自殺
前回の文章に、カクヨムで親交がある方から
「さて、自殺について、他者を巻き込む自殺は言うまでもありませんが?
それとは劣るものの個人の自殺についてよくないと考える理由はなんでしょうか? 」
とのコメントをいただきました。この話題については自分も考えを持たずに無意識かつ意識的に避けていたのでちょっと直視しようと思います。
というのも、自分は自殺を仄めかしたときに母がとても動転したので、とりあえず自主的な行動による積極的自殺はいけない、と覚えました。
かえって言えば、「他からの衝撃による死亡事故を待望する」消極的自殺は可能だと考えていたフシがあったんです。しかもその願望は去年までありました。
幸いなことに去年の途中からその願望が出るほど病まなくなりましたし、自分も少しは成長できたと思うので、ある程度人に甘えることができるようになったこともあるので最近は動機が消えました。
ではそこはおいといて、一旦仮の答えを出すと、神罰が下るからです。どこで見たか忘れましたが、日本の場合では幸せな来世などなく、地縛霊(ジバニャン)として彷徨い続けるといった説明を聞きました。他国でもそのような自殺の禁止は行われていました。また、ユダヤ人も自殺は禁じられており、遥か昔、マサダという砦に篭ってローマ帝国と戦っていたとき、ついに敗北が決まって降伏か自決かを選んだとき、このとき自決を選んだのですが、自分の手で自殺すれば神罰が下るからと、全員でクジを引いて、そこで当選した人が他の城内にいる人間を全員殺してから自分は自殺するという行為をしていました。この時、自分の手で行う自殺を極限まで減らして、自殺の罪を一人に負わせようとしました。これも消極的自殺の一つになりそうです。しかも、傍から見れば詭弁でご都合主義ではないか、とも言えますがね。
まあ、もちろん根拠は無いわけです。ですが、他の問題を考えるときのきっかけをくれました。古代の神官、つまり集団の支配者は自殺を何としてでも避けるべきだと考えていたことをここから考えることができます。
ではなぜ支配者が自殺に困ったかと言うと、やはり生産力が低下することですね。二つの田を二人で耕すのと、一つの田を一人で耕すことはたぶん違います。また、一人で一人前のご飯を作るのと、二人で二人前のご飯を交代で作るのも違います。これはごく小さな集団での話ですが、誰もが働いていた時代では一人の死がとても大きな経済的損失を生み出したのではないでしょうか。その人の生産が欠けたことで流通が決定的に破壊され、生態系が壊れるように皆が道連れになるということがあったのかもしれません。
徳川家綱の殉死の禁止規定もまたその流れに関係するものでしょう。学校で学んだことによれば、江戸時代までは、主が死んだとき、その臣下もそれに沿って死ぬことが美徳だという考え方がありました。多くて三十人程死ぬこともあります。この場合では、家の跡継ぎへの教育ができないのに死んでしまうことがある、また、当時は平和な世が完成し、その世を守ることが重要視されたので、領主個人への追腹(後追いのことです)をするほどの臣従では、その領主が咎められて追放されたとき、それに従って悪事を行うかもしれません。ですから、主君に死ねというのではなく、主君の家に死ねと言うようになりました。後者の方は少し論点がそれますがね。しかも根本的解決には至っていません。
また感傷的な側面をみせたり、感染病のように広まることがあることもあります。たとえ架空のものでもそういう側面はあります。カッとなって護身刀を取り出したとき、他人は殺せても自分は殺せません。自殺というのは強い憂鬱がもたらすものです。ときに理不尽によるものもあります。その理由を知ったとき時に人は同情してしまう。そして自分の身にある不条理に目を向けてしまう。そしてそこから逃げることに憧れてしまう。またその人と永遠に話せなくなるというある種の失恋を経験することもあります。その結果がXのHIDEの後追いでしょう。
このような所から、人間には生産能力があり、それが生存する価値となっている。そして自殺はその生産行為を喪失させて公共の福祉に反する上に他者の自殺を誘発するような危険性をもっている点です。やはり自分は『夜に駆ける』の流行を心穏やかには見れないのです。
しかし、現代でも、昔でも、この論理はある時通用しないケースがあります。
森鷗外の『高瀬舟』が倫理の単語帳をやってるときに生命倫理の分野で出てきたときは驚きました。
たぶん青空文庫にあってただで閲覧できますが、あらすじは、男の弟が重病で男に介護する迷惑をかけていることを悔やんで腹に剃刀を刺したものの死にきれず、男に刃を抜いて自分の命を断ってくれと懇願するものです。
つまり生産的価値がない人間は自殺することの方が生産的になります。
現代でも、重病者の生命の価値を保証するものは感情論がもっとも強いものになります。そしてその感情論が失われ、却って嫌悪に回ったとき暴発した形としてホロコーストによる障がい者の虐殺、そして津久井やまゆり園事件のようなことが起こります。
この時に、自分は緊急回避として、障がい者にも生産能力があることを提示しました。今の世界ではモールス信号がありますから、ALSのような、筋力の衰退があっても、まぶたの開閉さえできれば意思疎通は可能です。そして、そのような重病人の場合では、私達が普段生活しているのとは全く違う景色を持ち、価値観を持っていることが期待されます。これを投稿することはコンテンツ社会の現代では極めて求められるものではないでしょうか。
乙武さんもそうですね。不倫をしなければ教科書にもきっと載ったであろうに……。でも障がい者でも不倫ができる、というのも悪くないですね。障がい者は享受するものとして、与える者である健常者に服従せねばならないというのも何か違いますから。
