第9話・稲村ヶ崎

 極楽寺に飛び込む僧がいた、言わずもがな忍性である。非礼を詫びるより先に障子を開けると、そこにはポカンと目を丸くした重時がいた。

 忍性はその場で膝をつくと全身からどっと汗を吹き、忘れていた呼吸をするかのように肩を上下させていた。

 板間を濡らす汗、にしては量が多い。雨に降られたように溜まっているが、障子がなければ耐え難い陽差しが燦々と照りつけている。


「良観房、稲村道を越えたのか」

「六浦の湊にて、極楽寺殿の容態を伺いました。一刻も早く着かねばと馳せ参じました……ご爽健で、何よりにございます」

 そこまで言うと忍性は力尽き、気を失って倒れてしまった。




 目を覚ますと、そこは布団の上だった。汗と潮にまみれた法衣は洗われたのか、傾きはじめた陽を浴びて気持ちよさそうに伸びている。

 飛び起きて、布団を畳んで隅に寄せると、それに気づいた小僧が一杯の白湯を持ってきた。

「お目覚めは、如何でしょうか」

 これは大変無礼なことを、と頭を下げる忍性は齢四十五。これを人に見られては、かえって大変なことになると小僧は屈み、顔を上げるよう懇願していた。


「もう乾いておりますね。観覚かんがく様をお呼びしますので、法衣をお召になってお待ちください」

 法衣を身にまといながら、観覚とは誰だろうと首を傾げた。麻のさらさらとした肌触りを全身で感じた頃に、その観覚が入ってたので忍性は赤鼻を床板に擦りつけた。

 極楽寺観覚こと、重時であった。


 乾いた法衣が、冷や汗に濡れた。谷筋を撫でる風が吹き抜け、忍性は寒気に震えた。しかし重時は熱く高笑いをしてみせた。

「沈む稲村道を渡ったか」

「遅くなっておきながら床を濡らし布団まで用意させてしまい、面目次第ございません」

六浦むつらから駆け、稲村道で波に洗われては倒れるのも当然だ。しかし、よくここまで走れたものだのう」

「大和では歩けぬ癩者を背負っておりました故、身体だけは他の僧に負けませぬ」


 すると重時は、再び笑った。とにかく笑うので忍性は、どうしたものかと眉をひそめた。

「いや、すまぬ。これは家訓にしておるのだ」

「笑いを、でございますか」

「万人に寛容にせよ、怒りを見せるな、とな」

 そう言ったところで忍性に引き合わされた日を思い出し、剃った頭をピシャリと叩いた。

「言うは易し、行うは難しだ。越後守には、悪いことをしてしまったわい」


 二年もの月日が流れたので、その名を聞いて顔を思い浮かべる必要があった。実時だ、六浦の湊からすぐに走りはじめたので、挨拶をしていないと気まずそうな顔をした。

 しかし地獄谷で活動をするのだから、形式上は重時に招かれたことになっている。実時に挨拶をしてしまっては、重時の顔を潰すのだと気づいて自身に言い聞かせていた。


 察した重時が、しみじみと口を開いた。

「越後守は、放生会ほうしょうえの手配で鎌倉におる。屋敷は知っておるか」

「は、六浦道の口でしたか」

「ならば、挨拶に行くとよい。様々手配してくれよう」

 そう言いながら重時は、忍性を見送ろうとはしなかった。まだ話し足りないとでも言うようで、忍性は姿勢を崩さなかった。

 そうして、昔話がはじまった。


「越後守は頼りになるが、真面目すぎるきらいがある。あれは儂が六波羅探題におった頃だ、もう二十……三年前か」

 その頃ならば実時は十五歳といったところか。ずいぶん昔の話でも、三つ子の魂と言うのだから差し置くなど出来そうにない。


「鎌倉殿の上洛に随伴したときだ。先を急がねばならぬからと、野宿をすると言って聞かなかったそうだ。御家人が代わる代わる説得し、ようやく道を引き返し宿に入ったそうだが、一度決めるとおいそれとは動かぬ」


 線が細く、お世辞にも武芸が得意そうではない実時が野宿とは、と忍性は驚きを隠しきれない。ただ真面目すぎて動かない、というのを知るには十分に足りる内容であった。

 しかし、これで重時の話は終わらない。


「一昨年もだ。供奉人ぐぶにんから漏れた御家人が加えてほしいと縋ってきたが、鎌倉殿が決めることだと取り合わぬ。書面を手配し幾度となく頼んでも、まったく相手にしようとせぬ」


 それだけ必死に頼むのだから、便宜を図ってもいいのではと重時はやや呆れていた。だが戒律を重んじる身としては当然では、と思ってしまう。同時に、実時の迷いを西大寺流が払えるのではと淡い光明を見出した気になった。


 いや、真面目ばかりの実時ではない。そう忍性は思い出して、重時に柔らかく笑いかけた。

「越後守殿は、遊びも求めておいでです」

 あの日見た、永福寺ようふくじだ。天上界のような景色を眺めるときは本当に幸せそうで、執権の側近も人の子なのだと思わせた。


「しかし、何故このようなお話を」

 そう言ったところで忍性はハッとした。重時の笑みは今、とても哀しそうに湛えている。

 この人は、死期を悟っている。倒れて、もう先は永くないと思い知った。それで知りうるすべてを託そうと、実時の思い出話をしていたのだ。


「良観房、頼んだぞ」


 噛みしめるように込められたそのすべてを受け止めて、忍性は赤鼻を床に擦りつけた。

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