第41話 夜は更ける。そして朝がやってくる
公子の逃亡から数週間後――
羽月は終業後にいつもの居酒屋、助六亭にいた。
珍しく活気のある店内を眺めながら、今日も今日とて羽月はアルコールを呷る。
いつもと異なる点があるとすれば、同行者がいることだろうか。
同行者が少し長めのトイレから戻るところを待ちつつ、一人思考の海に浸かる。
(にしても、驚くほど何も起きないな――)
あの日以来、羽月は志々雄から何かアクションがあるのかと警戒していた。
しかし、驚くほど志々雄の態度は変わらず、むしろ今までよりも良く羽月の会社に顔を出すぐらいだった。
顔を出す際も「現場に。」と菓子折りを差し入れる程度には余裕があり、公子が居なくなった影響を全く感じさせない。
とはいえ、あれ以来、念のために羽月は公子に直接会う事を控えていた。
(だが、ここまで何も起きないのも不気味だよなぁ。)
釈然としない違和を感じつつ、羽月がビールを嚥下して思考を霧散させていると、同行者が戻ってきた。
「先輩っ!いやぁ、ここってトイレもキレイっすね!」
手をハンカチで拭きながら、ハキハキとした声で雉鳥は羽月の横へと腰掛ける。
何を隠そう、同行者とは彼のことであった。
羽月は若干スペースを空けると雉鳥にジョッキを軽く傾ける。
「お帰り。んじゃ、パァーっと一杯するか!カンパーイ!」
「はい!カンパーイ!!」
二人のジョッキがぶつかり合い、涼し気な音と共に液面が若干揺れる。
零れそうになる液を逃さまいと先輩と後輩の二人は汗をかいたジョッキに口を付けるのだった。
二人が仕事の話に花を咲かせていると、ジョッキが1/3ほど空いた頃に鶴舞がやってきた。
彼女の片手にはトレイがあり、上にお通しの品がある。
二人に通しを渡しつつ、鶴舞は驚いたように口を開く。
「羽月さんが誰か連れてくるなんて珍しい!」
「なんだ、俺が連れてきたら変か?」
「変っていうか、知り合いとかいたんだなって私驚いちゃって。」
「地味に酷いことを言う奴だな……」
「あ、あの先輩、この人――この子は?」
先ほどよりも幾分か大人しい後輩の声に羽月が振り向くと、アルコールの回りがいつもよりも早いのか血色が強くなった雉鳥がいた。
雉鳥の目が羽月と鶴舞を交互に行ったり来たりする。
(ははぁん、これは……)
羽月とて男。言葉で言わなくても伝わることもあり、後輩のために知り合いを紹介するくらいはやぶさかではない。
どう紹介したものかと一瞬考えたあと、最もシンプルな回答をすることにした。
「ここ、俺の昔のバイト先なんだ。」
「あっ、そうなんっすか!?だから店員さんと親しいんすね!」
(まあ、厳密には若干違うが、これが一番わかりやすいか。)
内心、妥協しつつ羽月は鶴舞のことを紹介する。
紹介される鶴舞はいつもと変わらず元気だが、受ける雉鳥はどこか緊張気味だ。
いつもとはちがった後輩の姿を肴にしつつ羽月がビールを飲んでいると、珍しく鶴舞は早々にカウンターへと消えていく。
どうやら今日は客が多いから注文も忙しいようだと、彼は思った。
注文が届くまでしばらく時間がかかりそうなため、お通しのあん肝ポン酢を食べつつ、羽月は雉鳥と会話をする。
「にしても雉鳥の好みがアイツとは意外だったぞ?」
「別にそういうわけじゃないっす!ただ、明るくて綺麗な人だなってだけで――」
「ほうほう?そういえば雉鳥は今フリーだったもんなぁ。」
「……先輩?あんまり弄るとマグロ大トロ刺身盛り頼むっすよ?」
「――悪い、それだけは勘弁してくれ。」
実をいうと今日の会計は羽月のおごりとなっていた。
以前約束した飲み会をするというのを彼が果たした形だ。
勿論、一応は以前のランチで約束としてはチャラになっているわけだが、羽月としては別に含むところもあっての行動だ。
途中、鶴舞が混じりつつも会話が進み、酒気が二人とも十分に回り切ったころ、羽月は話題を切り出す。
「そういえばさっきラインで送ったやつなんだが――」
酒気のせいか、はたまた素であったのか、暫し羽月の話に耳を傾けた後、鶴舞は爽やかな笑みで答える。
「そのくらいなら、全然いいっすよ!」
そこに、端々で話を聞いていた鶴舞も顔を出した。
最初は雉鳥と若干の距離をおいていた彼女であったが、性根のせいか羽月ほどでなくとも、雉鳥にもかなりフランクに絡むようになっていた。
「何々?二人とも何相談してるの~?」
羽月はふと鶴舞との約束も思い出す。
個展当日のことを考えると誘っておいた方が良いだろうと、彼女にも声をかける。
最初は若干渋そうな顔をしていた鶴舞だったが、最後には呆れ半分、感心半分といった感じで了承した。
「羽月さんのたのみならいいけど、何歳くらいの子なの?」
「高校生くらいかな。」
「あれま若い。いいよいいよ!可愛いじゃん♪ただ、穴埋めはしてよ~?」
「ああ、また食器の補充でもなんでも付き合うさ。」
「ん、交渉成立ね♪」
そんな三人を見ながら、カウンターの向こうで店長が豆腐を切り分けながら静かに笑うのだった。
~~~~~~~
一方、羽里の自宅では公子がリビングで一枚の板と向かい合っていた。
リビングにはビニールシートが敷かれ、一部には鮮やかな色が散っている。
それは舞い散り積もる花弁のように、あるいは水面に映った花火のように、彼女の内心を映し出す。
陶器のように白い肌は上気して若干の朱を帯びている。
黒曜石の瞳に映り込む景色には色彩の波が躍る。
頭で考えるより、心で思うより、先に彼女の筆が板の上を踊る。
空白の世界が多彩になっていく。
始まりは困惑だろう、次いで暖かな安心が生まれ、羨み、嫉妬し、絶望し。
やがて、光がキャンパスを満たす。
(楽しい――)
声に出さない感情にも拘わらず、彼女の筆は口よりも喜びを語った。
自分を、心を、輪郭をもって取り戻していく。
もっと楽しかったはずだと。自身が自身を囃し立てる。
止まらない筆はキャンパスを蹂躙し、一つの『今』を作った。
(家族でも、お兄ちゃんでもない―― これが“私”――)
一枚の絵が完成した時、一人の少女は肩で息をしていた。
その時の顔を知るものはただ一人。
ソファに横になりながら、それが産まれ往く姿を眺めていたもう一人の少女だけ。
そして、もう一人の少女は、鈍色の瞳に彩りを映しながら、呟くのだった。
「これが、お前かよ――」
「うん――」
夜は更ける。そして朝がやってくる――
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