あと、ホーキング博士です。自分は博士の顔を見て目を覆ってしまいましたが、博士はアインシュタインの後継者とも言われる人間になりました。研究内容はしりませんが。
では身体的ではなく知的であったら? ここは一つつまづく事でした。そして、植松受刑者がそのターゲットにしたことですから何としても誤ったものとせねばならない。ですが、理由が自分には見つけられないのです。自閉症だとか、障害認定されるコミュ症(ちなみに自分はここです)ならまだ知識が使えるのですが。
その時の回避が多様性となりました。障がい者に優しくできない人は他の人にも優しくなれない。また、やはり彼らの作るコンテンツも、価値のあるものであり得る。バンドの「たま」がそうであったのなら。また、学習能力が乏しいことでかえって人間の純粋な本質を保持している可能性があるので、人間の本質を何かと求める心理学者、芸術家にはとても研究対象として価値があります。
しかし、自分はこの解釈ではやはり彼らの価値を完全に信じ切ることはできませんでした。でも、家の不名誉になりますし、少なくとも今の感情論の世間が殺害行為を絶対に許しませんし、先生が誰であっても殺してはならないと仰ったのでさすがに僕ならやまゆり事件は起こしませんがね。
そして、彼らは思ったより多くいたのでした。乙武さんのようなかなり特殊な方はそんなにいませんが、ある程度のものであるなら、彼ら単体ではその闘病記も、生活も、価値観も、決して研究する価値が高いとは言えないでしょう。たくさんいるので他の人に替えがききますから。でも、彼らの手による研究は価値がありますがね。彼らが本を読んで、思想家として軌跡を残すことは、立派な生産行為になります。また、コンピュータをいじるプログラマーになるのはもちろん働いていると言えます。プロゲーマーもいいですね。(ゲーマーの商業化についてはちょっと疑問がありますが、そこはまたの機会に。)IT化は誰でも働けるようになるという意味でノーマライゼーションに良い役割を持ってくれそうですね。
少し、障がい者の生存意義について述べて話がそれましたが、これを逆にとらえれば、障がい者を殺すことも結局不利益に繋がるので、自殺もしなくていい、という風にも考えます。
あ、ニート……。ほんとにゲームしかしなくて、しかもゲーマーとしての名声も得ていないのであれば……。逆にここでもいいから投稿することは生存意義を持っていることとして捉えていいでしょう。で、そうでない人の場合は、脳死でも生かし続けることが出来るのだからいつか脳死を乗り越えられるかもしれない、という風に、自然治癒を期待します。治癒するタイミングが良ければ、そのニートをした分の経済損失は相殺されますから。
自殺を許さない態度については、このようになります、かね。でも、もしかしたらこの論理に言わせれば、多様性の時代が来る前では、皆が植松受刑者となって、ホロコーストに障がい者を巻き込ませることは正しいことだったのかもしれません。そして、それよりも前の時代に書かれた『高瀬舟』は病人はもちろん自死が理に適うと言い切れてしまうことになります。
では後は読者様の反応に期待します。自分もちと欲しいのです。
追記:ふと思い出したことですが、以前その事件が報道されたとき、植松受刑者本人が障がい者ではないか、と言って受刑者の非人間性を主張する方がいらっしゃいましたが、その糾弾は間違っています。全員が全員そうとは言えませんが、やまゆり園にいた方々は、間違いなく障がい者であり、植松受刑者が障がい者であろうとなかろうと、植松受刑者が障がい者だと非難することは間違いなく差別にあたります。やまゆり園の入所者様に対しても。
確かに受刑者は大麻依存になっていたとか聞きましたし、少なくとも今の世間からすれば非常識な発想をするとんでもない人間でしたが、仮にあったとしてもその障害の度はやまゆり園の入所者様よりも軽度のものでありましょう。どういうものかは知りませんが、ある人によってはこのようなものもあるでしょう。排泄という考えがなく、常にズボンをはいたまま野糞をする、子供のように自分勝手、すぐにカッとなる。
これは、もちろん長短を転換することも可能ですが、その行動自体どうやっても人々には受け入れにくいものが多くあります。この事実を確認はしつつ、しかしそれでなお差別をしないというのは大変に難しいことだと自分は考えています。自分もそれを許容するのは大変そうです。
あなたが植松受刑者ではないか、という主張があります。今の私達は、とりあえず学校では障がい者差別をするなとは言いますが、その学校でもガイジ(障がい児)、コミュ症(コミュニケーション症)などという言葉は飛び交います。YouTubeやニコニコ動画でもそのようなことはありますね。しかし、その差別を許す声が、まだ権威ある人間から言われないから私達は我慢している。しかし、この差別受容の声がもし、ひろゆき、ホリエモン、DaiGo氏、小山田氏等々から言われたら? 現実に権威ある(かもしれない)後者二人はやらかしました。
今の世界ではわざわざ死刑になってまでそんな大義を実行する人は植松受刑者でしたが、私達はもしかしたらそのような事件が起こることを期待していたのかもしれません。特に植松受刑者が障がい者であると指摘する人は。
あと付け加えますが、自分は加害者家族への私刑行為には断固反対します。植松受刑者という表現は、犯人と表現するのでは誰のことか分からないから言い換えただけです。たしかに加害者家族に犯罪者を育てた罪はあるかもしれないが、彼らへの制裁手段は子供のいじめではないと思います。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます