第2話 飼い主


 悪夢にうなされていた樹希が目を覚ました時、時刻はまだ朝の4時になる前だった。


 まだ薄暗い部屋の中、時間を確認するために着けたスマートフォンの画面がいやに眩しかったが、それでも樹希の陰鬱な気分を明るくしてくれるわけではない。


 汗で湿ったパジャマの感触が気持ち悪く、樹希はすぐにベットから起き上がった。


 本来ならばもう少し寝ていてよい時間帯。だが、樹希はもう一度寝る気にはとてもなれなかった。


 夢で見た過去の記憶がまだ脳にはっきりとこびりついている。


 樹希が忘れたいと思いつつも、片時も忘れる事ができない悍ましい記憶。


 それは、力一杯こすっても取れないドス黒いカビ。


 理恵にされてきた記憶は、樹希の脳に蔓延るカビだ。


 脳の奥深くにまで根を張り、表面をこすったところで取り去ることは絶対にできないもの。


 樹希はあの時の全てを今でも鮮明に覚えている。忘れることなんて、到底できるはずもない。


 鼻息の荒い母が漏らす気味の悪い吐息。


 自分が咥えこんだ母親の足の臭いと、汗の酸っぱい味。


 足を咥えた瞬間に胸の奥からこみ上げて来た何かの痛み。


 あの時、樹希は必死になってこみ上げて来るものを飲み込んだ。


 もし吐き出してしまえば、自分がどんな目に合わされるかと、そう考えると怖かったからだ。


 だから吐き出して楽になってしまいたい気持ちすら我慢して、何度もせり上がって来る何かをその度に飲み込んだ。


 だが、今はそんな事はしない。


 母が目の前にいない今、樹希は部屋を出てトイレに駆け込んだ。


 過去の記憶と共に胸の奥からこみ上げて来るものを樹希は感じていたからだ。


「……うっ」


 トイレに鍵をかけると同時に、口に溜まっていたものを便器に吐き出す。


 できるだけ静かに、母に聞こえてしまわないように気を付けながら。


「ハァ、ハァ…………朝ごはんの用意、しないと」


 落ち着くまで吐き出したあとは、もう寝る時間なんてない。樹希にはやらなければならない事があるからだ。


 今日もこうして、いつもと変わらない樹希の一日は始まった。




理恵りえさん、起きていますか?」


 樹希はドアを控えめにノックして、部屋の中にいるであろう人へ呼びかけた。


「起きてるわ。入ってらっしゃい」


 返事はすぐに返って来た。それを確認してから、樹希は丁寧にドアを開けて部屋の中へと踏み込む。


「おはようございます。理恵さん」

「おはよう樹希」


 ベットに腰掛け不敵な笑みを浮かべながら樹希を待っていたのは、樹希の母親の理恵だ。


 樹希の実の母親。


 そして、樹希の支配者にして、飼い主。


 理恵は見た目だけ見れば、どんな人でも思わず見とれてしまう程の美貌を持っている。


 瑞々しい白い肌。


 皺ひとつない整った顔。


 薄いルームウェアを内側から押し上げる豊満な胸。


 下半身は黒の下着だけの煽情的な姿で、その長く綺麗な脚を大胆に組んで惜しげもなく披露している。


 ぱっと見ただけでは……いや、じっくりと見ても理恵が四十代の子持ちの母親だとは誰も思えないかもしれない。


 理恵の見た目はそれほど若々しく保たれている。


 そんな世の中の男が見れば興奮ものの格好をした理恵が、艶のある長いブラウンの髪を手でかきあげ、挑発的な視線を樹希に向けて来る。


 何かを期待して、求めているような瞳。


 こういう時何を言うべきなのか、昔の、まだ幼かった頃の樹希には分からなかった。


 だが今は違う。


 高校生になった樹希には、しっかりと母親が求めているものの答えが分かっていた。


「今日も、綺麗ですね理恵さん」


 しっかりと理恵の瞳を見つめ、名前を呼んで微笑みかける。


