第48話 少女とハムスターから始まった物語

「どうしてこんなことをした?」


 活気立つ個展会場から少し離れたベンチで項垂れながら志々雄は言葉を漏らす。

 今は来賓向けの閲覧時間を終え、一般入場が始まったところだ。

 開場の騒ぎに感化されて集まった人波が新しい人波を産み、個展会場は初日だというのに想定外の賑わいを見せていた。

 一方、志々雄の表情は暗い。

 相対する公子は羽月の横に立ちながら、静かにはっきりと口にした。


「お兄ちゃんは、本当に私を愛してくれてた?」

「何を――孤立していたお前を守ってやっていたのは僕じゃないか。」

「それは感謝してるよ?けど、私はずっと苦しかった。つらかった。」


 公子は震える手で自身の腕をさする。

 パーカーの生地越しに青痣特有の鈍い痛みが彼女の身体を苛む。


「私はそれを絵に吐き出した。けど、それがお兄ちゃんの目に留まって――」

「だが、お前も喜んでいたじゃないか。居場所ができたと。」

「私も、最初はそれでいいと思ってた。思い込もうとしてた。けど――」


 公子の視線が羽月へと向かう。

 それに気づくと志々雄はくたびれたように笑った。


「理解しがたいね。そんな男のどこがいい?お前に何をしてくれたんだ?

 僕はお前のためにアトリエを用意したぞ?臆病者のお前が集中できるように周囲を遠ざけもした。必要なコネだって用意した。そうしてようやっと今日を迎えたんだ。

 これを愛と言わずなんという?」


 悪びれもせず、至極当然のように志々雄は彼にとっての“愛”を語る。

 公子はその態度に言葉を失ってしまう。代わりに口を開いたのは羽月だった。


「わからないんですか?

 彼女が求めているのは、そんなことじゃなかった。

 純粋に彼女に寄り添い、心を――体を――労わってあげることだったんです。」

「はっ!笑わせるね。僕は両親に“そんなこと”は教えられていない。教えてやろうか?」


 それから、志々雄は跡取りとしての半生を語る。

 子供の顔よりもテストの結果と通知表を見る両親。

 彼自身ではなく、肩書に頭を垂れる周囲。

 彼の物語の中では、いつも彼は一人きりだった。

 そんな中で生まれた妹ですら、能力を言い訳に彼とは一緒にならない。


「公子、何故お前だけが気持ちを察してもらう道理がある?

 お前の味わっている苦しみは、僕が味わったのと似たり寄ったりだ。

 お前だけ助かるなんて、許されていいはずがない。」


(ああ、そういうことか……)


 羽月は初めて志々雄の本音に触れた気がした。

 そもそも志々雄は公子のことなどどうでもいいのだと。

 彼の心の中には彼自身しかいない。だから、公子が思い通りにならないからと手をあげたのだと。


(だけど、そんなのは子供が癇癪を起すのと同じだ。公子さんは人間なんだぞ?)


 羽月は思わず拳を振り上げそうになる。

 しかし、その腕を公子の手が抑えつける。羽月が彼女の手から感じる体温は、驚くほど冷たくなっていた。


「お兄ちゃんにとっては、そうなんだね。

 けど私も、もうお兄ちゃんの人形さんでいるつもりはないよ?」

「公子、お前はまだ子供だぞ?子供になにができる?この個展の手配ですら、俺の――鳩麦家の力があってこそだ。」

「だからこそ、だよ。元々私はこんな場所を借りれるほどの物は持ってないと思ったの。

 私は、今まで鳩麦家に甘えていたんだと思う。」


 公子は兄である志々雄の目を初めて真正面から見据える。

 その瞳にはぶれない熱がこもっていた。


「私は、鳩麦家の一員ではなく、鳩麦公子という人間として、絵が描きたいの。」

「それがどういう事かわかっているのか?父と母がどう思うと思って――」

「言いたければ言えばいいよ、お兄ちゃんはいつも二人の顔色が一番だもんね。」

「お前ッ!!」


 公子に伸びる志々雄の手を、横から羽月が払う。

 志々雄は唸ると、髪をかき乱して腰を上げる。


「ああ、いいだろう。せいぜい“一人”で頑張るといい。

 ただ、今日この場だけは――」

「わかってます。おにぃ……鳩麦志々雄さん。」

「――本気なんだな?」


 公子を睨みつけると、志々雄は来賓の者たちがいる場所へと去っていく。

 彼の背中が同属たちの中に埋もれるのも確認すると、公子は羽月の服の裾を指でひっぱるのだった。

 うつむいた彼女の顔色は彼からは確かめることができない。


「少しだけ、胸を借りてもいいですか?」


 静かに、か細い声で公子は羽月に確認を取る。

 だが、彼が答えるよりも先に、彼女の身体は彼の胸元に埋まるのだった。

 鼻を啜るような音と共に、潤いを帯びた声で公子はポツリポツリと言葉を紡ぐ。


「ついに、言ってしまいました……」

「ああ――」

「でも、正しいことをしたはずなんです。そう、ですよね?」

「……ああ。」

「それなのに、なんでか、止まらないんです。

 一人だったんだなって、愛されてなかったんだなって。

 胸が痛くて苦しくて、涙が後から後からわいてくるんです。」

「……。」

「私は――」

「一人じゃないだろ。」

「えっ?」

「少なくても、俺と、羽里と――ほかにも、これから増やしていけばいい。」

「――ゔ、ゔぅっ!!」


 会場から少し離れた場所で、少女の涙は羽月の服にシミを一つ二つと作っていく。


 今は枯れない涙も――


 心に残る生傷の痛みも――


 口にした言葉への後悔でさえも――


 明けない夜が、塞がらない切り傷がないように、いつかは癒えるだろう。

 とはいえ、まだ心が幼い少女には今少し時間がかかる。

 だからこそ、羽月は彼女の背中を撫でながら思うのだ。


(俺が、しっかりしないとな――)


 もし、彼の人生を一冊の本にするとするならば、前半は取るに足らないありがちな話になるだろう。

 それこそ起承転結のないような日常に、少しばかりイベントシーンが挟まれるほどの、読者すらいないような凡作だろう。

 だが、人生は長い。一冊の本で表すにはあまりに長く、予想できないことも起きる。

 だからだろう。

 この日から始まる彼の物語の後半部分は、今までとは違うものとなる。

 一人の少女とハムスターから始まった物語が、羽月一の人生を変えてしまったのだから――

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