ンヒヒ、いつになったら先輩は傑作ってやつを書き上げるんですか?

春海水亭

後輩からファンになるまで

***


「へへ、先輩ったらワルですねぇ。校則ではお菓子持ち込み禁止ですよぉ」

「高校にタバコ持ち込むより百万倍もマシだろ」

 入来いりき比奈ひなは手に取ったタバコを箱に戻してから、その代わりに俺が差し出したココアシガレットを人差し指と中指で挟んだ。

 カリ。

 ココアシガレットを僅かに齧った後、厚手の制服を着た入来比奈煙を吐くように思いっきり息を吐く。

 肺の中にあった透明なものが、冬の空気にあてられて白く染まる。


「ハァ~……」

 入来比奈は何度も息を吐いて、愉快そうにンヒヒと笑った。


「室内ですよぉ、室内。室内なのにこんなに息が白くなることってあります?」

「今、ここで、あるだろ」

 この部屋に暖房はない。

 電気は通っているが、家から持ち込めるような暖房器具を俺は持っていないし、入来比奈もそんなものを持ってはいないだろう。

 誰も使っていない部屋だ。

 教師どころか、学校自身ですらその存在を忘れてしまっているのかもしれない。

 俺はそんな部屋で、勝手に小説を書いている。

 どこかガタついていてバランスの悪い会議室テーブルに原稿用紙を置き、座ることが申し訳なるような薄っぺらいパイプ椅子に体重を預ける。

 指先の冷たさを無視して鉛筆を持つ。


「せんぱぁーい、今日は何を書くんですかぁ?」

「知らねぇ」

 実際、俺は自分が何を書くかわからない。

 小説を書きたいというなんとなくの思いだけを持っているが、それが具体的な形になったことは一度もない。

 世界の始まりは原稿用紙と一緒にグシャグシャに丸められてゴミ箱に投げ捨てられる。何も生み出さないくせに俺はミステリー作家よりもよっぽど人を殺しているのかもしれない。


「完成したら読ませてくださいね先輩、完成したら、で良いんですけど」

 挑発的にンヒヒと笑って、入来比奈はココアシガレットを弄ぶ。

 

「あぁ、完成したらな」

 入来比奈におざなりな返事をしながら、俺の頭は四千年も終わること無く続く銀河戦争を思い描く。

 何一つとして具体性はない。


『その戦争は四千年続いていた――』


 良い書き出しのような気がするが、そうでもないように思える。

 そもそも何も決まっていないのだから、何も書きようがないのだが。


『宇宙の誰もが一つの星と莫大な争いを持つ時代のことだった』

『人間は光よりも速く移動する手段を見つけたが、戦争のゴールに向かうにはあまりにも鈍い歩みであった』

『宇宙人は激怒したが地球人も大概キレていた』

 

