第49話 おっさんと、ハムスターと、冷ややっこ
あの日、公子は鳩麦家と絶縁した。
それ以降の彼女の日々を語るとするならば、激動といえるだろう。
まず専用のアトリエから彼女は追いだされてしまった。
おまけに家名に釣られて彼女の作品を見に来ていた層からは見向きもされなくなった。
個展を通して獲得した彼女のファンは確かに一定数いるものの、その多くは一般人だ。
彼女の絵に数万出して買おうという層とは別物になる。
結果、公子は絵画道具一式と最低限の衣類を持ってアトリエを後にすることになった。
そんな彼女がむかった先は、古びたアパートの一室。
昔ながらの六畳一間。水道管には錆が浮き、コンロもつかいふるされたガス式の物。
風呂に至っては膝を抱えないと入れないほど小さなものだ。
移動した当日こそ彼女は色々四苦八苦していたものの、引っ越して一週間ほど経つ頃には新しい生活にも慣れていた。
今日も今日とて羽月は若干縁の割れた茶器で緑茶を入れて飲みつつ創作活動にいそしむ。
茶器は前の住人が残していったオンボロだ。
茶葉だって、彼女が初めていったスーパーで値段と量を見比べながら選んだ激安品だ。
以前までの彼女が見慣れていた高級品の茶葉とは異なるエグみの残ったお茶の味にも、今の公子は気にしない。
むしろ、彼女の操る筆先は踊るように、歌うように、A4サイズのキャンバスを静かに滑る。
「~♪」
彼女が口ずさむのは、先日もらい受けた中古TVで流れていた流行りのJ-POPのものだ。
アーティスト名どころか曲名すらもまだ覚えてはいないが、フレーズや音調が公子の気質に妙に合っていた。
静かな時間が流れる。やがて日が高い位置から低い位置へと移りゆく。
それでも彼女は意に介さず筆を躍らせる。
楽しくて仕方ないのだ。描くことが。
心にあふれる温かい気持ちを形に残したくて、彼女は筆を躍らせる。
とはいえ、暗くなってしまっては肝心のキャンパスが見えないから、筆先が視認しにくくなってから公子は電灯をつける。
ついでにカーテンを締めてから、彼女は再度キャンパスに向き合う。
その時だった。
部屋の隅の段ボールの上で、スマホが震える。
「……?」
彼女がスマホの画面を開くと、メッセージが届いていた。
文面を読み、公子は今日が何の日であったのか、今が何時か思い出す。
「そっか。今日……」
彼女は慌てて身支度を整える。
ガスはちゃんと切っていただろうか?
蛇口は開けっ放しにしていないだろうか?
いやいや、電灯を消し忘れたら電気代がもったいない。
そうそう、最後にはかならず鍵を閉めて。おっと、郵便受けの中身も確認はしておこう。
ここ最近身についてきた、一人暮らし特有の所作を彼女は行い、ようやっと家を出る。
出た頃には時刻は待ち合わせ時間の5分前だったが、彼女は焦らない。
場所はそれほど遠くないから、歩いてもぎりぎり間に合う。
慣れた道でも急ぐと事故に合う可能性があるから、間に合うなら無理をしなくてもいい。
そう、教えてくれたのは知り合いの誰だったのかと公子は思いながら古びた階段を下りていく。
彼女は昔より知り合いが多くなっていた。それぞれが特別で大切な彼女にとっての友達だ。
今日は、そんな友達と彼女が一緒にパーティーをする日だ。
若手の画家、鳩麦公子は階段の最後の一段を下りると、晴れやかな笑顔で会場――助六屋に向かうのだった。
~~~~~~~
「どうだ?公子は来そうか?」
店長こと大鵬昇は大机に料理を並べながら、鶴舞に話かける。
話しかけられた方はスマホのメッセージ画面を確認しながら答えた。
「今出たところだって!」
「いい加減、あいつには時間の守り方を教えるべきかもしれないな……」
大鵬が呆れ混じりに言うと、鈍色の瞳の少女――羽里がコップを並べながら肩をすくめる。
「それは無理ってやつだぜ?大鵬のおっさん、あいつがバイトで遅れた回数覚えてるか?」
「それはそうだがな……」
「あはは!も~、二人とも!今日はお祝いなんだよ?渋い顔しないの!ね、羽月さん?」
椅子を並べている間に名前を呼ばれた羽月は面食らう。
そんな彼の代わりか、横にいる雉鳥が話に乗ってきた。
「そうっす!そうっす!あ、ところで鶴舞さん。俺何か手伝うっすか~?」
