第4話 朝の奉仕②


 理恵の着替えを手伝ってからも、樹希の役目はまだ終わらない。


 鏡台の前に座った理恵の髪を整え、それが終われば日によってはゴミ出しもする。


 出発前に朝食後の後片付けもしなければならないのだからかなり忙しい。


 ちなみに、樹希が慌ただしく動いている間、理恵は座って樹希を見ているだけで何も手伝ってはくれない。


 長い脚を組んで偉そうに座り、樹希が動く姿を余すところなく眺めているだけ。


 もちろん樹希は文句なんて言わない。


 自分が理恵のために一生懸命に動いていれば、それだけ理恵も穏やかになり、樹希も心労が減るからだ。


 それが根本的な解決になどならない事を知っていながら、それでも樹希はそうする事しかできなかった。




「じゃあそろそろ出発しましょう」

「はい、今日もお願いします理恵さん」


 全ての家事をやり終えて、それからようやく登校する樹希。


 だが、ここまできてもまだ理恵から解放されたわけではない。


 樹希は理恵の車で登校しなければならないからだ。


 これは小学生の時から一貫して変わらない日野家の習慣だった。


 小学校から今の高校まで、樹希はこれまでの人生で歩いて学校まで行ったことはない。


 理恵が許さないからだ。


 学校への行き帰りは必ず理恵の車。


 だから樹希は、登下校を友達と共にしたことが一度もない。


 皆が楽し気に友達同士で帰って行く姿を、樹希はいつも車の中から見ている事しかできなかった。


 そんな感傷的な気持ちも、樹希はすぐにしまい込む。


 理恵と一緒にいるかぎり気を抜けるタイミングなどないからだ。


「理恵さん、鞄は僕が」

「えぇ、お願いするわね」

「それと、その……手を、繋ぎたいのですが」


 おずおずと、本当は言いたくもない事を樹希は口にする。


 無理を重ねて樹希がこんな事を口にするのは、これを言うと言わないとでは、理恵の機嫌に雲泥の差が出る事を知っているからだ。


「いいわよ。本当に樹希はいつまで経っても甘えん坊なのね」

「ご、ごめんなさい理恵さん」

「謝る事じゃないわ。それだけ私の事が好きなのでしょう?」

「……はい、そうなんです」


 貼り付けた笑顔を崩さないように樹希は表情筋を硬くする。


 樹希は今一度でも笑顔をやめてしまったら、もう二度と笑えないような気がした。


 樹希の受け答えに満足したらしい理恵は、自ら樹希の手を握ってくる。


 たが、ただ手を繋ぐわけではない。


 まるで恋人にするかのように、指と指を絡めてくる理恵。


 樹希はこわばる手を無理やり動かし、理恵の手をしっかりと握りしめた。


「じゃ行きましょう」

「はい、理恵さん」


 理恵と手を繋いでマンションの通路を歩く。


 駐車場に向かうまでに、理恵はエレベーターで出くわした同階のおばさんと軽く挨拶を交わしていた。


「おはようございます。いつも仲がよろしいのですね」

「えぇ、樹希は本当に私の事が好きですから、中々親離れできないようで少し困ってるんですよ」

「あら、日野さん。それは贅沢な悩みですよ。家なんて反抗期で」

「それは大変ですね。樹希は反抗期なんてありませんでしたから、出来た息子に好かれて私は幸せものですわ」


 微妙にマウントを取る理恵の会話を横で聞きながら、樹希は愛想笑いを浮かべて適当に頷いた。


 本当なら、こうして手を繋いでいる姿も見られたくはなかったけれど、どうしようもなかった。



 家から学校までは車で数十分。


 その間も樹希はもちろん理恵と二人きりだ。


 家にいる時とはまた違い、ここは車内。


 逃げ場のない狭い空間に、苦手な母親と一緒にいるこの時間が、樹希には何よりも苦痛だった。



「着いたわよ樹希」


 地獄のような数十分を耐え、ようやく学校に到着した樹希。


 だが、今の樹希にはやっと解放されるという希望は微塵もない。


 最後にやらなければならない事があるからだ。


「今日もわざわざ送ってくれて、ありがとうございます理恵さん」

「いいのよ。樹希のために私がしたくてしているんだから」

「……僕のために理恵さんがここまでしてくれるのが、本当に嬉しいんです」


 樹希は震えそうになる手を無理やりコントロールして、自ら理恵の手を握った。


「あらあら、樹希は本当に私が好きなのね。じゃあはい、いつもの、してちょうだい」


 嬉しそうに笑う理恵が頬を差し出してくる。


 皺ひとつないハリのある頬を自慢げに見せつけて来る理恵。


 そんな理恵を前にして、樹希はそっと目を閉じ、必死に自分の心を殺し……理恵の頬に口づけをした。


「んっ……」


 甘い理恵の吐息が車内に響く。


 樹希は口を拭いたくなる衝動を必死に我慢して、理恵に微笑みを向けた。


「行ってきます理恵さん」

「……待ちなさい樹希」


 息子からのキスに目をとろけさせた理恵に樹希は胸元を掴まれた。


 次の瞬間には、強引に理恵に引き寄せられ、頬に生暖かい何かの感触を感じ、樹希はまた身体の震えを抑えられなかった。


「ふふ、震えちゃってるわよ。そんなに私のキスは気持ちよかったかしら? 心配しなくてもいい子にしてれば夜も家でしてあげるわ」


 そんな悍ましい言葉を残して、理恵は仕事に向かって行った。


 樹希は車が見えなくなるまでその場で見送り続ける。


 学校の敷地の中まで高級車で送られてきた樹希は、少なくない注目を集めているが、それを気にして理恵の見送りを止めるわけにもいかない。


 樹希には、どうして理恵がこんな事を自分にさせるのかがまるで理解できなかった。


 息子である自分にこんな事をさせる理恵の気持ちが樹希には分からない。


 だから嫌悪感は募るばかり。


 それでも理恵が怖い樹希に逃げ出すことなんでできず。


 いつまでも、理恵の鳥籠で飼われる日々。


 鳥籠の中の人生に、樹希は希望を見いだせなかった。


 だから外に逃げ出したいといつも思っていた。


 だが、樹希には自分では鳥籠を開けることはできない。


 理恵に対する恐怖で縛られた樹希は、自分一人では理恵に逆らおうとすら思えない。


 だからこそ、樹希は自分を助けてくれる誰かをずっと求めていた。


 誰かがこの鳥籠から自分を連れ出してくれるかもしれない。


 そんな夢のような事を考えるのが、樹希の唯一の希望の持ち方だった。

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