 書き出しだけが、原稿用紙を埋めていく。

 世界は様々な言葉で始まりたがっている。

 しかし、何一つとして始まらない。


「先輩」

 冷たくて硬いものが俺の頬に触れる。

 ココアシガレットだ。

 そして、そのすぐ近くに蝋のように白い入来比奈の顔。

 両唇で挟んだココアシガレットで俺の頬を突いたのだ。


「な、なんだよ!」

 思わずどぎまぎしながら応える。

 少し食んだココアシガレット。

 俺の頬に入来比奈の唇が届くまでの距離はおそらく52ミリメートルよりも近い。


「いいですね、これぇ。タバコで先輩を突いちゃうとぉ……先輩火傷しちゃいますから」

「あんま俺をおちょくるなよな!」

 ンヒヒと口の端を釣り上げて、入来比奈が笑う。


「でも、まんざらでもないですよね」

 冬の空気は冷たくて、乾いていて、だから熱に気づきやすい。

 耳が赤く染まっていることが感覚でわかる。


「うるせぇ……」

 入来比奈から顔を背ける。

 視界に入った半分ほど埋まった原稿用紙は真っ白と大差はない。


「でも、私だって先輩とならまんざらでもないんですよ」

 入来比奈が親指と人差し指で挟んでココアシガレットを俺に突き出す。

「なんの真似だ」

「ポッキー……じゃないですね、ココアシガレットゲーム。知ってます。お互いに両端から食べていくんです」

 そう言って、入来比奈がココアシガレットを食んだ。

 桃色の唇は薄く、乾いている。


『キスしましょう、先輩』

 言葉を発さないはずのすぼめた唇が、音を発した気がした。


***


「誰だよ」

「あっちゃあ……見つかっちゃいましたね」

 七ヶ月前、入来比奈は当然の権利のようにこの部屋でタバコを吸っていた。

 ちょうどよい部屋だと思ったのだろうか。

 校内であればタバコを吸うのにちょうどよい部屋など一つとして無いと思うが、入来比奈の考えることで俺にわかることは大してないのだ。


「あっ、一年の入来比奈です」

「名前言うかぁ?フツーさぁ」

 見つかったからといって特に慌てる様子もなく、入来比奈はパイプ椅子に座ってタバコの煙を室内中に漂わせている。

 俺は入来比奈の正面にパイプ椅子を置いて、進路指導の教師のように向かい合った。


「で、どうするんです……私のこと誰かに言ったりします?」

 春だというのに入来比奈は厚手の長袖の制服を着ていた、極端な寒がりというわけではないのだろう。その顔にはじんわりと汗が滲んでいる。


「いいよ、別に」

 それだけを言うと、俺はパイプ椅子を90度回転させて、会議室テーブルに向ける。

 入来比奈から顔を背けて、書きかけの原稿用紙を見る。

 前回まで書いた内容を読み返しながら、続きを考える。

 その日の俺は筆――いや、鉛筆が最高に乗っていた。


「えっ」

「仲間とか連れてくるなよ、小説を書く邪魔になるから」

 カリ。カリ。カリ。

 頭の中のイメージが、そのまま腕を動かしてこの世に生まれたがっているようだった。止まること無く腕が動く、鉛筆を削る時間すら勿体なくて、俺は鉛筆を何本も会議室テーブルの上にぶちまける。


「あのぉ……」

 入来比奈がおずおずと俺に声をかけてきた。

 入来比奈におずおずとなどという形容を使うのは、この一度だけだ。


「小説書いてるんですか」

「あぁ」

「どんな小説ですか?」

「わからねぇ」

 ひたすらに文字を書き連ねていくと、原稿用紙の中の世界は無限に膨れ上がっていって、言葉ではとても言い表せなくなる。俺自身すらこの物語の結末を知らない。

 だが、高校生特有の全能感なのだろうか。

 傑作になるという確信だけはある。


「完成したら……読んでもいいですか?」

 入来比奈はその日だけ、袖をめくっていた。

 五月の暑い日だったから、しょうがない。

 だったら最初から春服を着てくればいいのに、なんてことは言えない。

 彼女は隠すために長袖を着ていたのだ。

 彼女の薄く白い肌には何本も何本も傷があった。まだ跡にはならない新しい傷が。肉を深く抉る傷が。

 偶然にそれを見てしまったからと言って、俺に出来ることは何もない。


「いいよ」

「じゃあ、完成するまで待ってますね」

「……ああ」

 俺が入来比奈の言葉に返事をするまで、僅かに間があった。


「あと、この部屋のことは二人の秘密ってコトで……ンヒヒ、私もタバコ吸える部屋が欲しかったんですよ」

 入来比奈の言葉に、俺の手が止まる。

 突然、誰かが俺の想像力を取り上げてしまったかのようだった。

 見えていたはずの順路が突然と消えて、俺は原稿が書けなくなってしまった。


 俺は今でも考える。

 俺が作品を書けなくなってしまった理由を。

 その答えを、心はとっくに確信しているというのに。


***


 俺は入来比奈を無視して、原稿用紙に向かう。

 入来比奈は不服そうに唇を尖らせて、俺の耳元で囁く。


「……したくないんですかぁ?私とチッス」

 そう言って、入来比奈はチュッチュと舌を打つ。

 俺は返事をしない。

 頭の中で思い描いた宇宙戦争の書き出しをひたすらに書き連ねる。


「ンヒヒ……それともタイムリミットが来たと思いましたか、先輩」

 俺は入来比奈の袖の下を出会い以来、一度も見たことがない。

 けれど不思議な確信がある。

 傷跡になってしまったものに重ねるようにして、今もなお新しいものは増え続けている。

 煙は血を隠さない。


「先輩が小説を完成させるまで、私は待ってる……それは私が先輩の小説を読むまでは死なないってことですよね」

 原稿用紙の全てのマス目を書き出しだけが埋め尽くす。

 そんな作品があるわけがない、俺は原稿用紙をぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放り捨てる。


