ep7.すりおろし林檎のヨーグルト⑤
先ほど高森の母親から教えられたとおり、玄関に近いほうの部屋の前に立つ。茶色い木目のごくふつうのドアで、ドアの外に目印になるようなプレートなどはかかっていない。
軽くノックをしてみたが、返事はなかった。寝ているのかもしれない。迷ったが、リビングに引き返すわけにもかといってこのままずっとドアの前に立ち尽くしているわけもにいかず、僕はそのままゆっくりとドアを開けるとそろりとなかへ入った。
入ってすぐ、ベッドが目に飛び込んできた。布団が盛り上がっている。規則正しい静かな寝息も聞こえる。やはり寝ていたようだ。
部屋のなかをちらりと見渡す。あまり物はない。壁にもポスターのようなものはいっさい貼られておらず、壁紙の白さが際立っていた。
唯一、ベッドの反対側にある勉強机の上に本が積み上がっているくらいだ。参考書や漫画、小説とごちゃ混ぜだった。ぱっと見、漫画が少し多いだろうか。僕の部屋には大きな本棚があるが、高森の部屋にそれらしいものはない。ふだんからあまり本を読む習慣はないのだろう。
私服がしまってあるのだろう小さめのチェストと、アルミ製のラックにゲームやら雑誌やらが少し入っている。週刊漫画や、ゲームの攻略情報などの雑誌だ。制服は部屋のなかには見当たらないので、おそらく壁際のウォークインクローゼットのなかだろう。
いつぞやの仕返しにエロい本でもないか探してやろうかとちらりと考えもしたが、病人であることを考慮して自制しておくべきだろうと思い直す。
高森はよく寝ているように思ったが、僕がそろそろとベッドの傍に寄って床に座るとうっすりと目が開いた。薄緑色の瞳がゆらゆらと揺らいで僕のほうを見る。焦点が定まるのに少し時間がかかった。夢うつつなのかもしれない。
「……織部?」
細い息とともに僕の名前を呼んだ。
それからようやく意識がはっきりしてきたようで、その視線がしっかりと僕を捉えた。
「……よう、」
小さく声をかけてみる。高森は意外そうに何度か瞬きをした。瞳は表面に水を張って潤んでいる。まだ熱が高そうだ。汗ばんでいて、顔が全体的に赤い。亜麻色の髪が少し汗を含んで濡れ、額の上で縺れていた。その下には冷却ジェルシートが貼られている。
無理しなくていいと言ったが、高森はのろのろとベッドの上に上体を起こした。動作は緩慢で、熱のせいでいろいろな感覚が鈍くなっているようだ。少しふらついたのを支えると、熱っぽい感覚が手のひらを通して伝わってきた。想像していたよりもだいぶ熱い。
「熱は何度あるんだよ」
びっくりして、思わず訊ねた。
「……熱、」
高森は僕の質問を噛みくだくのに少し時間を要した。小さく乾いた声で僕の言葉を反芻する。熱のせいで思考がうまく働かないのだろう。
少し前屈みになって、ベッドの上に放ってあったカーディガンをずるずるとたぐり寄せると袖を通した。汗を掻いているので、そのままでは体が冷えるのかもしれない。
しばらく前方を見つめてぼうっとしている。瞬きというにはゆっくりとした動作で瞼を閉じ、それから開いた。僕は高森の横顔を眺めながらじっと待っていた。高森はそれからようやく僕のほうを向くと、一音ずつ確かめるように喋りはじめた。
「今朝測ったときは、たしか三十九度近くあったかな」
「……ずいぶん高いな」
「今は少し、下がったとは思うけど。昔から高熱が出やすいんだ」
「じゃあまだ寝てろよ」
起こしておいて僕が言う言葉でもないかもしれないが。
「大丈夫だよ。熱がある以外に体調は悪くないから」
「その熱が高いのが問題なんだろう」
「でも、せっかく織部が来てくれたんだし。……まさか見舞いにきてくれるとは思わなかったな」
へらり、と笑う。
それから、ちょっとごめん、と言ってベッドの枕元に置いてあった水のペットボトルを手に取ると蓋を開けて唇を湿らせる程度に飲んだ。蓋を閉めようとしてうまくいかず手間取っているので、僕は高森の手からペットボトルを奪い取るときっちりと蓋を閉めて返した。
「……ありがと」
高森は礼を言って、受け取ったペットボトルをまた枕元に置く。それから僕の顔をじっと見つめて、先ほどと同じようにまたへらりと笑った。
「……何なんだよ」
「織部が見舞いに来てくれたのが嬉しくて」
ぺらぺらとそんなことを口走るのは熱のせいなのだろうか。受け答えは一見しっかりしているが、この状態で思考が正常とは思えない。
「さっき織部がそこに座ったとき、最初夢見てるのかなって思ったんだけど、違った」
僕が思っていたよりもまだ相当に熱が高そうで、あまり長居をせずに辞去するべきだろうと考えていたのだが、そんなふうに言われては立ち去りにくい。取り敢えず迷惑ではなさそうだったことにほっとする。
