第44話 変態シスコンDV男


 羽月の背が非常口へ消えて行くのを目で確かめた後、志々雄はスマホを取り出す。

 慣れた手つきで画面をタップし、耳へと押し当てる。

 呼び出し音が止まると、志々雄は端的に伝える。


『予定通りにつつがなく頼むよ。』


 彼は相手の返事を待たず電話を切ると、床から髪の束を拾うとポケットへと忍ばせる。


(これで、最大の邪魔者は消えた。次は――)


「あれ?志々雄――様は先輩と一緒じゃないんですか?」


 素っ頓狂な声に俄かに志々雄は振り向く。

 彼にとって顔は見たことはあるものの、直接話したことがない相手先の社員だ。


(確か、雉鳥だったか?)


 志々雄は顎に手を当てて、暫し思考を巡らせる。

 素直に羽月が彼をおいて何処かに行ったというのは不味いだろう。

 顧客を置いて社員が消えたとなれば、相応の騒ぎとなりえる。

 個展の開場まで時間は若干あるものの、ここで不要に注目を集めるようなことは避けたいと彼は考えていた。

 しかし、志々雄本人が案内を頼んだ手前、知らぬ存ぜぬで切り抜けられる場面でもない。

 何かしら、雉鳥を納得させる答えが求められると判断し、それらしい理由を咄嗟に作り出す。

 話す彼の顔はいつもの礼儀正しい顧客そのものだ。


「ああ、彼に少し頼み事をしてね。」

「頼み事っすか?」

「今日来る来賓がいるからね。道案内を頼んだんだ。」

「そう――すか。先輩も言ってくれればいいのに。志々雄様、すいませんっす。」

「いやいや、いきなり頼んだ僕も悪い。それよりも君、続きの案内を頼みます。」

「あ、了解っす!ただ、少しだけ電話をかけてもいっすか?」

「勿論だとも。手間をかけてすまないね。」


 雉鳥が部屋の隅へ行き、どこかへ電話をかけ始める。

 対応に慣れていないのか、若干手間取っているように見える彼を尻目に志々雄は瞳に粘つく妄執の炎を宿す。


(公子、お前は僕だけのものだ。絵も、身体も――そして心もね。)


 ~~~~~~~


 やがて一刻ばかり時が過ぎ、関係者が先行して入場可能な時間となる。

 この時点でも羽月の姿は会場には見当たらなかった。

 鵜飼と雉鳥の顔色に焦りの色が浮かぶが、志々雄は意に介さずにスマホの画面へ目を奔らせる。

 画面に映し出されたメッセージに彼の目尻は緩むが、すぐに毅然とした普段の表情の裏へと消えていく。

 そして、彼はいつものように凛と声を出すのだった。


「じきに来賓の朋央院さまが来られるそうです。

 ただ、羽月さんという名前でしたっけ?

 彼とは合流できなかったようで、先方が困っているようで。

 彼とは連絡は取れているのかな?」

「それが……」


 鵜飼が困ったような表情で言葉に詰まる。

 その後ろでは雉鳥が何度目かという電話をかけていた。

 ここまでは志々雄の予想内の出来事だ。だからこそ、彼はあえて表情を、心を隠して言葉を発する。

 さながら演劇の役者のように、彼は『当日にハプニングの影響をうけた顧客』になりきる。


「今はどうするか、じゃないでしょうか。

 あまり待たせれば先方も気分を害すだろうし、相応の立場の人が彼の代わりに迎えに行ったほうがいいんじゃないかな?」

「は、はいっ!私が迎えに行ってきます!」


 鵜飼は慌てて会場から出ていく。

 その後ろ姿を見送った後、志々雄は通話を終えた雉鳥へと向き合う。


「君もなかなか大変な立場ですね。一人で会場に残されるなんて、緊張もしてるんじゃないのかな?」

「あっ、いえ。そんなことないっすよ、先輩たちに比べれば――」

「ふふっ、先輩思いなんだね。ただ、少しは息抜きも必要だと僕は思うんですよ。

 良ければ、なんですが――」


