カントの生命観
(前無駄に語り過ぎたので、カントの説明は全て割愛します)
カントにとって、人間は自分の利益の以外のものに強制されて行われる事は、善、良きこととされている。
これがかなり難しい話になる。つまり、お駄賃が欲しいからでも、人から褒められるためでもなく、無のための奉仕が推奨されている。いかなる条件のもとでも、行われてしかるべきことを善としています。少し例を示しましょう。
孟子の、性善説の四端にあるこの話も少し近い。
「もしもあなたの目の前で、こどもが井戸(現代風に言い換えれば、駅のホーム)に落っこちそうになったらあなたはきっと助けるはずだ。この子を助けたら褒美がもらえるなど何も考えずに、生まれながらに必然的に備えている良心によってあなたはこどもを助ける」(こののち、あなたは生まれながらにして善良な存在になる萌芽がある。これを育てるべきだ、という風に話が繋がっていく)
また、こういう話もある。
「あなたは透明人間だったら、女風呂に侵入することはためらわれるだろうか。この時、あなたが入るのであれば、女風呂に侵入することは、あなたにとって本当に悪事ではない。
では、見ず知らずの道端の人間を押し倒して暴行をするであろうか。それはできないはずだ(あなたが漫画の主人公でなければ)。この時、あなたは自分が行為によって自分が損害を負うから行動を止めるのではなく、あなたの良心があなたを制止している」
また、こんな話もあった。
「昔とんでもない程の善人がいた。しかし、彼の心が荒み、酒を飲み、人に絡んで殴るようになった。しかし、彼は習慣のために、なんら目的もなく、惰性で道端のゴミを拾って自分の巾着袋に突っ込んでいる。このとき、彼は善行をしたとカントはみなす。目的がない利他行為こそが善行であるからだ。」
この例を見てカントにとっての善は理解頂けたでしょうか。そして、この無意識な善行に人間の価値をカントは見出したようです。
そして、ここから先ですが、カントは、このように人間は「自分のエゴから解放されて善行をする」可能性を持つ者である。そのため、人間は神聖であるので消滅することのない価値を持つ、としています。
ここは僕にはよくわかりませんでした。たぶん、「自分のエゴから解放されて善行をする」私は、世界の絶対不動の真理だけを信奉する神聖な存在であるので他者も同等に神聖な存在である、としたいのでしょうか。
この時、カントは、人間以外の存在(動物)には「エゴから解放されて善行をする」ことができないために、彼らには消去しえない価値は備わっていない(つまり、必要とあれば彼らを殺害することができる)、としました。これは論点が分かれるところでしょうね。
ちょっと、専門テーマだったので、更新がかなり遅れたことでしょう。__|\○_←土下座
しかも生命が大切な理由は尺が短いこと……。
生命倫理について 一盃口 @i-pe-ko-doradoradora
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