第18話・無常堂
弘長三年、遥か西の暦では一二六三年。火災に見舞われ、雷雨が吹き荒れ稲が倒され、何艘もの船が流され座礁して、由比ヶ浜には飢えた死体が転がった。冬には時頼が息を引き取り、六代執権長時は病を患い翌年の秋にはこの世を去った。
鎌倉は守り人を失ったように冷え切っていた。
この困難に立ち向かうのは、まだ十四と年若い時宗に代わって七代執権に就いた齢六十の政村、そして多宝寺の忍性である。
その忍性は、長谷は甘縄の火災に見舞われ家を失い、嵐に流され船と職を失った避難民に施していた。
空腹には粥を流し、火傷には薬を塗り、風雨をしのげる由比ヶ浜の無常堂へと導く日々を送っており、休む暇は心身ともに微塵もない。
そんな折に実時は、齢十六の嫡男
流行り病ではないかとその身を案じ、針の目のような隙間を縫い、夕暮れ時に実時邸を訪れた。使いの者が呼び立てたのは庶子の
だが、いかんせん真面目すぎるきらいがある。若き日の実時もこうだったのかと、重時の昔話を思い返した。
燭台のある奥の間で、実時は本を読んでいた。朱色の光に浮かび上がった怪訝な顔には、病の影など差していない。忍性は取り越し苦労であったかと安堵して、急に押しかけた非礼を詫びた。
「久方ぶりだの、良観房。して、何用だ」
「放生会を欠席されたと伺いました故、流行り病ではないかと案じておりました。拙僧の早とちりだったようで、何よりにございます」
ああそれか、と実時は笑みを浮かべた。それは
「言うておらなかったのう、昨年の秋に父が円寂したのだ」
身内、それも親を亡くしたから放生会には行けないのだと理解して、忍性は胸を痛めて眉をひそめた。
「そうとは存じませんで、大変な失礼を。蒲里谷殿のご冥福を……」
「いいや、気に病まんでよい。この一年、良観房は務めを果たしておったのだ。それもまだ済んでおらぬのであろう」
実時は、北条家の中で背負わされた荷が下りた肩の軽さと、重荷と感じてしまった罪悪感に揺れていた。忍性もまた、実泰を救えなかった未熟さに苛まれて叡尊の言葉を反芻していた。
慈悲に過ぎては、衆中を真には救えない。釈迦に帰れ、戒律を守れ、仏法を学べ。僧として何をすべきか、何が出来るのか、救済とは何か考えるのだ、と。
決意に凝り固まった忍性を、実時は肩を緩めて話題を変えて解きほぐす。
「相変わらず、放生会を前にした
「それでは、ご苦労なさったでしょうな」
呆れた笑いを覗かせていた実時は、頬を固くし厳しい父親の顔になった。誰が苦労をしたのかを忍性が匂わせたからだ。
それは顕時を指していた。将軍家庇番衆として宗尊親王のそばに仕え、歌学を学ぶ。線が細く本が好きで、実政とは違った形で実時を受け継いでいるが、それが考えの相違にもなっていた。金沢を継ぐ者として思想があるのは結構だが、あらぬ方へ向かわないかと心配でもある。
だが政村執権就任に続いて、執権に次ぐ連署に時宗が就いている。得宗家を、いずれ執権に就任する時宗を補佐役を顕時が担うのは、目に見えている。ならば早いうちから中央で働くべきと、喪に服している今を実時は利用した。
しかしそれでは、まるで実時が──
「そのような顔をするでない、見てのとおり壮健だ」
実時はそう言って、身体ではなく手にした本を見せつけた。読んでいたのは医術の本で、身体に気を遣っているのだと指し示していた。
「越後守殿には、まだご活躍して頂かなければ」
「まったく、早く仏門に帰依して本に浸っておりたいわ。その手筈として六浦の瀬戸を禁漁にしたが、矢先の
苦笑いした実時は、外の様子を忍性に尋ねた。喪に服しているからだろうか、この館からあまり出ていないらしい。
「無常堂は、避難した民で溢れ返っております。大仏谷戸には三千もの民が集っておりますが、米も実っておりませぬ。かろうじて食いつなぐだけの施しが精一杯でございます」
苦しいのは誰も同じなのだから、窮状を訴えたところで無意味とわかっていた。しかし求められれば言わずにはいられないし、実時もそれを欲していた。
そして、それは望みではなくとも期待した答えだったようである。ふつふつと沸く胸の内に炎が灯り、熱を帯びて揺らめいた。
その様子に忍性は、ほんの少し傾げた首を恐る恐る伸ばしていった。
「如何なされましたか?」
「いよいよ、動くときのようだ」
動く、とは? と、忍性は片眉を上げた。実時は覚悟を決めたように、微動だにしない。
「貧者や病者を救い三年、我ら北条の信頼を十分に得ておる」
忍性もまた、固唾を呑んで覚悟した。五年越しの約束が今、果たされようと動き出した。
「多宝寺では手狭であろう。長谷も由比ヶ浜も、地獄谷も遠くはないか」
「いえ、住持を務めているのみで、身に余る光栄でございます」
平伏する忍性を、実時は真っ直ぐ見つめたままである。
「謙遜するな、良観房。今は苦しいときで、すぐというわけにはいかぬが、貧者病者を救済し戒律を広めるため、極楽寺を得てみぬか」
それは同時に、和賀江島を得ることを意味していた。ついにそのときが来たのかと、忍性は身体を震わせていた。
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