愛おしい声
みずの しまこ
愛おしい声
天国へようこそ、と天使に言われたら信じてしまいそうな光景だった。
ここはどこだと声を出す代わりに瞬きを繰り返す。自分が誰なのかはわかる。いつまでも脱ぎ捨てることのできない私だ。
そんな私の体が浮きも沈みもせずにゆらゆらと漂っている、この海中のような空間は一体なんなのだろう。
海か。ついに私は身投げでもしてしまったのか。だけど水中にいる感覚はないし息苦しくもない。寒さも暑さも感じないが、身につけていた重りを取っ払ったかのように体は軽かった。
視界は明瞭。この世界は光から青、青から闇へのグラデーションで構成されている。明るい方と暗い方、どちらが上でどちらが下なのか。
のろのろと体を動かし、なにもかも飲み込んでしまいそうな闇を凝視する。なぜだかあちら側が目指すべき場所のように思える。
どちらを目指せばいいのか。必ずしもどちらかを選択しなければいけないのだろうか。
もういいや。夢ならば早く覚めて。
考えるのも面倒になった私は緩やかにまぶたを下ろした。
……暇だ。
目は覚めない、だからといって眠りが訪れる気配もない。ぺろっと舌を出してみても無味、匂いや音だってない。なんて退屈な空間なのだろう。こうして自分の脳と会話をするしかないなんて。
ここが海なら魚の一匹でも泳いでいたらいいのに、なんて考えていたら沸々と食欲が湧いて回転寿司へ行きたくなった。
ゴミひとつ浮かんでいない青はどちらかと言えば水質の管理されたプールのようだ。浮かぶことも沈むこともできずに漂うだけ。停滞。私にひどくお似合いな言葉だ。大人になっても手放せなかったスクール水着から、ようやく卒業できたと思っていたのに。
どうしてこんな場所に放り出されてしまったのか薄々気づいていた。すべてから逃げたいと願ってしまったからだ。幼い頃の傷は今も痛み続けているのに体だけが大人になり、時の流れが癒やしてくれるなんて嘘だと知ってしまった。むしろ悪化しているような気がする。煮詰めすぎて鍋底に焦げ付いたジャムのようにずっと剥がれないのだ。
愛がわからない。愛されたことがないのに愛することができるのかわからない。左手の薬指に目をやる。プラチナに小さなダイヤが埋め込まれたシンプルな指輪は、私をこの世につないでおくための鎖なのだろう。
『愛を知らない者同士ってことは、なにが愛なのか二人で決めていいってことだよな』
声が降る。幼なじみから配偶者へと変わってしまった彼の言葉は、いつだって天気雨のように優しい。すがるように手を伸ばすと、突然眼球に強い刺激を感じるようになり、ぼろぼろと涙が出てきて止まらなくなってしまった。口の中にもしびれるほどの塩味を感じる。
引き寄せられるように体が暗闇へ落ちていきそうになると、自分には似合わないとわかっていても光への憧れが強くなる。
いつの間にか目の前にはまばゆい景色が広がっていた。揺れる光のカーテンに、色とりどりの魚がたわむれる美しい海だ。
だけど私は空の下を歩きたかった。時の流れがなにも癒やしてくれなくても、周囲にいる人たちは泣いている私の頭をなでてくれるだろう。いつもおまけをしてくれる駄菓子屋のおばちゃんも、明るい笑顔で迎えてくれる町営プールの人たちも。
『お互い幸せになるって、約束して』
声が降る。いつかの夏に指切りをした、名も知らぬ少年の声だ。海岸を照らす夕日のように力強い眼差しだった。思い出すとふっと肩の力が抜ける。あの約束はずっと私の心を支えてくれていたのだ。
重くなった手足を必死にばたつかせて、空が透ける水面を目指し浮上する。柔らかい光は彼らに似ている、そう思うと胸のあたりが日だまりのように温かくなった。これが愛おしいということなのだろうか。
水面から勢いよく顔を出し邪魔な髪をかきあげると、肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。まぶしくて、塩辛くて、海の匂いがする。私は生きている。これからも幸せになる道を探して歩いていく。
約束を破ったら一生アイスをおごらないといけなくなるしね。
オレンジと光が混じり合う空から、ウミネコの鳴き声が降り注いだ。
愛おしい声 みずの しまこ @mz4_222
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