第34話 重々しい音を立ててドアが閉じられる
公子が現れたのは、二人の密談から30分ほど経過した頃だった。
綺麗な銀髪は以前と同じような艶があり、身体からは女というよりは花にちかい香りがほのかに漂う。
彼女の頭上には指定席かのような顔ででっぷりとしたハムスターが鎮座していた。
室内だからか、いつものフード姿ではなく、Tシャツ姿に短パンという姿で公子は謝罪をする。
「す、すいません。お見苦しい所をお見せしました。普段はあんな感じじゃないんです。」
「いえ、元々こちらが押しかけてしまったのが悪いんですし、お気になさらず。」
「でも――」
「公子、立ったまま話すのは失礼だろ。
僕は画廊の整理でもしてくるから、この席で羽月さんと話すといい。」
「は、はい……」
志々雄は席を立つと、代わりに公子を座らせる。
普段は二人しかいないからか、家には基本的に複数人用に家具は用意していないようだった。
羽月は部屋を出る時、志々雄が目で合図したのを感じ、言葉に出さずに小さく首で返事をする。
場は用意した、ということだろう。
もっとも、いきなり本題から入ると公子も身構えると考え、彼は少しずつ本題に踏み込むことにする。
「こうして、ちゃんと話すのは久々だね。一週間ぶりぐらいかな?」
「そう、ですね……すいません、前回はあんな感じになってしまって。」
「あはは、全然気にしてないよ。むしろ、こちらこそお兄さんに怒られる原因作っちゃった感じで申し訳ないなって。」
「兄は私を叱ることはないので、大丈夫ですよ。」
「そうなんだ。優しいんだね?」
「……だと、思います。」
公子は伏せ目で賛同する。彼女の頭上でハム蔵も飼い主に合わせるように身を少しだけ縮こまらせる。
(ぼちぼち、本題に入るか。)
「そういえば、筆の進みはどう?」
「――っ。お兄ちゃんから、聞きましたか?」
(少し、露骨に聞きすぎたか……)
羽月は少し早まったかと内心後悔する。
公子はハム蔵を頭上から手のひらへ移動させると、小動物特有の小さな背を撫でながらポツポツと降る雨のように言葉を紡ぐ。
「昔は、違ったんです。一枚一枚の情景がすぐに浮かんできて、一筆一筆キャンパスを埋めるたびに心が落ち着いたのに。」
「今は、ちがう?」
「今は何も思い浮かばない日が増えました。描こうとは思うんです。けど、筆を持つと手が震えるんです。」
「手が、震える、か。」
羽月は内心で小首をかしげる。
聞く限りは典型的なスランプのように思えたが、原因が判然としないからだ。
スランプとは唐突に訪れる場合もあるらしいし、一概には言えないが、これではどうしたものか羽月には思い当たらない。
だから、彼は逆の質問をしてみることにした。
「じゃあ、なんで俺の絵は描けたんだろう。」
「それは――」
公子が胸元で軽く手を握る。彼女の手中でハム蔵が「ぶぎゅぅ」という声をあげた。
「あの日の感謝を伝えたくて、気づいたら筆がキャンパスの上を滑ってました。」
「ふむ……。」
暫し、羽月は考え込む。
彼女の主張はまとめると、こうだ。
昔は考えなくても情景が目に浮かんだから、描くことができた。
今は意識しても描けないでいる。
一方で気づくと羽月の絵を描くことができてもいる。
ただし、以前の作風とは似ても似つかないものであるし、人物画にはなるが。
(これはつまり、アレだろうか。)
「もしかして、だけど。公子さんは本当は人物画が描きたいんじゃない?」
「えっ――?」
心底意外そうに、公子は羽月の目を見つめ返す。
羽月は「あくまで仮説だよ?」と一言断ったうえで、彼なりの推論を述べる。
「昔の作品を見させてもらったけど、どれも題材が――卵?で統一されていたと思う。
けど、最近描けたのは人物画。
これって、公子さんの画風?好み?が変わったんじゃないかなと、思うんだよ。」
「それは、どうなんでしょうか。」
「たとえば、人物画で描きたいものは今思いつく?」
「今、ですか?」