 樹希が自分の母親を名前で呼び、まるで彼女に見惚れるかのように理恵の容姿を褒めるのは、そうする事を幼い頃からずっと求められてきたからだ。


 素肌を晒している時は、褒める。


 二人きりの時は名前で呼ぶ。


 お母さんなどと呼ぼうものなら、よくて罵声か、悪ければビンタが飛んでくる。


 何度もそれを経験した樹希は、だからこそ今では理恵の機嫌を損ねないように必死だった。


 だが、樹希は間違っても嫌々言っているという態度は表に出さない。


 あくまでも、心から理恵を綺麗だと思っていると、自分自身に必死に言い聞かせて笑顔を浮かべるのだ。


「ふふっ、そうかしら、ありがとう樹希」


 樹希の言葉を聞いた理恵は、そのキツイ目つきを少しだけ緩ませて満足気な様子になった。


 そんな理恵の様子に樹希は心の中で安堵する。


 もし嫌々言っている事がバレてしまえば、どんな折檻をされるか分からないからだ。


 幼い頃から理恵にされてきた数々の行為のせいで、樹希はもう理恵には逆らえない。


 樹希は理恵が嫌いだ。


 やりたくもない事を強要される毎日で、理恵に対する樹希の嫌悪感はどこまでも高まっていた。


 理恵から離れたくて、逃げ出したくて仕方ないのに、それでも樹希は理恵を拒絶したり、拒否することができない。


 ただ理恵が怖くて恐ろしくて、沢山のトラウマを抱える樹希は、理恵に逆らおうとすら思えないのだ。


 理恵の怒りに触れてしまわないように、理恵のご機嫌をとって、樹希が理恵にとって都合のいい人間として生きる事しか出来なくなってから、もう随分と経っている。


 こうして、今日も樹希は理恵の機嫌をとって、心にもない事を言いながら必死に笑顔を浮かべるのだ。


「もう朝食もできてますから、一緒に食べましょう理恵さん」

「わかったわ……樹希、ちょっとこっちにいらっしゃい」


 立ち上がった理恵に手招きされる。


 何をされるのかと恐怖心を感じながら、それでも樹希は内心の動揺が表に出ないように細心の注意を払い理恵に近寄った。


「いつもありがとう樹希……愛してるわ」


 うっとりとした表情の理恵に頬を撫でられる。


 その瞬間、思わず樹希は身体が震えてしまった。


 理恵に頬を触れられた気持ち悪さを我慢できず、背筋に鳥肌が立ってしまったのだ。


 何よりも理恵の口からでた「愛してるわ」という言葉。


 その悍ましさは、もう樹希には吐く物が残っていないというのに、思わず何か、そう、内臓でも吐き出してしまいそうな程。


 しっかりと震えてしまい、樹希がまずいを思ったときにはもうごまかしようがなかった。


 理恵からのスキンシップを嫌がったことを覚られたら、激しい折檻が待っているのは確実だろう。


 服の中で冷や汗をたらしながら、樹希は自分より背の高い理恵を恐る恐る上目遣いで見上げた。



「ふふっ、どうしたの樹希? 私に触られたのがそんなに気持ちよかったのかしら?」


 樹希にとっては幸運なことに、理恵は機嫌よさそうに笑っていた。


 どうやら樹希の震えを、理恵は快感ゆえにと勘違いしてくれたらしい。


 そんなわけないと心の中で悪態をつきながらも、樹希はその幸運には飛びついた。


「ご、ごめんなさい理恵さん。理恵さんの手の感触があまりにもその、気持ちよくて」

「あら、これでも最近は手入れが大変なんだけど、頑張ってる甲斐があったわね。でも、残念だけど朝は忙しいからこれ以上ご褒美は上げられないわ」

「いえ、気にしないでください。温かい朝食を理恵さんに食べて欲しいので」

「ふふ、本当に可愛い子ね。じゃあ一緒にリビングに行きましょうか」


 満足そうに歩き出す理恵の背中に続きながら、樹希は静かにため息をついた。

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