ep7.すりおろし林檎のヨーグルト④

 高森、と書かれた表札が出ていた。マンションでは表札を出していないところも多いように思うが、高森の家は違うようだ。実際、左右のドアに掲げられた部屋番号の下の表札は真っ白だった。

 先ほどのやりとりでここが高森の家であることは疑いようがなかったが、それでも僕は部屋番号と表札を何度も読み返してからドア脇のインターフォンを押した。少し緊張している。

 ドア越しに、はあい、という声が響いた。エントランスのインターフォンで聞いた声と同じだった。しばらくそのまま待っていると、ドアの向こうからぱたぱたという足音が近づいてくる。ガチャリ、と開錠する音が聞こえ、次いでドアが大きく開いた。

 薄緑色の目と目が合った。

 僕を出迎えた高森の母親は、髪の色も目の色もほとんど高森と同じだった。特に目の色はとてもよく似ていた。僕はドアが開いてその薄緑色の目と視線が合った瞬間、高森本人かと錯覚したくらいだ。長い髪の毛をサイドに寄せて緩くひとつに結わいて、肩に流している。ふわりとしたロングスカートを穿いていた。僕の母親とは雰囲気がまったく異なる。

「こんにちは。真咲くん、よね?」

 ぼんやりと立ち尽くしていると、高森の母親からそう声をかけられる。僕は慌てて挨拶を返し、ぺこりと会釈をした。右手に持った、ヨーグルトの入ったコンビニ袋ががさりと音を立てて揺れた。

 高森の母親はにこりと微笑んで僕を見た。

「わざわざお見舞いに来てくれてありがとう」

「……いえ、」

 どうぞ上がって、と促されて僕は靴を脱ぐ。玄関には高森の母親のものだろうヒールのある靴のほかに、高森のものだろう靴が並んでいた。学校で履いている黒のローファーのほか、休日に履いているらしい運動靴。サイズが大きめの革靴はおそらく父親のものなのだろう。

 お邪魔します、と言って玄関を上がった。出されたスリッパを履く。

 てっきり高森の部屋に案内されるのだとばかり思っていたのだが、最初に通されたのはリビングだった。対面式のシステムキッチンとダイニングテーブルがあり、その向かい側にソファとテレビが置かれている。壁際に置かれた棚の上には小物や花がきれいに飾られていた。

「今、お茶淹れるね。どうぞ座って」

 高森の母親がそう言って僕に椅子を勧めてくる。

「いえ、おかまいなく」

 僕は慌てて固辞したが、そのあいだにも高森の母親はポットからお湯を注いでお茶の用意をしている。淹れたお茶をテーブルに置き、もう一度促されて僕はおとなしく椅子に座った。通学鞄は椅子の横の床に置かせてもらう。コンビニの袋は通学鞄の上に載せた。淹れたてのお茶をひと口飲む。

 高森の母親も僕の正面に座った。テーブルの上で腕を組み、お茶を飲む僕の様子をにこにことした笑みで眺めている。お茶は僕のぶんしか用意されていない。あえてリビングに通してこんなふうに正面の椅子に座ったのは、僕から学校での高森の様子を訊きたいからなのではないかと、何となくそんなふうに思った。

 ところが予想に反して、高森の母親は僕に何の質問もしてこなかった。ただ薄緑色の目を細めてにこにこと僕の顔を見つめているだけだ。少しそわそわする。何も訊かれていないのに僕から高森の話をはじめるのも何となく不自然な気がして、僕はひたすらちびちびとお茶を飲んだ。この場をどうやりすごせばいいのかがわからない。

「真咲くん」

 やがて、そう名前を呼ばれる。僕は湯飲みを置くと顔を上げて高森の母親を見た。ごくりと唾を呑む。

「真咲くん、総一郎と仲よくしてくれてありがとう」

 高森の母親は、にっこりと笑んだままそう言った。何を質問されるだろうかと身構えていた僕は、予想外のその言葉に面食らう。

 高森の母親はふっと瞼を伏せた。高森と同じように、濃く長い睫毛が目のまわりを縁取っている。それから数回瞬きをして、ぱっと顔を上げるとまた僕の目を見つめた。

「総一郎ね、中学のころに比べてすごく明るくなったの。真咲くんのおかげだと思う。だから、ありがとう」

「いえ、僕は何も」

 慌てて否定する。

 高森の母親はそれを謙遜と捉えたようだったが、僕は本当に何もしていない。自分で思った以上に何もしていなかった。僕は今日、それをまざまざと自覚したところなのだ。

 僕は口をつぐんだ。高森の母親の勘違いを正すべきなのか迷ったし、それ以上に、このままここでこうして話を続けていていいものなのかがわからなかった。

 僕がこのまま何も言わずに聞いていれば、高森の母親は中学のころの高森の話もはじめるかもしれない。でも、それを僕は聞いてもいいものなのだろうか。これ以上、本人のいないところで承諾もなしに高森の事情に踏み込んでいいものなのかどうか、戸惑った。

 僕の逡巡が伝わったのか、高森の母親は小さく笑んで話題を変えた。

「総一郎の部屋、ここを出て左の、玄関に近いほうだから」

 椅子から立ち上がり、リビングのドアを開けて指差す。

「もしかしたら今寝てるかもしれないけど、たぶんそろそろ起きると思うの。だから遠慮しないで入って大丈夫だと思う」

 僕を振り返り、高森と同じ色の瞳を細めて言う。僕はそれに思わず魅入る。きれいな色だと、改めて思った。

「ごゆっくりね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 僕は残りのお茶を飲み干すと、はじかれたように立ち上がった。床に置いていた通学鞄と、コンビニの袋を手に持つ。

「お茶、ご馳走さまでした」

 そう言うと高森の母親はにこりと笑った。おっとりした印象の人だなと思う。

 僕は手に持ったコンビニの袋に視線をやって、少し迷った。見舞いの品だと言って今ここで高森の母親に託すべきだろうか。ただデパートの地下で買ったような箱入りの上等な品であればまだしも、たかだかコンビニで買ったヨーグルトだ。それも剥きだしのままコンビニ袋に入っている。恰好がつかない。今さらながら、もう少し気の利いた見舞いの品を用意するべきだったと後悔する。

 けっきょく僕はコンビニの袋も持って、廊下に出た。渡すなら直接高森に渡したほうがよさそうだ。ぱたん、と高森の母親の手によってリビングのドアが閉められた。

 僕はぽつんと廊下に残される。

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