樹希は上目遣いで自分よりも頭一つ分程背の高いヒーローを恐る恐る見上げた。


 無理やり髪をまとめたかのような小さめのポニーテール。


 どこか鋭さを感じさせるシャープな顔つき。


 モデルでも通用しそうなほど整ったスリムな体型。


 スカートから伸びる陸上競技で鍛えられたしなやかな脚。


 一言で言ってしまえば、カッコいい。


 ただその一言に尽きる風貌。


 樹希が自分と比べて勝手に落ち込みそうになる程完成された見た目をしているヒーローは、これで女の子なのだから、樹希にはため息をつくことしか出来ない。


 彼女こそがヒーローこと、立川たちかわ沙耶さや


 樹希の幼馴染にして、唯一樹希が心を許せる人物だった。


 小さい頃から共に長い時間を過ごし、樹希の境遇を分かってくれている沙耶。


 沙耶はその頼りがいのありそうな風貌通りに面倒見がよく、昔から樹希の事を心配してくれていた。


「樹希、私いつも言ってるよね? 学校に来たらまずは私の所に来てって」


 無の表情で語り掛けて来る沙耶は、相変わらず仁王立ちでで樹希を見下ろしてくる。


 樹希はすぐに視線をそらした。


 こういう時の沙耶はかなり怒っていると経験から分かっているからだ。


「ご、ごめんね沙耶」


 沙耶が怒っている時は素直に謝るのが一番。


 経験則からそれを知っている樹希は、すぐに頭を下げた。


 下手な言い訳をせず、しっかりと謝れば沙耶は許してくれる。


 むしろ樹希が沙耶との約束を破ったのだから、頭を下げるのは当然だ。


「……ゆる~して、あげる」


 まだ何か言いたい事がありそうな様子の沙耶。


 それでも結局は頭を下げる樹希には何も言えなかったのか、樹希の思っていた通りに許してくれた。


 少し乱暴に頭を撫でられて、樹希は顔を上げる。


「あはは、ありがとうございます沙耶様」

「そういうのはいいから、なんで来なかったのよ。私朝練終わってからずっと待ってたんだからね」


 沙耶が言う朝練とは、所属している陸上部のものだ。


 沙耶は毎日のように朝練に参加するため、早くから学校に来ていて、樹希が登校する頃には絶対に学校にいる。


 そんな沙耶から現状を心配されている樹希は、毎朝部室に来るよう誘われていた。


 樹希が一人で教室に行くのが心配な沙耶は、朝練が終わった後はギリギリまで一緒に過ごして、少しでも傍にいてくれようとしているのだ。


 そんな沙耶の気遣いは樹希にとって素直に嬉しいものだった。


 だが樹希も何度か見た事はあるのだが、沙耶は朝からそれなりにハードそうな練習をこなしていた。


 高校生活三年目。もうすぐ部活も終わりに近づいている。


 練習にも熱が入るだろう。


 だからこそ、樹希は一生懸命に練習に取り組む沙耶の邪魔になっていないかと気が引けたのだ。


「その、沙耶は忙しいかなぁと思って、僕なりに気を遣ったといいますか」

「いや、いつまで待っても来ないから逆に心配になって気が気じゃなかったから。全然練習にも身が入らなかったし……せめて学校に着いてる事くらいは知りたいってば」

「だ、だよね。少しでも顔を見せた方がよかったよね」

「一人で教室に行ったらああなっちゃうの分かってるでしょ? だから私が付いて行くっていつも言ってるのに」

「ごめんね沙耶。僕ってホントいつも沙耶に迷惑かけてばっかりでダメな奴だね」

「ぁ……ごめん、言い過ぎた」


 頭を乱暴にかいた沙耶が頭を下げてきた。


 急にしおらしくなった沙耶に樹希は慌てずにはいられない。


「ちょ、沙耶! 悪いのは僕だから」

「そんな事ないよ。樹希だって私の事を考えてくれたんでしょ。なのに私は、樹希の気持ちを考えようともしないで、一方的にいろいろ言っちゃったから」

「いいんだよ。それこそ沙耶が心配してくれてるって事だし、僕は嬉しかったよ」

「……さっきの、教室での樹希を見てたらいろいろと我慢できなくて、ホントごめん」

「沙耶……ありがとう。今度からは朝練が終わるのちゃんと待ってるから」

「うん。お願いね、じゃないと私、樹希が心配で練習もサボっちゃうかもよ」

「えぇえ!? そ、それはダメだよ! ちゃんと行くからサボっちゃダメだからね!」

「ぷっ、樹希ったら慌てすぎでしょ」

「あ、笑ったね! だって沙耶が急にあんな事言うから!」


 樹希は楽しかった。


 こうして素の自分を出せて、遠慮せずに会話ができる相手は、樹希にとって沙耶一人だけ。


 幼い頃からいつも一緒にいて、いつの頃からかヒーローになっていた沙耶は、樹希にとってただの幼馴染という言葉では表しきれない。


 樹希にとって沙耶は唯一の希望。


 鳥籠から樹希を救ってくれるかもしれない、ただ一人のヒーロー。


 だから、樹希は沙耶と一緒にいる時間が人生の中でどんな時間よりも好きだった。


 沙耶も慌てる樹希を見て、楽しそうに笑っている。


 いつまでも沙耶と二人の、こんな時間が続けばいい。


 樹希がそんなふうに願うのは当然のこと。

 

 だが、




「日野君、立川さん? こんなところでどうしたの?」


 そんな些細な願いですら、神様は叶えてくれはしない。

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