「……タバコ、私に辞めてほしくなったんですよね、先輩。ココアシガレットなんて渡して……私がゆるやかに自殺してるのを止めようとしたんですよね」

 ンヒヒと入来比奈が笑う。

 いつもどおりに、どこか悲しげに笑う。


「でも、駄目ですよ先輩……締め切りです。どんな作家にも締め切りはありますよね。私の命にだって締め切りはあるんです……知ってました?吸引性皮下出血キスマークも立派な傷なんですよ?最後は私に先輩の傷をつけてほしかったんですけど、時間切れです」

 そう言って、去ろうとする入来比奈の腕を――俺は気づくと掴んでいた。

 何よりも強い力で。


「なんですか……」

 冬の空気にあてられなくても、入来比奈の吐き出した言葉は白かっただろう。


「延長だ」

 だが、どれほど冷たい言葉を吐き出そうとも、今の俺を止めることは出来ない。

 血の代わりに溶岩が流れているようだった。

 身体の全てが熱を生み出している。


「延長……なんて?」

 入来比奈は戸惑っている。

 だが、俺に一切の迷いはない。

 俺は真っ直ぐに、熱い言葉を、叫んだ。


「延長だ!!!!!!!!!!!!!傑作を完成させるから、お前は締め切りをなんとかして伸ばせ!!!!!」

「ハァ!?」

 入来比奈がゴミ箱から漏れた生ゴミを見るような目で俺を見た。

 だが、そんなことは関係ない。

 俺はもう決めてしまった。


「いいか俺が書く作品はな、傑作……いや超傑作なんだよ!お前の希死念慮を吹き飛ばし、死にかけの爺は読んだだけでベッドから起き上がって筋トレを始め、認知症の婆さんは翌日から東大に合格するための受験勉強を始める!少子高齢化は解決するし!GDPは1億倍になる!ノーベル文学賞……どころの話じゃねぇ!!人類史上初のノーベル賞総嘗めだ!」

「何言ってるんですか先輩」

 呆気にとられた入来比奈の手を取る。

 絡んだ指は冷えていたが、すぐに俺の熱が移るだろう。


「お前がどれほど死を願っても、お前がどれだけ人生を苦痛に思っても、これだけが生きる目的になるような……お前をクソくだらねぇ人生に捕らえて離さないような超銀河級の神傑作を書いてやる!!!」

「あのですね先輩……だから、その手遅れっていうか、そもそも先輩は何一つとして書いてないから、こうなったっていうか……」

「いいかさっきまでの俺には覚悟がなかった……だが、今の俺には全能の傑作を執筆する覚悟がある!じゃあ話は別だろ!!話は別になってんだから締め切りは無効化されたろ!」

 最早、自分が何を言っているのかわからない。

 だが、覚悟を決めた俺の頭の中には物語が溢れていた。

 高校生特有の万能感だろうか、傑作を書けるという確信だけはある。


「だから……お前に作品を読ませる覚悟ができたから……俺はもう逃げないから……もうちょっと待ってくれないか、俺の書いた作品を……お前は絶対に好きになるから」

「……ハァ」

 入来比奈がため息をつく。


「なんか、バカバカしくなっちゃいました……目の前にバカの煮こごりみたいな人がいるんですもん」

 入来比奈がそう言って、ンヒヒと笑う。

 どこか嬉しそうに笑う。


「じゃあ、その傑作が出来るまで……もうちょっと待っててあげますね、先輩」

 入来比奈の蝋のような白い頬に、淡い火が灯った。


***


 人生がそんなに甘いわけがない。

 その後の俺はというと一度でも自分が納得するような傑作を書き上げたことはない。

 当然、俺の小説はGDPや少子高齢化に影響を与えなかったし、ノーベル文学賞も知らん奴が取った。




「ンヒヒ……早く傑作とやらを読ませてくださいよ、先輩」

 それでも、いつか傑作を書き上げられると信じて、俺は熱心なファンに新作を読ませ続けている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ンヒヒ、いつになったら先輩は傑作ってやつを書き上げるんですか? 春海水亭 @teasugar3g

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