第3話・地獄谷
その名に興味を示したのは、忍性である。一切恐怖することなく、凍ったように色の抜けた実時と、紅蓮の炎に身を焦がしている重時を、不思議そうに見つめている。
「この先に、地獄がございますか?」
睨み合っていたふたりが、忍性に目を向けた。慎重にかけられた言葉には、微かな震えが感じられる。
「良観房、覚悟はあるか?」
「人が地獄と称するところへ参りますのが、我ら西大寺流にございます。この良観房を、是非ともお招き頂きたい」
疑念に歪んだ眉を向ける重時に、忍性は何故かころころとした笑いを返す。それを確かめた実時は力強く頷いた。
「大和より参り、常陸より招いた良観房が申しております。知って目にせず悔やむより、目にしたことを悔やむのが、この僧の本望ではありませぬか?」
腕組みし、山を仰いで唸った末に重時は揺れる視線を忍性に定めた。
「良観房とやら、お主に何が出来ると申すのか」
「無限地獄を、極楽浄土にしてみせましょう」
裏表なく自信に満ちた忍性に、重時は地獄へ足を踏み入れる覚悟を決めた。実時も、歩みを阻む恐れを払った。
稲村ヶ崎裏の谷へ一歩また一歩と進んでいくと鼻を突き、喉を締め上げ胃を裏返す腐臭が纏わりついてきた。重時も、ふたりを招いた実時も袖で鼻を覆わずにはいられない。
しかし忍性は、赤鼻の周りに皺を寄せてはいるものの、歩みは吸い寄せられているようである。その足取りは決して速くはないが、まるでふたりを率いているようでもあった。
重時が躊躇いながら実時に問う。開いた口から流れ込み、鼻孔を襲う腐臭に堪らず顔をしかめてしまう。
「あ奴は、何者だ」
実時はやり取りの先を読み、なるべく短い答えを選んだ。それも、腐臭を吸わないためである。
「以前、
鎌倉から東に進み、峠を越えた先の金沢は実時の所領である。
この忍性も常陸から海路を使って金沢に訪れたのだろうが、ひとりの僧を実時は何故気に留めて覚えていたのか。重時は目をやり、話すようにと促した。
口を開くのを躊躇っているのか、話すより見るが早いと言うのか、実時は地獄谷へと急ぐ忍性の背中を見つめ、含み笑いをするのみだった。
そのとき、言葉にならぬ声が上がった。
地獄谷に辿り着いた忍性が息を呑み、嘆息したのだ。追っていたふたりは忍性を盾にするように一歩下がって、その名に相応しい光景を一瞥して絶句した。
地面という地面は、腐った死体で埋め尽くされていた。黒くぬかるんだ足元は
ところどころに蠢くものは、人には見えぬ人である。垢まみれの真っ黒な肌、ひしゃげた節々、潰れた頭、骨が透けて見えそうなほど痩せ細った身体。
それらは人であるのを諦めたのか、裂けた枝に手足を貫かれても彷徨い歩き、口に入るものであるならば草の根だろうと木の皮だろうと、腐肉であっても欠けた指で
谷の隅々にまで広がっている地獄絵図に、重時も実時も怯んで先に進めずにいた。
しかし忍性は構うことなく奥へと進み、手足を貫く枝を抜き、法衣を裂いて傷口に巻いた。血膿が吹き出し、それが黒く白く染まっていった。
「すまない、これしきのことしか今は出来ぬ」
丸めた背中を震わせて、口惜しそうに唇を噛む忍性に、重時が恐る恐る声をかけた。実時はただそのやり取りを見守っているだけである。
「それは……
「左様にございます」
落ち着き払った忍性に、重時は益々狼狽える。目の前で、ありえないことが起きている。そんな莫迦なと実時に縋るような視線を送ると、わずかにほくそ笑んでいた。
理解を越えた重時は、腐臭も忘れて荒げた声を忍性に浴びせた。
「僧が何故、
押さえた袖を荒い呼吸で踊らせている重時に、忍性は返す言葉を選んだ末、諭すように語りはじめた。
「失礼ながら、文殊菩薩はご存知でしょうか」
慎重にして淡々とした物言いが思わぬことで、重時は呆気にとられるばかりである。
「これでも、仏門に帰依しておる。智慧の仏ではないか」
さも当然という顔の重時に、忍性は笑いかけて話を続けた。
「仰せのとおりにございます。では、現世の文殊菩薩は如何なる姿かご存知でしょうか」
それを聞いた重時は、呼吸が止まるような思いがした。確かにそうと言われているが、信じ難いことだと目を見開いた。
そこへ実時が、ようやく口を開いて語りだす。
「文殊菩薩は、この現世では貧者の姿で現れると言われております。それに由来し、古くに文殊
これに忍性が満面の笑みを浮かべて続いた。
「拙僧は亡き母の教えにより、文殊菩薩に帰依しております。この癩者こそが、文殊菩薩の化身でございます。我ら西大寺流は、かの者に施し
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