第38話 黒曜石のような瞳が揺らぐ

 鳩麦公子という少女を表す言葉があるのだとすれば、多幸に生まれた薄幸の少女だろう。

 彼女が生まれた鳩麦家は、ルーツを探ると朝廷に仕えた公家の一つだ。

 公家とは儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族であったが、明治維新に伴い華族へ、第二次世界大戦の終結と共に華族としての立場でさえも喪失した。

 しかし、公家がルーツとなる家柄の多くは未だに様々な形で日本社会、ひいては世界に対して力を持っている。

 公の場にこそ名前が響かないものの、鳩麦家もその例に漏れることはない。

 そんな家の末子として生まれた公子に彼女の両親は期待した。

 いや、期待しすぎていた。

 両親はどちらも公家がルーツの家柄同士の結婚であり、とりわけ“格”には拘った。

「鳩麦家として恥ずかしくない素養を」「鳩麦家として恥ずかしくない教養を」。

 彼女の両親は公子にそれらを求め、彼女が歳を二桁数える前に受けていた習い事は10を超える。

 だが、どれも目覚ましい功績をあげることはできなかった。

 そんな彼女に両親が向ける目は次第に冷めていき、合わせるように兄の志々雄へ期待の眼差しは熱を帯びていく。

 だが、無関心も期待も、幼子たちにとっては大きな重圧になる。


「そんな時でした。兄が、私に手を挙げたのは。」


 公子は先日と同じTシャツに短パン姿で、青痣の浮き出た腕で自身を抱きしめる。

 今、二人は先日のテーブルを挟んで向かい合っていた。

 半ば頭を抱えるような形の羽月に対し、公子は椅子の上で体育座りをしながら身の上話をしていた。

 彼から求めたものではないが、見られたものが見られたものであるだけに、隠し通すわけにもいかないと公子が判断した結果だ。

 公子は一つ一つ、傷をなぞるかのように話を続ける。


「最初は小さな諍い、だったんだと思います。」


 志々雄は公子よりも年上であり、彼女よりも以前から両親の狂気的ともいえる”格”への拘りに晒された。

 そんな中、公子が生まれたことで、志々雄への圧は多少なりとも弱まったのだろうと公子は予想した。

 しかし、結局のところ公子は両親の期待には応えられず、同じ立場の兄に頼ることが多くなっていた。

 鳩麦の息子としての重圧と兄としての役目に板挟みとなった後も志々雄は彼女に優しかったが、ある日公子の方から兄に八つ当たりしてしまったのだという。


『お兄ちゃんにはわからないよ!私と違ってなんでもできるんだから!』


 子供ながらの小さな嫉妬だ。

 自分には何もないから、両親に期待され、それに応え続けられる兄に我が儘を言ったようなものだ。

 だが、それが志々雄を崩してしまった。

 両親から与えられ続ける重い責任に彼が耐え続けられたのは、この世に唯一いる自分と同じ立場の身内を守るためだったのだから。

 守るためへの思いが、公子の無理解への怒りと、こうであるはずがないという自己保身に変質していく。

 そんな兄が公子に向けたのは、優しい笑顔でも抱擁でもない。

 どこまでも続く空虚な穴を思わせる暗く深い視線と、鈍く重い痛みであった。


「それからは、見て頂いた通りです。

 兄は無事に鳩麦家の跡継ぎとして育つ一方、私への暴力は過激になりました。」

「両親は、止めなかったのか?」


 羽月が絞り出すように言うと、公子は心底疑問そうに逆に問うた。


「できそこないに“家族”が優しくすると思いますか?」

「……そうだな。」


 羽月は彼女の瞳に射抜かれて思わず肯定してしまう。

 内心は、違うと思いつつ、彼女にとっての家族がどれだけ壊れた存在なのか知ってしまい、打ちのめされていた。

 そんな羽月に公子は不意に優し気な顔になる。


「私はずっと狂いそうでした。いえ、すでに狂っていたのかもしれません。

 でも、私には絵があった。絵だけが、残ってたんです。」


 懐かしむように、恋する乙女かのように、彼女は語りを続ける。

 ある日、両親は公子に心を吐き出す場所としてキャンパスを与えた。

 別に彼女を不憫に思って渡したわけではなかった。

 息子が健やかに育つためなら、サンドバックを長持ちさせる程度の気遣いができただけだと彼女は語る。

 けれど、彼女は意味を正しく理解したうえで、それに縋った。

 痛む腕を、脚を、身体を、心を、絵に吐き出した。

 どうして、こんなに辛いのかと。

 世界の中でどうして自分だけがこんな目に合わなければならないのかと。

