黒い羊は鳥籠の中で死ぬ

美濃由乃

第1話 悪夢


樹希たつき、服を脱ぎなさい」


 まだ幼かった日野ひの樹希は、実の母親から言われた言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 いや、正確には言葉の意味は理解していた。


 ただ、どうしてそんな事をしなければならないのかが理解できなかったのだ。


 ここはお風呂ではない。母親の寝室だ。


 深夜に母親の部屋に呼び出されたまだ幼かった樹希には、これから何が始まろうとしているのか、まるで見当がつかなかった。


 ただそれでも、樹希はもう怯えていた。


 樹希は母親が怖かったのだ。


 樹希の母親は、周りからは美人と評判でよく羨ましがられていた。


 たしかに、艶のある長いブラウンの髪をたなびかせ、スタイルのいいその身体に高いスーツを纏う樹希の母親の普段の姿は、男なら誰でも二度見してしまう程の美貌だろう。


 キツイ視線と物おじしない強気な態度も相まって、相当できる女に見える。


 さらに言えばそれは見た目だけではない。


 樹希の母親は会社を経営している本物のできる女だった。


 お金持ちで美人の母親。


 周りの人間からすれば、それは羨む対象だ。


 ほとんどの人間が欲しがるだろう。


 だが、樹希はその母親が怖かった。


 家では高圧的な母親に、樹希はいつもこき使われていたのだから。


 身長の高い母親に、そのキツイ目つきで上から睨まれただけで、樹希はもう喋る事も出来なくなる。


 だからこうして母親の寝室に呼び出されただけで、樹希はすでに動揺して眠気なんてとうに覚めていた。


「聞こえなかったの樹希、早く服を脱ぎなさい」


 いつまでも何もしない樹希に、痺れを切らしたような母親の声が飛んでくる。


 少しのイライラが含まれるその声色は、樹希の怯えを増幅させる。


「あ、お母さん、その、なんで服をぬがなきゃいけないの?」

「いいから言われた通りに脱ぎなさい! 何度言わせれば分かるの!?」


 樹希の問かけに帰って来たのは、母親の怒鳴り声だった。


 普段からキツイその視線をより一層鋭く尖らせ、腕組をした母親が上から怒鳴りつけて来る。


 樹希はもう何も聞く気がなくなった。


 慌ててパジャマに手をかけて、できるかぎり急いで服を脱ぐ。


 下着姿になって母を見上げれば、まだ母親は樹希をキツイ目つきで睨んでいた。


 その視線は、まだ充分ではないということだろう。


 これまでの経験からそれを理解していた樹希は肌着も脱いだ。


 これでもう樹希は下着一枚だけの姿だ。


 母への怯えと肌寒さで震える樹希。


 その姿を見ていた母親は、何故か頬を赤く上気させていた。


 怒らせてしまったのかと怯える樹希の前で、母親が自分の着ている衣類に手をかける。


「それでいいのよ樹希。お母さんに言われた事は、ちゃんと守らないとね」

「ぅ、うん。ぼく、お母さんの言う事はちゃんと守るよ」

「それでこそ樹希よ。樹希はいい子なんだから、お母さんに逆らうなんて馬鹿な事はしないわよね?」

「も、もちろんだよ。ぼくはお母さんの言う事を聞くいい子だよ」

「ふふ。そうよね。樹希はいい子だものね。私の言う事を聞く、私だけの樹希だもの」


 喋りながらも、スーツの上着を脱ぎ棄て、ワイシャツのボタンを一つ一つ外していく母親。


 ついにはワイシャツすら脱ぎ捨てて、腰のベルトを外しパンツスーツをずり降ろす。


 樹希は目の前で下着姿になる母親をただ見ていることしかできなかった。


「どう樹希?」


 薄い下着だけで恥部を隠す母親が、その豊満な身体を見せつけるように樹希に近づいてくる。


 荒々しい息を吐きながら近づいてくる母親。


 樹希はその姿がただ怖くて、じりじりと後ろに下がっていった。


 だが、どこまでも逃げれるわけではない。


 すぐ背中が壁に当たり、もう樹希は下がる事ができない。


「ど、どうってなに? わからないよお母さ――」


 樹希は最後まで喋る事が出来なかった。


 頭のすぐ横の壁を母親が蹴ったからだ。


 耳のすぐ横で大きな衝撃音を聞き、耳鳴りがする。


 樹希は、壁に追い詰められ、もう恐怖で立っていられず、その場にへたり込んだ。


「ねぇ、樹希? 女性がこういう姿を見せている時はね、聞かれる前に男の人から褒めてあげないといけないのよ。今日は初めてだから許してあげるけど、次からはちゃんと覚えておきなさい」


 そう言う母親から頭を撫でられる。


 優しいその手つきですら、樹希には恐ろしくて仕方ない。


 俯いた樹希はもう母の言いなり、ただ許しを請う存在だった。


「……返事は!?」

「ひっ!? は、はい! わかりました! お、お願いだから許してください」

「……いいのよ樹希。ちゃんと返事ができればそれでいいの」

「は、はい! ちゃんと返事します! しますから」

「じゃあ、これからお母さんが言うことにもちゃんとお返事して、全部言われた通りにするのよ。いいわね?」

「はい、はい、許してください。ちゃんとします」

「よかったわ。流石樹希は私の子供ね。じゃあ……お母さんの足を舐めてちょうだい」

「はい…………ぇ?」


 樹希が顔を上げると、目の前には母親の足があった。


 すらりと伸びる長い脚を上げた母親は、鼻息を荒くして樹希を見下ろしている。


「ぇ、ぁ、お母さん? どうして?」

「何度言わせるの樹希!! いい子ならお母さんの言う事にはすぐに頷きなさい! 悪い子ならお仕置きするわよ!」


 それは樹希が聞いた中でも一番の大声だった。


 癇癪を起したかのような母親は、もう何かを我慢できないのだろう。


 とにかくすぐに言われた通りにしなければ、自分はもっとひどい目に合わされるのだと、樹希は幼いながらにそう直感した。


「やります! やりますからお仕置きしないで! ゆるしてくださいお母さん!」

「なら、早く私の足を舐めなさい。丁寧に、しっかりと綺麗にしてちょうだい」


 樹希の顔の前で、母が脚の指を開く。


 その瞬間、鼻をつくような酸っぱい刺激臭が樹希を襲った。


 それでも樹希は嗚咽をこらえ、涙を目に溜めながら母親の足を手に取る。


 丁寧にかかとを支えて、口を開き、母親の親指をその口に咥えた――。




 これは樹希の過去。


 いつまでも消えることのない悍ましい記憶。


 それは高校生になった今でも、樹希の心を現在進行形で蝕んでいる。

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