「えー、いいの?」
「モチモチのロンっすよ!皿運ぶなら手伝うっす!」
「ホント!じゃあ私は飲み物取ってくるから、お皿お願いね!」
「え、一緒には――」
「雉鳥くん、力持ちでしょ?任せたよ!」
「え、えへへ。まかしといてくださいっす!」
「お前はそれでいいのか、雉鳥……」
鶴舞にいいようにあしらわれる雉鳥を横目に、羽月は複雑な気持ちになりながら椅子を並び終える。
その時、不意に店の入店ベルが鳴る。
全員の視線が入口に向かうと――入ってきたのは手に大きなワイン瓶を抱えた鵜飼だった。
居心地が悪そうに眉をひそめると、鵜飼は丁度手がいていた大鵬へ瓶を手渡しつつ呟く。
「もしかして遅れたかしら?」
「いやいや、係長!ぎりぎりセーフっす!」
「雉鳥君?オフだから役職名じゃなく鵜飼さんって呼んでもらえる?」
「あ、はい……すいませんっす。」
「わかればいいのよ。」
業務外でも変わらない二人の力関係に、何処からともなく微笑が漏れる。
公子以外の参加者が全員そろったことを確認し、羽月は鵜飼を席へと案内する。
「鵜飼さん、すいません。今日はオフなのに。」
「別にいいわよ。どーせ独り身だし、今日は所用もなかったし。
それよりも、羽月君も大変ね。打ち上げ場所の手配までしてくれてたなんて。」
「あはは、いや、この店で一度打ち上げしたかったんですよー。」
気遣うような鵜飼の視線を受けつつ、羽月は誤魔化す。
実を言うと、今日のパーティーは公子の新生活祝いと個展成功を兼ねたものだ。
個展自体は無事に成功し、むしろ大反響となった。
界隈で名前が売れ始めていたとはいえ、一般人には公子の作品はまだ知られていなかった。
それが今回の個展を経たことで、「マジですごい美少女画家」としてネットで俄かにバズっていた。
とはいえ、未だ一時的なブームでしかなく、鳩麦家と絶縁状態の公子であるからまともな販路もない。
これから、そのあたりの課題をどうにかしなければいけないのだが――それは今回のパーティーとは別に検討される話だ。
まして、請負先でしかない羽月たちの会社にとっては個展が成功した時点で勝ち抜けである。
そんな状態であるから、現場レベルのお祝いとして、今回のパーティーが企画されたという経緯がある。
「にしても驚いたわよ。本当にあの子が作者だとはね。」
「当日に教える形になってすいませんでした。」
「いいわよ?羽月君のことは普段の仕事で評価しているのだから、仕方なかったことなのでしょう?」
上司から評価されているのだと知り、羽月は少しだけうれしい気持ちになる。
一方、皿を並び終えた雉鳥が唇を尖らせて二人の会話に割り込んでくる。
「えぇ~。鵜飼さん、俺はどうなんすか?どうっすか?」
「貴方は……月並みね」
「わりと本気で傷つくんですけど!?」
笑いがあふれる。
そうこうしている内に、一通りの用意が終わり、各々が自席に座る。
残すは今回の主役である公子のみだ。
やがて、集合時間ちょうどとなった時――
チリン―― チリン――
入店ベルの音が部屋の中に響く。
全員が視線を入口へ向けると、そこには――
「えへへ、お待たせしました。」
最後の参加者である公子は、申し訳なさそうに眉を八の字に曲げる。
磁器のように透き通った色合いの素肌に黒曜石を思わせる大きな瞳。
それを引き立てるようにふんわりと伸びた髪は、地毛の銀髪に戻っていた。
彼女に対してそれぞれが声をかける。
だが、どれとて冷たいものではない。親しみの念がこもった暖かい言葉だ。
公子は決して一人ではなかった。
あの日以来、彼女は何度そのことをかみしめったであろう。
今日もいつものようにかみしめると、公子は雨の後に空へかかる虹のような笑顔で笑うのだった。
「皆さん、いつもありがとうございます!」
~~~~~~~
それからパーティーは大いに盛り上がった。
むしろ、一部は盛り上がりすぎてしまい酔いつぶれる者もいたほどだ。
たとえば雉鳥は、なんとか鶴舞の連絡先を聞こうと四苦八苦し、結果的に彼女へ飲み合い勝負を仕掛けて大敗していた。
店の端に椅子を並べた簡易の寝床が作られ、そこに寝かされていた。
鵜飼は酔いつぶれることはなかったが、パーティーの中盤ほどで「今日はこのへんでお暇するわ」と帰っていった。