 長く続く両親の無関心と兄からの暴力に気の病を患っていた彼女にとって、絵は唯一の自己表現だった。

 彼女の画力は一枚描くたびに洗練され、世界から隔絶された自身の身の上を吐き出し続けた。

 やがて、それが兄の目に留まる。

 未だに公子は覚えていた。初めて兄が自分の絵を目にした瞬間を。

 いつも振り上げていた拳が力なく下げられて、こう言ってくれたのだと、一言一句まで。

『なんて素晴らしい絵なんだ……公子、お前が家族でよかった。』


「それから、兄の暴力は止んだんです。

 あれ以来、私が絵を描いている限り、暴力を振ることはありませんでした。」


 そこから先は羽月の知っている通りなのだろう。

 絵画業界の大御所に認められ、彼女の絵は公の場で評価されるまでになる。

 個展を開けてしまうほどに。

 ようやっと、話の全貌が羽月にも掴めてくる。


「つまり、その痣は……」

「仕方ないことです。だって、我が儘を言った私が悪いんですから。

 私は“家族”のために“家族”としての義務を果たさないといけなかったのに。

 でも、兄がわざわざ私のために“家族”としてしつけてくれたんです。

 流石に女性としての物を求められそうになった時は焦りましたけど、私がちゃんとすれば、そんなこと絶対しないって。今後の私の頑張り次第だって、時間をくれたんです。」


 異様な早口で公子は呟く。その瞳は空虚で焦点が定まっていない。

 まるで、羽月ではなく自身に言い聞かせているかのように彼の目には映った。


(壊れている……)


 羽月は項垂れる。


(家族も、兄も、公子さん自身も……)


 だが、その考えは同時に羽月自身への責め苦ともなる。

 少なくても、アトリエに呼ばれた時点で彼女はここまで壊れてはいなかったはずだと。

 あの日、あの夜、自分が逃げ帰ってしまってから、あった事が彼女を変えてしまったのだ。


(俺の、責任だ――)


 逃げたくても逃げられない、重苦しい非難が自身から溶岩のように噴き出て彼の心を焼く。

 でも、だからこそ、彼は逃げてはならないとも思った。

 あの日、できなかったからこそ、自分が責任を取るべきなのだと自責する。

 だからだろう、彼の口から漏れ出た言葉は冷静さに欠き、多分に感情に左右されたものだった。


「公子さん、俺と一緒にここから逃げよう――」

「ダメですよ。お兄ちゃんに叱られちゃう。」


 何を馬鹿なことを言っているのかと公子は感情のこもらない目で笑う。

 その瞳が「何故助けてくれなかったのか」と「もう手遅れだ」と、またも羽月の心を焼く。

 痛みから顔を背けるように、羽月は公子の腕を強く引っ張る。


「ここに居ちゃ駄目だ。」

「私は居ないといけないんです。“家族”であるお兄ちゃんのために、絵を描かないといけないの。次はもっと大きな絵を、立派なのを仕上げないと。」


 逃げるように公子は席を立とうとする。

 しかし、ろくに栄養すら取れていなかったのか、彼女の身体は思いのほか軽く、羽月の手を振りほどけない。


「家族がっ!」


 気づくと、羽月は声を荒げていた。

 怒気を孕んだその声に、今日初めて公子と羽月の目が焦点までかちあう。


「家族がっ!こんなことするわけないだろっ!」

「何を…言ってるんですか…?」


 彼女の割れた黒曜石のような瞳が揺らぐ。

 しかし、羽月は怯まない。彼女の分まで強い意志で彼女の視線を射止め続ける。


「家族ならっ!公子さんに暴力をふるったりしないっ!

 家族ならっ!それを見過ごしたりもしないっ!

 家族ならっ!絵が描けなくても責めたりはしないっ!

 家族なら――こんな状態の公子さんを放置したりなんて、しない――」


 二人の間で、曇天のような重苦しい空気が流れる。

 先に言葉を発したのは、公子のほうだった。消え入りそうな声で、彼女は言葉を紡ぐ。


「そんなの――そんなの、言われなくても、わかってる。

 でも、どうしようもないよ。だって、“家族”なんだから……」

「だったら、逆らえばいい。心は公子さんだけのものだから。」

「っ――!!うぅ、うぅううううう!!」


 ぽつり、ぽつりと、乾いた大地に恵みの雨が染み渡るように。

 彼女の瞳に潤いが、感情が戻る。

 雨足が段々と強まるように、涙はとめどなく流れる。

 引き吐くような泣き声をあげて、鳩麦公子は初めて温かみのこもった涙を流すのだった。

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