第7話・松葉ヶ谷

 文応元年、遥か西の暦によれば一二六〇年。

 鎌倉の東、北の得宗家屋敷から南の名越を結ぶ通りの中間、武家屋敷と商人町の境目で辻説法をする僧がいた。齢は脂の乗った三十九、その若さのとおりの銅鑼声を聴衆に向けて張り上げていた。

「嵐が吹き荒れ、地が震え、風は冷え切り、民は飢え、疫病に苛まれておる。これが何故なにゆえか存じておるか!?」

 目玉を剥いて、太い眉を釣り上げ、腹の底から吐き出す声に道行く者は吸い寄せられて、見聞きする者はその迫力に呑み込まれていた。


 その説法は、身近にあり体感している不安からはじまっていた。この南側に暮らす商人も、北側に控える御家人も、心の底をすくい取られた気がしてならず、頷くことばかりであった。

 解決しようのない不安は、いつしか不満に転嫁された。この災いが起こるのは何故か、あらゆる災厄が続くのは何故か、その原因とは何なのか。

 その疑念が高まったときを見計らい、僧は持論を展開した。


「朝廷や幕府の祈祷が足りぬか? 収める年貢が足りぬから祈祷が通じないのか? 否! 年貢の使い道が誤っておる、祈祷のすべが根本から誤っておるからだ!」

 すると輪をなす聴衆の最前列が深く頷き、後ろに控える商人が「そうだ!」と強く同意した。間に挟まれた行きすがらだった人々は、その雰囲気に巻かれていった。


 僧はたもとから一冊の本を取り出して、聴衆に見えるよう高く掲げた。後ろに並ぶ商人は、それを目にすると合掌して、ぶつぶつと御題目を呟いた。

「朝廷は真言僧を我が物とし、幕府は念仏や禅に帰依しておる。まだ気づかぬか、念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説だ!」


 その表紙には力強く『立正安国論』と記されていた。この僧の名は日蓮、安房小湊に生まれ比叡山、三井寺、薬師寺、仁和寺、高野山と名だたる寺で学んだ末、七年前からこの鎌倉で独自の活動を行っている。

 その活動が、各方面から問題とされた。日蓮が訴えたとおり、他宗のみならず幕府や朝廷にまで苛烈な批判を繰り広げているからだ。


 しかし日蓮は、まったく意に介さない。むしろ噛みつく僧を論破していた。その手法とは、概ねこうだ。

「信ずるべきは、正法である法華経だ! 邪法を信じておるが故、災厄が留まらぬのだ!」

 と、これに尽きている。確かに他宗にいても重んじられ、それは忍性が属する西大寺でも同じこと。しかし難解で、理解出来る僧は多くない。生半可な僧も法華経を解する高僧も、それを前にしては口を噤むほかなかった。


「この『立正安国論』を最明寺殿に渡しておる。幕府が法華経に帰依するならば救われる、ないがしろにするならば新たな災厄が海を渡り、我らに襲いかかるのだ! 皆の者よ、法華経に帰依せよ! 法華経を唱えよ! 唱えろ、南妙法蓮華経と!」

 前列に並ぶ衆中が、後ろに控える商人が合掌をして、一斉に御題目を唱えはじめた。彼らの間に挟まれている人々は、狼狽えながらまだ見ぬ災厄に不安を募らせている。


 南妙法蓮華経

 南妙法蓮華経

 南妙法蓮華経……


 商店や家屋から人々が出て、手をすり合わせて必死に御題目を唱えている。湧き出るそれを後光にし、日蓮は狭い通りを南へ歩いた。


 そうして辿り着いたのは名越の山裾、松葉ヶ谷まつばがやつである。低いながらも切り立つ山が谷戸をぐるりと取り囲み、天然の要塞を形作っている。

 その内側の麓には、小さく浅いくつがある。先に掲げた『立正安国論』は朝廷にも献上するつもりで、この窟で記した。


 そのときだ、信者のひとりが窟の前にひざまずき、肩を上下させていた。

「念仏僧が大挙して押し寄せてございます!」

「何人来ようとこの日蓮、論破してくれるわ」

「僧兵がおります、逃げてくだされ!」

 日蓮は「うぬっ」と唸り顔を歪めて、本を置き去りにして窟を飛び出す。囲む山が裏目に出た、日蓮は逃げ場を失っていた。


「日蓮、お主は身を隠せ! ここは我らに任せるがよい!」

 日蓮はその声に促されるまま茂みに潜り、崖の麓へと這っていく。そこには万一の事態に備えて掘った窟が隠されていた。

 念仏僧の怒号が飛び、松明が燃える匂いが谷戸に溢れた。甲高い刃の音が鳴り響き、信者や僧の悲鳴が轟き日蓮の胸を掻きむしる。

 この様子では書き上げた『立正安国論』は、灰となって空に舞うことだろう。

「法華経を守らねば……。乱世を救うのは法華経のみだ……」

 日蓮は歯を噛み鳴らし、茂みの向こうに広がる火の手の匂いに震えた。


 そのとき、茂みが揺れた。丸腰では僧兵に太刀打ち出来やしないが、生命を取られるくらいなら抗わなければと身構えた。

「日蓮、儂だ」

 潜められた声は聞き覚えがあり、思い返せば身を隠すよう促したものと同じだった。

「これは、名越──」

 茂みを抜けて現れたのは、身なりのいい男だった。喋るなと身振りで日蓮をいさめて窟に入った。

「念仏僧の怒りは、そうやすやすとは収まらぬ。ほとぼりが冷めるまで身を隠しておれ。この谷戸を焼き尽くせば奴らは去る、それまでの辛抱だ」

 日蓮は血が滲むほど唇を噛み、自身に言い聞かせるように頷いた。


 すべては法華経を守るため、と。

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