第11話・由比ヶ浜

 禁じられても貧困にはとても敵わず、やむなく病者や孤児を棄てる者は途絶えなかった。最後にかけられる家族への思いやりは、せめて死んでも困らぬようにと、墓場に棄てることだけだった。

 墓場、と言っても御家人や僧侶のように崖地を削り、石塔を立てたやぐらではない。死して南方の浄土、補陀落ふだらくへ行けるようにと由比ヶ浜に打ち捨てられた。


 死臭漂う浜辺にて、孤児を連れた貧者や病者がもうもうと立ち上る湯気を取り囲んでいた。それは火にかけられた鍋であり、粥がふつふつと煮えている。

 眼前で湧き立つ雲海に浄土を見た貧者や病者、孤児を整列させる僧の中、一杯また一杯と掬った粥を手渡している忍性がいた。

「そう急くな、舌を火傷してしまうぞ。その子が先だ、抜いてはいかん。器がないか? 済んだ者はおらぬか、貸してやってくれ」


 幾度となく粥を煮て、からになった俵を開いてむしろにすると、重い病者をそこに寝かせた忍性は、僧として説法をはじめた。

「この施粥は、かつて行われておった文殊会を範としておるが、拙僧は亡き母の教えを受け継いで文殊菩薩を崇めておる。そう、智慧の仏だ。仏の道に目覚めた善財童子に、貴賤なく善知識を得るようにと修行の旅を勧めた菩薩だ」


 腹が膨れた衆中は、はじめは粥の礼と暇つぶしのつもりで聞いていた。それが貴賤なく、に心を惹かれて耳も視線も忍性へと向けるようになっていった。

「さて文殊菩薩が何故、智慧を司っておるのか、だ。問答で敵う者がなかった維摩居士ゆいまこじが、病に伏せった折。釈迦の代わりに見舞い、対等に問答を交わしたことから──」


 聞いてみれば小難しい話だと、不快に思う者もいた。そのうちひとりが、つまらぬ話をやめろと言わんばかりに野次を飛ばした。

「伏せっておるなら、大した問答も出来なかったのであろう」

 面食らった忍性は言葉に詰まり、固まった。


 大和の西大寺にいた頃は、師の叡尊が衆中への説法を務めていた。常陸三村寺でも、祈祷のあとの時頼やその女房たちも、求められて法話をしたから野次が飛ぶなどあり得なかった。

 さて、これに答えて納得されなければ、説法が続けられない。衆中が維摩居士、忍性は文殊菩薩の気分であったが、気分だけでは文殊の智慧など授けられない。

 このようなとき、叡尊はどうしていたかと思い返すが、同じ場面が思い浮かばず返事に窮す忍性である。


「衆中が病むとき、私も病むと維摩居士は言っておる。このあと、すぐ問答がはじまったので釈迦の弟子を呼ぶ方便だったのであろう」


 実時だ、施粥をする忍性を見舞いに来たのだ。

 そして変わった風向きに、忍性が乗った。


「このような問答があった。文殊菩薩は『言葉も意識も超越することを不二法門に入るという。それには、どうすればよいか』と問うた。維摩居士が黙念とすると、文殊菩薩は『文字も言葉もないこれこそが、不二法門を現しているのか』と感嘆した。このように維摩居士と文殊菩薩は『くう』を得た」


 崇め奉る菩薩の話が何やら身近に感じられて、衆中はこれにクスリと笑った。風向きは完全に、忍性のものとなっていた。


「その文殊菩薩は貧者の姿で現世に現れる。我ら西大寺流は、そなたらを文殊菩薩と思い施粥施薬をしておるのだ」


 貧者病者はざわめいた。疎まれ蔑まされて棄てられた自分自身を、文殊菩薩とするなど信じられない様子である。


「それが証拠に、拙僧はそなたとの問答に苦しみ黙念とした」


 忍性がほとほと困ったと苦笑すると、衆中から笑いが漏れた。手を差し伸べた実時も、そっと胸を撫で下ろしていた。


 腹が膨れ、笑いに緩んだ衆中が散開すると忍性は、実時に向かって頭を下げた。

「いやはや、拙僧は修行が足りませんな。越後守殿は、まるで文殊菩薩でございます」

 身に余る言葉だが、天神様よりはいいかと実時ははにかんだ。そして忍性が問うより先に、相談があるからと人払いをして口を開いた。


放生会ほうしょうえを控えておるにも関わらず、御家人の鹿しし食いが絶えんのだ」

「それでは……殺生の戒めにはなりませぬな」

 忍性が信じられない様子で唖然とすると、実時は嘆かわしいと眉をひそめた。

「朝廷から参った鎌倉殿も、これには参っておられる。我ら評定衆は、禁忌が犯されておらぬかを調べるよう仰せつかった」


 忍性は神妙な面持ちで、ただ黙って聞くのみである。一介の僧がまつりごとに深入りすべきではない、そう判断したからだ。

 しかし、話を聞くうちに実時の矛先が変わっていった。これには忍性も、おやっと片眉を上げてしまう。


「聞き取りをするうち、災厄を祓うべく行われる鎌倉殿の儀式が、御家人の重荷だと訴えられた。確かに、これは幕府とて同じこと」

 人気のない浜辺とはいえ、憚られることをぬけぬけと言う実時には、忍性とて気が気ではない。流れる汗が冷えていき、誰かに聞かれてはいないかと辺りを見回す。


「絶え間ない災厄を祓う祈祷が負担となり、不満を募らせた御家人が禁忌を犯す。これでは祈祷が意味をなさぬ、幕府は逼迫する一方だ」

 忍性は、実時が巻き起こしている渦に呑まれるのを感じた。そして、これに抗うのは不可能だと悟って固唾を呑んだ。


「まず、禁忌を犯さぬようにせねばならぬ。それには何が必要かわかるか」

 問われた忍性は、押し黙った。答えには察しがついている、しかし実時の答えが聞きたい。文殊菩薩に問われた維摩居士の心境に迫る思いが忍性にあった。


「鎌倉に必要なのは、戒律だ。良観房、西大寺の叡尊を呼べないか」


 歯車が、音を立てて回りだした。忍性は、そのひとつになるのを肌で感じて、知りうるすべての感情が破れるほどに胸を突いた。

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