結局残ったのは未成年の二人と鶴舞、大鵬と羽月である。
内、女三人は机を囲んでひそひそと何やら話し合っていた。
「あ、あの……け!結局!鶴舞さんってどういう関係なんですか?」
「おー、ついに聞いたね。ハム子」
「え、えーと、どういう関係って?お姉ちゃん困っちゃうな――」
三人の会話は俄かに熱を帯び始めていた。
一方、大鵬と羽月のおっさんペアはいつの間にやらカウンター越しのいつもの位置でゆっくりしていた。
特に羽月なぞは女三人集まれば姦しいとはよく言ったものだと思いつつ、珍しくもウィスキーのロックなんぞを楽しんでいる。
大鵬はそんな視界の端に白いものを何やら作っていた。
何の気なしに羽月はそのことへ触れることにする。
「店長、何を作ってるんだ?」
「ああ、これか?」
大鵬は少しばかり自慢げに目配せし、「食うか?」と彼に問いかける。
羽月は静かに首肯する。
「タコさんウインナーに続いての自信作だ。お試しだからタダでいいぞ。」
そういいつつ彼が差し出したのは冷ややっこだ。
しかし、普通の冷ややっことは異なる。
絹ごし豆腐の上に卵黄ときゅうりの細切り。そこに味噌ベースのタレがかかっている。
羽月は生唾を飲みつつ、豆腐を箸でつまみあげ、卵黄とタレにからめる。
そして、口へホロホロとした豆腐を入れるのだった。
旨味の波が口の中で押し寄せ、思わず彼は大鵬の肩を叩く。
「店長、天才だ!」
「だろ?今度メニューに追加予定だ。」
暫く二人が談笑を続けていると、不意に机の上にのそりと登る存在がいた。
それはある意味今回のキーマンならぬキーアニマルだったハム蔵だ。
本来なら動物持ち込みNGは助六屋だが、今日だけは店長の大鵬がOKしたため公子と来ていた。
羽月が手で呼ぶとハム蔵はゆっくりと彼の手の上に乗り、ずしりとした重さが伝わる。
それをみた大鵬が少しばかりからかい気に呟いた。
「なつかれたな?」
「どう、だろうな。俺には公子のように動物の言葉はわからないからな。」
「ほう、お前たち呼び捨てにするほどの仲になったのか?」
「……どういう意味だ?」
二人の間に妙な沈黙が流れる。
暫くして、大鵬は何事もなかったかのように会話を続ける。
「それで、『腹を据えた』感想はどうだ?」
「別に、俺はあの子の住処とか用意しただけさ。
なんだかんだ、あの子がこれから頑張る話だろ?」
「ずいぶんと殊勝なことをいうな。てっきり俺は惚れでもしたから用意したのかと思ったぞ?」
「俺はただ――」
「ただ、なんだ。」
「なんでもないさ。それより、そんなことを言い出すなんて、店長酔いすぎだぞ。」
「失礼な。今日の俺は1滴も飲んでないぞ。」
「そうかよ……」
羽月は遠目に羽里と鶴舞の二人と談笑する公子を見やる。
ここ一か月ばかりの苦労の結果が今の絵面だ。
残念ながら彼には絵心はないが、悪い気はしないでいた。
だが、同時に自分が三十路であることも思い出し、歳のわりには落ち着きのないことをしたと自嘲も沸いてくる。
いったい、あと何年こんな青臭いことができるのだろうかと。
大人になり切れていないまま、大人になってしまったと、後悔とも諦観ともつかない気持ちが沸く。
かれは、その考えを消すように、一つまみの冷ややっこを口に含み少量のウィスキーで流し込む。
ひんやりとした滑らかな感触と濃厚な旨味。次いで焼けるような酒気が喉を通る。
対して彼の掌では小動物特有の確かな重みがあった。
「おっさんと、ハムスターと、冷ややっこ。」
「――?」
店長の疑念の視線か羽月に向けられる。
羽月は言葉を続けた。
「今回、俺が手に入れたのは、そのくらいかな。」
「随分とささやかなもののために腹を据えたもんだな。」
「悪いか?」
「悪くはないさ。ただ、お前が昔に戻った気がしただけだ。」
「なんだ、それ。」
「なんだろうな。」
互いに良い年齢をした男性同士が顔を突き合わせ、静かに笑い合う。
今回、羽月が手に入れたものは、確かにささやかなものだろう。
だが、何故だろう。
彼には、それこそが大切なもののように思えた。
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