第8話・山ノ内

 どこでその話を知ったのだろうか。鎌倉の北、山ノ内は最明寺にて、病を押して本を睨む時頼の前で、実時はそればかりに思考を巡らせていた。


 それは日蓮がしたためて、時頼に宛てた『立正安国論』である。

 激昂した念仏僧が日蓮の草庵を焼き討ちにしたのは、それが時頼に渡った翌月だった。憤怒したのは僧だけではなく、念仏や禅に帰依する御家人も日蓮を腹の底から恨んでいた。時頼は黙殺していたが、裏から糸を引いたとまことしやかに囁かれていた。厚く信じる禅宗を天魔と罵られたのだから、そうであっても不思議はない。


 当の日蓮は命からがら逃げ切れていたが、これを放置すれば再び火の手が上がる。くすぶるうちに消さねばならぬと、日蓮を捕らえて伊豆の伊東に流したのは、つい先日のことであった。


 さて、立正安国論である。鎌倉に広まっている念仏、禅宗のみならず真言、律宗までもが批判の対象になっている。

 後者ふたつを合わせれば、忍性が属する西大寺を指す。釈迦に立ち返れ、戒律を重んじろ、出家のための戒壇を朝廷から取り返せ、それらを掲げ実践しているのが西大寺流だと聞かされていた。


 その西大寺流忍性が、実時と重時を通じて鎌倉の寺領と、北条の信頼を得ようとしている。それを『亡国』の『国賊』と批判出来るのは何故か。

 そして南宋が遥か西より攻められていると和賀江島や六浦むつらで耳にしており、その勢いは海を渡るのではと幕府内で危惧されていた。


 それら幕府の内情を、遊行ゆぎょう僧が何故知っているのか。

 その答えは、すぐに予想をつけられた。


「名越には、日蓮に帰依する女房がおります」

 時頼の鋭い眉が、ピクリと跳ねた。名越北条が日蓮を利用し、得宗家批判をしているのかと時頼は読み取った。

 その女房を罰するか、と眼光に刺された実時は冷静かつ慎重に話を続けた。

「信心はやいば火焔かえんに勝るものでございます、それは存じておりましょう」


 禅を守るため強硬な手段に取って出た時頼は、実時に反論できず口を結んだ。日蓮を追放しても信者が消えることはない、それが禅宗批判に激怒した自身と重なった。

「ならば、如何致す」

「ここ鎌倉に広まっておる念仏や禅になびかぬ者が、日蓮を仰いでおります。ならば真言宗や律宗を招けばよいかと存じます」

 時頼は、ハタとした。極楽寺を地獄谷に移すと聞いた折、ともに耳にした僧の名を思い出した。


「良観房忍性か」

「神事仏事の乱れを律したところ、翌月には訴訟が渋滞致しました。罰するとしながらも路傍には病者や孤児、死屍が捨てられてございます。戒律を重んじ貧者救済を行う良観房が、必ずやこれを正しましょう」

 極楽寺の造営は済んでおり、その際には将軍の宗尊親王を招いて弓などを披露していた。その折に地獄谷の様相を目の当たりにさせ、癩者らいしゃの救済が必要だと理解を得ている。あとは、忍性の到着を待つだけである。


 実時の訴えに頷いた時頼は、思い出したように用意した問いを呟いた。

「倅は、如何か」

 時頼の嫡男、時宗ときむねである。七歳で元服し、昨年には十歳で小侍所別当に就いており、今年の春に安達義景から嫁をめとった。

 事情は異なれど境遇が近く、先に小侍所別当を務めていた実時は、ゆくゆくは執権となる時宗の教育を任されていた。


 忘れたはずはあるまいと、実時は微かに笑みを浮かべた。極楽寺が移った折、小笠懸を披露して将軍、宗尊親王に褒め称えられた時宗を。

 その将軍も、歳を重ねるごとに意見するようになってきた。良し悪しはともかく、毎日が執政を踏まえた試練であった。

「立派に役目を果たされております。身体に障ります故、この越後守にお任せくだされ」

 そう言って寝所に連れて横にしても、時頼の気は休まらない。生きているのだと確かめるように胸を上下させながら、暗い天井をじっと睨みつけている。


 齢三十五ながら病に侵された時頼は、明らかに焦っていた。血で血を洗った御家人同士の争いを鎮めるため、得宗家を軸に据えた政治となるよう病を押して奔走している。神事仏事を律したのも時頼の命によるものだった。

 それはまるで、この世を去るための準備をしているようである。

 どうか生命の灯火よ、時宗が執権に就くまでは保ってくれと、願わずにはいられない。


 時頼から時宗へ、それを中継する六代執権長時にいっそ任せればよいものを。長時の父、重時に執権としての心構えを改めて進言して頂こうと、実時は決めた。

「極楽寺に参りますが、言伝ことづてはございますか」

「良観房が鎌倉にいつ入るのか、尋ねてはくれぬか。わからぬならば、文を送るよう伝えてくれ」


 時頼のお墨付きを得て、思うほうへと転がっていると安堵を見せた実時は、礼を告げて最明寺をあとにした。

 時間を要してしまったが、忍性が災厄続く鎌倉を快方へと導くだろうと希望を胸に、大仏おさらぎ切通しから回り込み、貧者病者が取り囲む極楽寺の門を叩いた。


 嫌な予感が漂った。


 返事を待たず門を抜け、重時が住まう方丈へと飛び込んだ。使いの僧はその様子に、ただ狼狽えているばかりである。

 重時は、厠に足を向けて倒れていた。

「伯父上! 如何なされた!」

 実時は覆い被さり、その容態を確かめる。目は虚ろで茫然自失、身体は燃えるように熱くなっており、凍えるように震えていた。


 これは、熱病だ。

おこりだ! 医者を呼べ! 祈祷をせい!」

 檄を飛ばしつつ、実時は心で叫んだ。

 良観房、早く来い。地獄を極楽にしてみせよ。

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