待ち人、待たずして待つ

虎目エル

老夫婦

(あれ?)

(今日はおひとりでご来店なんだ。)


「いらっしゃいませ!」


チャコはいつもの笑顔で、その客に声を掛けた。



「こんにちは」

耳の遠いその客は、他の客が振り返るほどの大きな声で挨拶を返した。

人懐こい笑顔を浮かべる、ふっくらとした雰囲気の老婦人。

この老婦人が笑うと目が無くなるところがチャコは好きだ。

杖をつき、少し左右に身体を揺らしながら、その印象的な笑顔のままで店へと入ってきた。


そして、いつもとは違う席へ。

ソファーにゆっくりと腰掛ける。


「こんにちはー!ご注文お決まりの頃にお伺いいたします」

決まり文句を口にして、チャコは氷水を注いだグラスと使い捨てのおしぼりを老婦人の前へそっと置いた。



老婦人は常連客である。

注文も大体数パターンの中で決まっている。

今日もチャコの中では予想してあるが、常連客といえども注文を勝手に決めつけないというのがチャコのささやかな心掛けであった。



老婦人は笑顔のまま大きな声で「レモンティ」と言った。そして続けた。

「今日はね。ひとりだから。レモンティだけでいいの」


(お、甘いものは無し、か。)


チャコは八の字に眉を上げて遠慮がちに驚いてみせた。

「今日はおひとりなんですねぇ」




この老婦人は、これまで必ず夫と一緒に仲睦まじく来店していた。

週に数回。曜日は不定。

まだ法改正のされていない年で、この店は店内分煙の形式を採用した。

夫の方は煙草を吸うため、夫婦揃って喫煙席へ座るのが毎度の事である。


だが今日は初めて老婦人ひとりで来店。

そして禁煙席へ座ったのだ。




「けんかした。」


老婦人は上着を脱ぎながら、そう言って微かに眉間に皺を寄せる。


「けんかしちゃったんですか」

チャコは八の字眉を持ち上げた困り顔のまま歯を見せて笑った。

そして老婦人の様子から、今はその話の続きはなさそうだ、と読み取ると、

「少々お待ちくださいませ」と決まり文句を言ってカウンターの中へ入る。


伝票にボールペンですばやく’LT’と書き、すぐに注文の品を作り始めた。



アッサムという種類のティーバッグを陶器のポットにセットして湯を注ぐ。

近くに置いてある砂時計を1つ、ひっくり返す。

陶器のカップに熱湯を注いで温めておく。

レモンのスライスを2枚、小さなトングと共に白い陶器の小皿に載せる。

ちなみにアッサムはミルクティーに使用するのがチャコのおすすめである。


砂時計の砂が落ち終わる少し前。

カップから湯を捨て、真っ白な布巾で水滴を拭き取る。

紅茶の入ったポット。ソーサーの上にカップとティースプーン。レモンの小皿。更に別の小皿にスティックシュガーを1本。それらを盆に載せて老婦人の元へ運んだ。


「たいへんお待たせいたしました!レモンティーでございます。

お飲みごろになっております」




・・・

いつものように紅茶を飲む老婦人の姿がチャコの目には寂しそうに映った。


しかし、他にも客はいる。

もうすぐ遅番と交代する時間だが、それまでに食器を洗い終えたいし、明日使う分のコーヒーの豆を挽かなくてはならないし、10本のタバスコの蓋を外して拭いて中身を補充しなくてはならない。

チャコはあくせくと動き回りながら老婦人のことをチラチラと横目で気にかけていた。


(こんな時に谷さんがいたらなー。

さりげなくお話聞いてあげられたりするんだろうけど。)


チャコは先輩である美人の谷さんを思い浮かべた。



その時、老婦人の携帯電話が鳴った。


電話に出る老婦人。

明らかに怒った様子で何やら話している。

耳が遠いので、もちろん大声だ。


幸い他の客はほとんどが帰ったところで、店内には老婦人からは遠い窓際の席でお喋りをする女性客1組のみであったので、チャコは老婦人の大声電話をそっとしておくことにした。



「だからさ!あんたが・・・」

「ええ?何さ?何?」

「△△だって言ってんの!」


おそらく通話の相手は夫なのであろう。

やがて徐々に老婦人の声の調子が落ち着いてきた。


「何さ?・・・来るの?うん、いつものお店だよ」

「うん、うん・・・」



やがて電話を切った老婦人はチャコへ向かって笑顔で言った。


「来るって!」


来るというのは老婦人のけんかの相手のことであろう。

先程の来店時とはまた違う、老婦人の嬉々とした報告にチャコもつられて笑う。

「あら!良かったです!」


「席を移ってもいい?」

老婦人は禁煙席のソファから立ち上がり、杖を掴む。


「はい!どうぞどうぞ。お席までお持ちします。どうぞテーブルはそのままで」


チャコは新しく氷水を注いだグラスとおしぼりを載せた盆を手に、老婦人の座っていた席へ向かい、ティーセットを回収すると、本来のいつもの席へ移っていった老婦人の元へ運んだ。




数分も経たないうちに、老婦人と仲直りをした人物が店へ入ってきた。

実はずっと近くに居たのでは・・?などとチャコはついつい余計な事を考える。


「や。どうもね」

’よっ’といった雰囲気で片手を上げる老人。

背中を丸めた小柄な男性。細面で、ふっくらとした老婦人とは対照的だ。

チャコの目には心なしかややばつが悪そうな笑顔に見える。


「いらっしゃいませ!」

そっと氷水のグラスとおしぼりを老人の前へ置いたチャコに、老人は注文を伝えた。

「クリームソーダね!あと、ケーキね!モンブラン!」

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」




クリームソーダは、メロンのシロップと炭酸を合わせて混ぜたものにバニラアイスをのせて作る飲み物だ。


この老人がクリームソーダを注文するのは、飲み物だけを口にする時。

ケーキやデザートを一緒に注文する際の飲み物はブレンドコーヒーと決まっていた。

細かい話をすると、チャコの勤める店ではコーヒーや紅茶であれば甘味とセットのドリンクということになり、値引きが可能なのだ。


チャコは老夫婦の伝票に’メロンソーダF’、’モン’、と書いた。

そして先ほどの’LT’の頭に’(S)’と書き足した。

アッサムの紅茶ならばセットにして値引き出来る。

それに、おそらく・・・。



チャコはクリームソーダとモンブランを老夫婦の席へと運んだ。









この店は、その数年後、テナントビルの都合で閉店となる。

閉店から5年後にチャコはこの老夫婦と再会することになるが、

それはまた別のお話で。






老夫婦/完

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