「……僕が来たことがそんなに嬉しいのかよ」
「うん、嬉しい」
「変なやつだな」
「そう?」
こういうとき誰かが見舞いに来た経験はないのだろうか。中学のころはあまりそういうのに恵まれなかったのだと以前言っていたから、もしかするとそのせいかもしれない。
中学のころの高森のことを、僕はよく知らないのだ。今は、まだ。
「床、じかに座ってたら痛くない? 椅子の上にクッションあるから使ってよ」
そう言って勉強机の椅子を指差す。高森の部屋はカーペットなども敷かれていないので、フローリングが剥きだしだった。
「いや。大丈夫」
「なら、いいんだけど」
「そういえば今日のぶんのノート、コピーしてきた」
ふいに思いだして、僕は脇に置いていた通学鞄を開けるとなかからクリアファイルを取りだした。そこから先ほどコンビニでコピーしてきた束を抜きだす。
「ありがとう。助かるよ」
高森はそう言って笑った。高森に手渡そうとして、ベッドで寝ているのに渡されたところで処理に困るだろうと思い直す。どこかに置いておくべきだろう。どこに置くかを迷い、僕は立ち上がるとけっきょくそれを勉強机の積み上がった本の上に置いた。
「ここに置いとく」
「うん。ありがとう」
それからまた、元の位置に座り直す。
「織部のノート、見やすいからありがたいな」
「そうか?」
「うん。すごい性格が出てる感じがする」
「高森のノートだって、見やすいだろう」
「織部のほうがちゃんと纏まってるよ」
「……今日は一日ずっと寝てたのか」
「うん。熱もずっと高かったし。朝、織部からのメッセージにも何か返そうと思ったんだけど、ぼーっとしてあんまり頭が働かなくて。ごめん」
「……別に気にしなくていい」
もう少し気の利いたことを送ればよかったと今さらながら思う。そもそも、お大事に、のひと言にわざわざ返信する必要なんてないだろうに。何で高森が謝るんだ。
メッセージのやりとりをするとき、僕はよく自分の都合で会話を切ることが多いのだが、高森はスタンプのひとつであったとしても何か返さないと落ち着かないたちなのかもしれない。だからいつも僕と高森とのやりとりは、たいてい高森のメッセージで終わっている。それがなかった今日は、やはり相当に具合が悪かったのだろう。
今も無理をしているのではないかと思うのだが、高森は楽しそうだし、もっと話をしたそうな雰囲気があった。僕が見舞いに来たことを嬉しいと言ったが、一日じゅうただ寝ていただけであればひどく退屈だったろうから、誰かと話したくもなるのだろう。それならば高森が満足するまで付き合おうと思った。
コンビニ袋のなかのヨーグルトが少しだけ気懸かりだった。見舞いとして持ってきたものの、僕はそれを渡すタイミングを完全に逸していた。少しもてあましはじめている。どうして僕はこんな適当な気持ちでヨーグルトなどを買ってきてしまったのだろう。つくづく、もっとちゃんとした品を用意すればよかったと後悔する。
高森は僕が部屋に持って入ったコンビニ袋に気がついているのかいないか、それについては特に触れてこなかった。僕が自分の用事で購入した品だと思っているのかもしれない。
「学校はどうだった?」
高森は目を細めてそう訊ねてくる。
「つまらなかった」
「そっか。まあ、織部は学校楽しいタイプじゃなさそうだもんな」
間髪入れずに答える僕に、高森はそう言って少し笑った。僕は唇を噛んだ。とても反論したい。けれど会話はそのままするすると流れていってしまう。
「今日、体育あったよね。何やったの」
「……バスケ。四チームに分かれてのリーグ戦。バスケ部員以外は出席番号順でチーム組んだんだ。佐宗と同じチームになったから、勝った」
「そっか、よかったな。やっぱり佐宗はうまいよな、バスケ。おれも佐宗の活躍、ちょっと見たかったな」
「狐先輩はもっとうまかったけどな」
「うん、そうだな」
実力は認めているのに本名を忘れたために、けっきょくあれからも僕はずっと彼を狐先輩と呼んでいた。高森ももうそれに慣れた様子だ。高森自身、ときどき狐先輩と呼ぶ。
「体育、二人組組むようなやつじゃなくてよかったな。ちょっと心配してたんだ」
「うるさいな。よけいなお世話だ」
高森はくつくつと笑った。
本当は僕も相当に内心ひやひやしていたわけだが、それは黙っておく。でもきっと、高森には何もかも見透かされているような気がした。しかしそうだったとしても高森はそれを僕に言わないだろう。
それから僕は何となく流れで、今日学校であったことを逐一高森に報告していった。高森も興味深げにそれを聞き、ときおり口を挟む。購買で買った照り焼きチキンと野菜のサンドイッチがおいしかったと言うと、自分で作ったわけでもないのに高森は得意そうだった。