 志々雄は雉鳥の掌へ紙幣一枚を置き、人の良さそうな笑みで語りかける。


「飲み物でも買ってきてください。おつりは要りませんよ?」

「えっ、でも悪いっすよ!こんな大金!」

「いえいえ、今日はお世話になりますし。

 ただ、どうしても気になるなら、私の飲み物も買ってきてください。

 丁度、建物の入り口にあった銘柄のコーヒーが好きでして……

 そのくらいの時間であれば、来賓が来るまでに戻ってこれるはずですよ?」


 志々雄は言葉巧みに雉鳥へ入口に向かうように促す。

 人間、多めの金銭を渡された上で相手から頼み事をされれば、多少の面倒ごとは引き受けるものだ。

 それは、雉鳥にも言えることであり、彼は志々雄の言葉を疑う様子なく、場を離れる。

 雉鳥が戻るには10分弱の時間がかかることだろう。

 ほかの人員にも似たようなやり取りを志々雄は行い、やがて、個展会場は彼一人となる。

 そして、時は来る――


 コツコツ―― タッタッ――


 二人の人間が歩く音が、階段を登って志々雄の耳へと届く。

 彼は待ちかねるように階段へと視線を向ける。

 一段、一段。ゆっくりと人間のシルエットが、姿が階段境いから現れてくる。

 一人は志々雄の知らない、ショートボブに琥珀色の瞳が印象的な女性――鶴舞だ。

 そして、もう一人は、彼の待ちかねていた特徴をしていた。

 茶色と白のフードをかぶる小柄な少女だ。

 フードから洩れ出た銀髪は運河を思わせる煌めきがある。

 元気がないのか少し猫背なため顔は見えないが、その姿に志々雄の心は踊った。

 今すぐに出迎えたくなる。

 しかし焦りは禁物だと、彼は自分に言い聞かせる。


(一か月だ。一か月待ったのだから、確実に逃がさないようにしないといけない。)


 焦る気持ちを抑えて、彼は階段からは自身が見えない位置へと身体を滑り込ませる。

 やがて、登り切った二人が会場の入り口へと向かう。


「あれ、少し早かったかな?誰もいないよ、公子ちゃん。」

「……。」

「どうしよ?先に入って待ってよっか?」


 コクリッと小さくフードの少女が首を振る。

 そして、二人がゆっくりと入口を通過しようという時――

 物陰から志々雄の身体が抜け出し、彼の手が少女の肩を強く掴む。


「待っていたよ、公子。お前なら、今日は絶対に来ると思っていた。

 どうせ、兄さんの作品じゃないとでも言って、身の上話でも語るつもりだったんだろ?

 大衆に訴えれば鳩麦家と言っても、もみ消すにも手間がかかるからな。

 だけどな――」


 甘くとろけるような猫なで声で志々雄は語る。

 彼の予想を、公子がどれほど彼に手玉に取られているのかを。

 それは1分にもおよぶ演説ともいえる。

 いかに彼が彼女を理解しているのかという、独善的かつ支配的な欲求に任せた語りは、人によっては耳をふさぎたくなるほど不快なものだろう。

 しかし、それでも女性と少女は止めない。

 少女に至っては、振り向きさえしない。

 志々雄は最初、あまりの絶望に少女――公子ができないでいるのかと思っていた。

 だが、はたと彼も気づく。

 いくら何でも、おかしくないかと。

 同様で彼の手の力が弱まった瞬間、少女は彼の手を振り払った。

 そして振り向く。少女の瞳は黒曜石ではなく――鈍色のものであった。


「ご高説どーも。お兄ちゃん、だっけ?」


 ニヒルな笑みを浮かべると、髪を銀色に“染めた”少女――羽里硝子は志々雄に向き合う。


「ほかの女を捕まえたはどーだ?変態シスコンDV男よぉ。」


 志々雄の顔に青筋が浮かび上がった――

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