第37話 人形のような完成された笑顔

 終業後、羽月の足は数日前通った道を往く。

 初夏の気配が濃厚で日は長くなったというのに、彼の歩む道は空に立ち込める暗雲で薄暗い。

 隣町の駅から何個かの曲がり角を過ぎ去り、彼の足が向かった場所――

 それは、公子のアトリエだった。

 彼は柵の手前から家の様子を伺うが、鳩麦兄妹しか居ない関係か今日は異様に静かだった。

 無論、羽月は志々雄の連絡先を知っているので、在宅の有無だけならメッセージや電話で訊けば良い。

 しかし、彼の目的はそれが主ではない。


(あの子の様子が気になる……)


 羽月はスマホの電源ではなく、家のチャイムへと指を伸ばす。

 だが、ボタンを押す直前で彼の目に留まるものがあった。

 玄関から家の門へ続く歩道を、人のこぶし大はあろうかという毛玉――もとい小動物が走ってくる。

 段々と距離が近づき、羽月はその小動物が以前から見知っているハムスターのものであると気づく。

 心なしか先日よりも細身になった気がするハムスターは門の隙間から羽月の前に滑り出てきた。


『ブモッ!ブモモッ!』

「ハム蔵!?」


 相変わらず、ハムスターとは思えない鳴き声を上げているハム蔵に若干苦笑いしつつ、羽月はとっさに手を差し出す。

 ハム蔵は丸みを帯びた身体をのそのそと動かし、彼の手の上に乗り何かを訴えるかのように何度も鳴き声を上げる。

 ただ、生憎羽月にはハムスターの鳴き声から意図を汲み取れるスキルは備わっていない。

 飼い主である公子ならわかるのだろうが、玄関先に彼女の姿はなかった。


(どうしてここにいるのだろう……)


 羽月は逡巡する。

 流石に見知っているハムスターなだけに放置する訳にもいかない。

 一方で何故このハムスターが今、ここにいるのかとも思うのだ。

 ハム蔵は以前の脱走騒動で謹慎の身のはず。

 それにも関わらず羽月の手元にいるということは、脱走したとみるべきだろう。

 だが、脱走した割にはまるで待っていたかのように羽月の手中に収まってきた。

 公子曰く、人語を理解するハムスターが行うにしては、些か奇怪な行動だ。

 羽月が暫し思考の海に沈んでいると、ハム蔵は不意に彼の手元から飛び降りて道路へと降り立つ。

 そして、なんらかの意図を感じさせる声をあげる。


『ブモッ。』

「ついてこい、ってことか?」


 一度振り向いた後、ハム蔵は小さな足で門を軽く押した後、トコトコと来た道を戻っていく。

 勿論、ハムスターに押されたところで門は動くものではない。

 しかし、試しに羽月が門へ手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。

 どうやら、誰かが在宅のようだ。

 羽月はチャイムを鳴らしてから入るか迷うが、ハム蔵の意味深な行動を思い出して手を握り直す。


(何か、あるのか……?)


 彼はハム蔵の姿を追って門をくぐる。

 庭は以前と変わらない美しさだが、彼の目には花々がどこか悲しげに見えた。

 玄関の扉前へと至ると、ハム蔵がカリカリと扉を爪でひっかく。

 どうやら、入れてほしいらしい。


(どうやって出たんだ?)


 疑問に思いつつ羽月が扉に手をかけると、鍵は開いていた。

 羽月が軽く引いてみると、扉は抵抗なく開いてしまう。

 彼がそのことに半ば驚いていると、ハム蔵が中へと飛び込んでしまう。

 扉の隙間から、遠ざかるハム蔵の背が彼の目に映る。

 小動物とはいえ、全速力はそれなりに早く、このままでは早々に見失うことだろう。

 羽月は咄嗟に家に入ると、靴を脱いで慌ててハム蔵の背を追う。

 過ぎゆく家の中の景色が羽月の視界の端に映っては消えていく。


(これは――)


 廊下の光景は異様だった。

 壁に以前はかけられていたはずの公子の作品は1枚とて飾られてはいない。

 その上、壁沿いに置かれていた調度品はところどころ床へと転がり、一部は割れていたりもした。

 一見、強盗に入られたのかという景色だが、棚や机の引き出しといったものは開かれてはいない。

 金銭目的で行われたものではないだろう。

 彼の中で、空の模様と同じどんよりと重い雲が立ち込める。

 それに合わせるようにハム蔵の足も速度が上がっていく。

 やがて家の最奥にある扉の前でハム蔵の足は止まる。

 扉は半開きになっていたが、何故か中には入らない。

 嫌な予感が羽月の中で警鐘を鳴らす。

 今ならまだ、何も知らないままでいられるぞと。

 ここから先はきっと後戻りができないぞと。

 それでも彼の指先は、手は扉のドアノブへと向かっていた。

 警鐘の強さに合わせて、羽月の鼓動が急激に速度を上げる。

 浅く早い呼吸が彼の口から漏れるが本人は気づかない。

 じっとりと粘つく汗を手ににじませながら、彼の手はドアノブを掴み――

 そして扉が、静かに開いていく。


 ギィィ――


 嫌に軋む扉は、少しずつ部屋の情景を彼の目に映していく。

 先日、彼が訪れた時には目に刺さるほどの一面の純白色であった壁も床も、電灯が点けられていないため静かに沈黙しているようだ。

 でも、微かに音がする。

 それは布がこすれる音と、蚊が鳴くほどに小さな女性のすすり泣きだ。

 羽月は、この時すでに後悔していた。

 何故、自分は扉を引いてしまったのかと。

 しかし、彼の心中を慮らず扉は切り取っていた景色を徐々にあらわにさせる。

 白かった壁に残る鈍い黒色は何だろうか。

 床に飛び散る、乾き割れた液の塊は絵具なのだろうか。

 巨大な絵の前で、生気が感じられないほどの純白の肌に拳大の青白い痣を浮かべる銀髪の少女は誰だろうか。

 彼の脳が、理解を拒む。もう一人の自分が、だから言ったのにと自身を嘲笑する。

 無意識に羽月は自身の唇を噛み切っていた。彼の口から赤い筋が一筋垂れ下がる。

 どれほど、そうしていただろう。

 自身の中に蠢くどろどろした後悔、怒りに彼が苛まれていると、少女のほうが彼の存在に気付いた。

 すすり泣きも止み、少女は振り返る。その顔に幸い、痣は残っていない。

 そのことに羽月は若干の安堵を覚えると同時に、彼の前では手加減していたのだと知り、言葉を発せなくなる。

 そんな彼の代わりだろうか。

 感情というものを失くした琥珀色の瞳で、銀髪の少女は笑うのだ。

 それは、彼女の兄に向けていたものと同じもの。

 以前、羽月が向けられないことに嫉妬を覚えていたはずの、笑みだ。

 まるでショーケースに飾られる人形のような完成された笑顔で、少女は静かに呟く。


「すいません、こんな格好で。少し創作に没頭してしまって。」


 笑顔とは裏腹の不器用な嘘に、羽月は顔を伏せる。

 彼は散らかった床からシーツを取り上げて、彼女の身体へかける。

 その時、触れた少女の――鳩麦公子の指先が冬の氷のように冷たくて。

 羽月の目と口から、後悔が漏れ出るのだった。

  

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