「そうだろ。けっこういけるんだ、あれ。カツサンドとかのが人気だけどさ」
「鶏肉にかかってたタレがおいしかった。僕も今度から昼の選択肢に入れる」
「それは何よりだな」
一気に話し終えて、僕はふうっと息を吐いた。頭がくらくらする。急にたくさん喋りすぎたせいで酸欠のようになっていた。何しろ僕は今日一日、高森の家に来るまでほとんどひと言も喋っていなかったのだ。自分の唾を飲みこんで、急激に酷使した喉を労った。
何だか、ずいぶんとまったりしてきた。心地のよい雰囲気だった。高森も最初に顔を見たときよりもいくぶんかさっぱりした印象に思う。僕と話をして、多少は気がまぎれたのだろうか。そうであれば、見舞いに来た甲斐もあったというものだ。
「……さっきの、話だけど」
「さっきの?」
会話がやんで、少し静まったそのあいだを縫うように僕は切りだした。高森は不思議そうな顔をして僕を見てくる。どの話のことであるのか、すぐには思い至らないのだろう。
「今日、学校がどうだったかってさっき訊いてきただろ」
僕はゆっくりとそう説明する。高森は小さく頷いた。
「ああ、うん。つまらなかったんだろ?」
それがどうかしたの、と言う。
「今日はつまらなかった。……けど、いつもはそんなつまらなくもない」
先ほどから僕はずっとそれを訂正したかったのだ。確かに僕はいつも楽しんで学校に行っているわけではないのだが、そうかといってつまらないと思っているわけでもなかった。そこだけはどうしても訂正しておきたかった。
「そうなんだ?」
高森は意外そうに目を瞬き、小首を傾げた。
「じゃあ何で今日はつまらなかったの」
予想どおりの質問を返される。
僕はその顔をじっと見つめた。薄緑色の目と視線が合う。少しだけ、心臓がどきどきしている。
「……高森が、」
「うん?」
「高森がいなかったから、つまらなかった」
息を吸い、ひと息に言葉を続けた。
僕の言葉を聞いても、高森は黙ったままだった。黙ったまま、しばらくじっと僕の目を見つめていた。その沈黙は熱で思考が鈍っているせいだけではないだろう。
「……織部、」
やがておもむろに高森が僕の名前を呼んだ。
「熱でもあるの」
……何だ、それ。
僕の顔を見る高森は真顔で、本気で僕に熱があるのではないかと心配している様子だった。何だか少し気が抜ける。僕としては、だいぶ思いきった告白のつもりだったのだが。こうしてどきどきしているのがばかみたいだ。
「……熱があるのは高森だろう」
「うん」
そう言えば高森は素直に肯定する。調子が狂い、僕はその勢いでコンビニの袋を右手に持って高森の鼻先にずいっと突きだした。ずっと横に置いたまま、渡すタイミングを逸していた見舞いのヨーグルトだ。
「じゃあ、これでも食べて寝ておけよ」
高森は一瞬面食らったように身を引いた。それからおずおずと受け取ってなかを確かめると、「すりおろし林檎のヨーグルトだ」と呟いた。ぱっと顔を上げて僕を見て、嬉しそうに笑う。
「おれ、これ好き」
「……じゃあ、よかった。本当はもうちょっと恰好のつく見舞いのほうがよかったのかもしれないけど」
「織部がそういうの気にするなんて珍しいな」
「うるさいな」
「でもおれは、こっちのほうがいいよ」
「……そうかよ」
高森のその言葉に少しだけ安堵する。ただ僕に気を遣ってくれただけかもしれないが、嬉しそうにしているので好物であることに違いはないのだろう。
「ありがと、織部」
「……どういたしまして」
高森はそれからすぐにヨーグルトを食べはじめた。長いあいだ常温に置いたままだったので冷蔵庫で冷やしなおしてからのほうがいいのではないかと言ったのだが、高森はすぐに食べるのだと言って譲らなかった。スプーンですくい、ひと口ずつゆっくりと食べていく。おいしい、と笑った。食欲はあるようだ。本人が言うように、本当に熱があるだけなのだろう。
高森が少しずつヨーグルトを食べているのを眺めながら、僕は高森に言いそびれていたことがまだあったことを思いだす。
「高森」
「何?」
名前を呼ぶと、高森はスプーンを片手に持ったままきょとんとした顔で僕を見た。
「早く治して学校来いよ」
ぶっきらぼうにそう言う。
何せ僕は、高森がいないと学校がつまらないのだ。
「うん」
高森は力強く頷く。それから、織部がいないとおれもつまらないからね、と言ってふわりと笑った。
グラスフィッシュ 老野 雨 @Oino_Ame
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