彼女は考えこみながら、ハム蔵の背を撫でる。
彼女の手中で、ハムスターは気持ちよさそうに目を細めた。
「ある、かもしれません。」
「なら、ラフ画でもいいから軽く描いてみたらどうかな?」
「えっと、ちなみに顔とかは描かなくてもいいんですよね?」
「時間がかかるようなら、本当に簡単なので良いと思うよ?」
「少し、やってみます。」
彼女は一度退室すると何処からかスケッチブックを持ってくる。
片手には鉛筆と鉛筆削りがある。
公子はハムスターを机上に置くと、ゆっくりと静かに鉛筆をスケッチブックの上で踊らせる。
最初は緩慢さも見えた鉛筆の動きが、段々と滑らかに滑り出す。
紙面の上で踊るワルツのようで、鉛筆の軌跡に一つの景色が描き出されていく。
やがて描きはじめて10分が経とうかという頃、彼女の筆が止まった。
羽月が覗き込むと、未だ完成には至っていない絵ではありつつも息を飲む出来であった。
太陽をバックにこちらへと手を伸ばす人が描かれた絵は、即興とは思えないほどに彼女の技量を如実に語っている。
暖かみを感じつつも、どこか手が届かないものを描いているようで、見ていると不思議な気持ちが湧いて出る。
しかし、今までの作風には似ても似つかないものだ。
彼女自身、そのことに描きながら気づいたのだろう。
鉛筆を机上に置くと、ポツリと呟いた。
「だめ、なんです。」
「えっ?」
「この絵じゃ、だめなんです。」
「でも、良く描けていると思うけど――」
「“家族”が期待するのは、こういう絵じゃないんです。」
そう呟くと、彼女はせっかく描いた絵を鉛筆で荒々しく塗りつぶしてしまう。
丁度その時、志々雄が部屋に戻ってきた。
「二人でゆっくり話せたか?公子」
その声に、彼女の肩が小さく反応する。
「は、はい。お兄ちゃん……」
「それで、描けそうか?」
「それは……」
逡巡の後、公子は羽月には見せない空虚な顔で答える。
「きっと、できます……」
「きっとじゃ、ダメだよな?」
乾いた音が、室内に響いた。
羽月は遅れて、公子が志々雄に平手打ちされたのだと気づく。
志々雄は悲しみでも怒りでもない、感情の抜けた顔で彼女に確かめるように訊く。
「僕たちは、“家族”だよな?」
「は、はい。」
「“家族”は、他の家族を困らせたら?」
「いけません。」
「公子にできることは?」
「絵を、描くことです。」
「わかっているじゃないか。個展まであと一か月を切っているんだ。
できませんは、もう無しのところまで来ている。
今回の個展には色々な人がお越しになるんだ。わかるな?」
「必ず、描きます。」
嫌な静けさが三人の間に横たわる。
まるでこの部屋だけ冬が舞い戻ったかのような、凍てつく空気の中、羽月は口を開こうとする。
別段、深い考えがあったわけではないが、彼なりに現状のままでは良くない方向でいくという考えでの行動だ。
しかし、それは志々雄によって阻まれた。
「羽月さん、すいません。お見苦しい所をみせました。」
「あっ、いえ。」
「公子はああ言いましたが、きっと彼女なりにリフレッシュできたと僕は思います。
だよな?公子?」
「――はい。」
「なので、これでまた描けるようになると思います。だから、今日はもうお帰りください。」
「いや、しかし――」
食い下がろうとする羽月に対し、恐ろしく感情のこもってない声で志々雄は言う。
彼の目は日の差しこまない井戸のような深い黒をたたえていた。
「ここから先は“家族”の問題なので。」
「ッ!!」
羽月は言い返せず、半ば追い返されるように公子のアトリエを後にする。
玄関先に棒立ちする羽月に対して、志々雄はさも当然のように最後に笑いかけた。
「またお仕事では今まで通り、宜しくお願いしますね。」
「はい――」
羽月の目の前で、重々しい音を立ててドアが閉じられるのだった。
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