第40話 枯れ井戸の底を思わせる
数十分後、羽月たち三人の姿は羽里の自宅にあった。
羽里は四人掛けのソファに身体を投げ出すと自重気味に笑い声をあげる。
「どーよ?無駄にだだっ広いだろ?」
羽月と公子は、そんな彼女の姿に顔を見合わせるのだった。
確かに羽里の言う通りに家は広かったが、羽里一人が一か月使うにしては広すぎるとも言える。
家族旅行で彼女一人だけ残っていることが、殊更に強調されているようで、二人は言葉に詰まる。
そんな二人の気持ちを知ったうえで、羽里は釘を刺すように言葉を重ねる。
「――変な誤解はするなよ?私は“アレ”達と一緒にいることが反吐が出るほどに嫌なんだ。
それに、今更話したところでどうなるもんでもないだろうしな。
むしろ今だけが一番羽を伸ばせてるんだと、私は思ってる。
それに、ハム子にとってはこの方が都合がいいだろ?」
「それは――」
「遠慮すんな、どーせ一人で使うには広すぎるんだし。ひと月だけは面倒みてやるよ。
それよりも、だ。はじめ、どーするつもりなんだ?」
「どうするっていうのは?」
羽里は半眼で「ボケるにははえーぞおっさん。」と溜息をつく。
「私がここを貸せるのは一か月が限度だ。
来るまでに聞いた話だと、丁度個展だかの時期になるんだろ?
そこを過ぎたら100%やっこさんが動くだろーよ。」
「それは、そうかもしれないな――」
羽月は今一度状況を整理してみる。
志々雄は公子に歪んだ感情を抱いている。
特に絵画へは異常と言っても過言ではなく、描かせるために暴力をふるうのも厭わない。
ただ、絵画が完成しているのなら、両親の影響もあって志々雄は大きな行動には出ない。
一方で公子の今までの作風は抑圧された鬱憤の発露のようなものだと思われるだろう。
本来の彼女の作風は、羽月を描いたときのような柔らかなものだ。
(今までが、間違っていたんだろう――)
彼はそう考えた。
心を抑えつけて描く絵に何の価値があるのかと、悲鳴の上に描かれる芸術に意味はあるのかと羽月は思う。
今までの作風を続けるということは公子自身の“現在”を否定することになるのではないだろうか?
それはきっと、彼女にとって辛く息苦しい道だ。
だからこそ、羽月は公子へと向き合い、彼女の肩を掴んだ。
「俺に、考えがある。」
~~~~~~~
「ふんっ、下らないことを。」
過ぎ去る街中を車窓より眺めながら、志々雄は手元のノートパソコンの画面を指ではじく。
勿論、その行動に大きな意味はない。
だが、彼のことを良く知っている者――そう、例えばお抱えの運転手にとっては別だ。
老齢の運転手はバックミラー越しに彼の行動を見やった後、視線を前方に戻して呟く。
「何か問題でもございましたか?」
窓へ向けられていた志々雄の視線が運転席に突き刺さる。
「何故、そう思う?」
「いえ、若にしては珍しく――」
「珍しく、なんだ?」
「珍しく、焦っておいでかと。」
「焦っている?僕のどこが?」
茶化すように志々雄は笑うが、目は鋭さを保ったまま運転席を見据えている。
常人なら、即座に言葉を撤回しかねないほどの鋭利さだが、慣れたものなのか運転手はハンドルを転がしながら落ち着き払った声で忠言をする。
「戻ってくるか心配になるくらいなら、鳥かごにカギをかければよろしかったのに。」
「ふふっ、ふふふっ……」
地の底が微かに鳴動するかのような、あまりにも小さくも危険を孕んだ笑い声を漏らし、志々雄はノートパソコンの画面を凝視する。
「焦りなんかじゃないさ。僕は嬉しいんだ、公子がやっと外に出てくれて。
彼女は持病のせいで外界を知らなさ過ぎたしね。ただ――」
画面に映し出されていたのは、防犯カメラの映像だ。
公子のアトリエ前を映す映像で、画面の端ではLIVEの文字が躍る。
丁度、羽月が公子を連れ出しているところだった。彼らの手には大きなバッグ1つと布をかぶった板が握られていた。
「どんなに離れても僕の掌の上なんだよ?公子。」
枯れ井戸の底を思わせる褪せた瞳で、公子の兄は呟いた。
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