第5話 黒い羊①


 登校した樹希が教室に入った途端、辺りの状況は一変した。


 樹希が教室に入る前、廊下まで聞こえていたクラスメイトたちの談笑は、今は水を打ったように静まえり替えっている。


 それはまるで、耳が急に聞こえなくなったのかと錯覚する程の急変。


 当然だが、樹希の耳が唐突に聞こえなくなったわけではない。


 樹希が教室に入ってきたのを見たクラスメイトたちが、その瞬間にお喋りを止めたのだ。


 恐ろしいほどのその徹底ぶりは、まるで統率された軍隊のようにすら思える。


 クラスメイト達はそれだけの一体感を持って、あえて喋るのを止めていた。


 樹希は教室中から威圧感を感じていた。


 一瞬にして静寂に包まれた教室の中、樹希は意を決して歩みを進める。


 目指しているのは、窓際の一番前の席。


 そこが樹希の席だからだ。


 突き刺さるような視線を受けながら、樹希は床だけを見て自分の机を目指す。


 無事に辿り着いた後は周りの様子を気にせず腰を下ろし、鞄から教科書等の荷物を取り出して授業の用意を始めた。


 気にしないようにと自分自身へ言い聞かせ、余計な物を見てしまわないように、ただ自分の物と机だけに視線を向ける。


 だが、樹希がそこまで徹底したとしても無駄な努力であると言わざるを得ない。


 樹希が席についてすぐ、静寂に包まれていた教室に音が戻ってきた。


 それは決して樹希が来る前の賑やかさが戻って来たわけではない。


 樹希の耳に入って来たのは、聞くに堪えない醜い音だ。


 コソコソと、ヒソヒソと、樹希を伺いながら話すクラスメイト達の小声。


 教室中のクラスメイト達があちこちで呟きあい、その全員が樹希に白い目を向けて、どうしてこんなやつがここにいるんだと、そういう視線を投げかけて来る。


 だから樹希は教室を見ない。


 まるで汚物でも見るような沢山の視線を直視してしまうと、自分が本当に人間なのか自信がなくなるからだ。


 だがそれでも、聞こえてくる喋り声だけはどうしようもない。


 喩え一つ一つが小さな呟きで、それ自体は耳を澄まさなければよく聞こえない大きさだったとしても、それが教室中の至る所から聞こえてくるとなると、雑な合唱のように響いてくる。


 耳を澄ませる必要なんてないほどに、悪い言霊が樹希の耳に入って来るのだ。


「……今日も来たよアイツ」

「また高級車で送られてきてたみたいだよ」

「何それウザッ」

「わざわざ学校の敷地にまで入って来てんだから見せつけてんだろ、金持ちのボンボンだからねぇ」

「国立君が言ってたけど、ウチらのこと貧乏人って見下してるらしいもんね」

「サイテー。何様のつもりだよ」

「でもさ、あいつ、マザコンなんだってよ」

「ブフッ…………それマジ?」

「ママと仲良くお手て繋いでるらしいな」

「国立から聞いたけど、アイツ毎日ママに行ってきますのキスしてんだってよ」

「うぅわぁ~、キモッ、鳥肌立つわ」

「金持ちのボンボンでマザコンか、やべぇな」


 聞きたくもない陰口が、樹希に向かってこれでもかと飛んでくる。


 それは弾丸だ。


 一つ一つの言葉が樹希の心に穴を開ける。


 樹希は別にこんな目に合っても気にしない程心が強いわけではない。むしろすぐに心がやられそうになるくらい弱い。


 だから樹希は自分の心をまもるために、すぐにイヤホンを耳に嵌めた。


 こうしてクラスメイト達から撃ち殺されそうになるのは毎日の事で、こうなる事が分かっている樹希には、イヤホンは学校での必需品だった。


 クラスメイトたちのキツイ視線を見たくなければ、見ないようにすればいい。


 クラスメイトたちの嫌悪のこもった言葉を聞きたくないのなら、聞かないようにすればいい。


 樹希はこの状況を何とかしようと思うのではなく、見ないふりと聞かないふりをする。


 それが樹希にしみついた人間性。


 幼い頃から理恵に支配されてきた樹希は、誰かに逆らおうと思えない。


 自分のおかれた厳しい状況を打破しようと思えない。


 だからこそ、我慢してやり過ごそうとする。


 だが、それも日に日に限界が近づいていた。



 居心地の良くない……いや、はっきりと言えば居心地の悪い教室。


 これが理恵とやっとの思いで離れてやって来た学校だ。


 別に暴力などの直接的な虐めをされているわけではない。


 だが、見ての通り樹希はクラスの鼻つまみ者だった。


 存在を疎まれ、嫌な視線を向けられ、影で散々に罵られる。


 直接樹希を虐めるような人がいないのは、それだけ樹希と深く関わろうとする者がいないということ。


 皆が遠巻きにして直接関わろうとせず、ただただ樹希の存在を疎んでいる。


 樹希は、このクラスの厄介者なのだ。


 樹希は誰とも遊ばない。クラスメイト達の集まりにすら参加しない。


 だから付き合いの悪い奴だと言われるようになった。


 樹希は誰とも一緒に登下校しない。毎日高級車での送迎つき。


 だから金持ちの特権を見せつけて来るウザい奴だと言われるようになった。


 樹希は教師からはかなり目を掛けられている。どの教師も樹希には声をかけ、何をしていなくても褒めていく。


 だから金で教師を買収してる最低な奴だと言われるようになった。


 特に仲良くもないクラスの人間が、こんなにも優遇されている所を見たら、誰だって少なからず羨むだろう。


 渦巻く嫉妬の感情。


 だが、教師にやたらと目を掛けられている樹希には迂闊に手出しもできない。


 だからこその厄介者扱い。


 もしこのクラスにそれを止めてくれる友達がいれば、樹希の状況も少しは変わっていたのかもしれない。


 だが、実際にいないのだからそんな事を考えてもどうしようもない事だった。


 そうして留まることなく膨れ上がった嫌悪の感情が、今樹希に向けられている。


 こうなる前に、樹希はしっかりと言うべきだった。


 自分が望んでいるわけではないのだと。


 だが、言えるわけもなかった。


 誰とも遊びにいけないのは、母親に止められているから。


 そんな事を言えば、この歳になっても母親にまったく逆らえないなんて情けないと貶されるだろう。


 毎日送ってもらっているのも、自分でお願いしているわけでもない。


 それを言ってしまえば、頼んでもないのに送ってもらえるほど恵まれているのだと羨まれるだろう。


 教師が目を掛けてくれるのも、実際には母親である理恵の影響だ。樹希は知らないが、実際に金を使っているのかもしれない。私立であるこの高校の理事会にまで、理恵は顔が利くのだから。


 どんな言い訳をしたところで火に油だろう。


 だから樹希は何も言えない。


 ここまで樹希が厄介者扱いされてしまうようになった経緯には、いろいろと原因がある。


 主な原因は嫉妬を生む要因を全て作り出している母親の理恵だが、樹希自身にも問題があると言っても間違いではない。


 だが、一番大きな要因は別にあった。


 樹希が俯いて机だけを見ていた時、急にイヤホンが引き抜かれた。


「よぉ樹希、相変わらずの愛想がないな。挨拶くらいしないといつまでも皆と仲良くなれないぞ」


 そう言って笑顔で語り掛けて来るこの男こそ、樹希を取り巻く環境がこうなってしまった一番の要因だった。

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