第33話 底なしの井戸を覗き込むよう

 週末の土曜日、羽月はスマホで地図アプリを起動して見慣れない街中を歩いていた。

 行先は、先日メッセージで教えてもらった先だ。

 自家用車で向かう手もあったが、場所が隣町で駅から多少歩けば行ける範囲のため、彼は使わないことにした。

 オフの日だけあり、今日の彼は身軽だ。

 スリングバッグに紙袋を片手といった装いで、服装もスーツ姿ではない。

 昨日まで仕事着姿で行こうとも思っていたが、先方のほうから「公子が緊張すると思うので。」と遠慮された形だ。


(この角を曲がれば、か――)


 駅を出て、何度目かの角を羽月は曲がる。

 彼の目の前が一気に開き、レンガ造りの一軒家が出てくる。

 普通に一家族が住めそうな大きさの家の庭には、庭師でもいるのか整えられた花々が咲き誇る。

 中央を割るように色鮮やかなタイル張りの歩道が玄関から入口へと続く。

 羽月はスマホの地図を数回見直すが、場所はあっているようで、これが公子だけのアトリエであることに驚愕する。

 鳩麦家が名のある家柄とは聞いていたものの、十代の少女が絵を描くためだけに使うには大きすぎる気がしたのだ。


(とはいえ、場所はあっている。いつまでも玄関先にいて、不審者として通報されるわけにもいかないな。)


 羽月が異を決してチャイムを鳴らそうとした時、玄関が開いた。


「ようこそ羽月さん、中にどうぞ。」


 公子の兄、志々雄がにこやかに笑いかけていた。


 ~~~~~~~


「今日はお忙しいところ、お時間を作っていただき、ありがとうございます。」

「いえいえ、元々こちらから誘ったことです。」

「あ、これ宜しければ……」

「ああ、お気を使われなくてもよかったのに。ありがとうございます。」


 定型の挨拶を済ませつつ、羽月は紙袋を志々雄に手渡す。

 志々雄は軽く中身を確認した後、彼を中へと誘いながら世間話をする。


「いきなり玄関が開いて驚きましたか?」

「え、まあ、少し。」

「ふふっ、ですよね。実はこの家、玄関先に監視カメラついてるんです。」

「それはまた――防犯をしっかりしていらっしゃる。」

「本当は公子のために警備員でも雇おうかとも思ったんですが、親に反対されたので。

 全く、あの二人は公子に冷たすぎる。」

「はぁ。」

「あ、そうそう。壁に掛けてあるのは公子の絵ですよ。」


 こともなげに志々雄はさらりと口にする。

 羽月が見てみると、確かに壁の絵の何枚かは資料で見たことがあるものだった。

 清水志々雄――こと鳩麦公子の絵は油絵だ。とはいえ、普通の油絵とは異なる。

 油絵なのに、まるで水彩画のように線がのびのびとしていて、透明感があるのだ。

 清廉として、静かな湖面のような作風で描かれるのは、いつも一つの『円』だ。

 いや、円というのも語弊がある。羽月が読んだある資料では、有識者の言葉としてこう書かれていた。

『彼女の絵画は羽化する前の卵のようだ――』と。

 現に、壁にかけられている絵は背景が山間だったり、街中だったりという違いはあるものの、徹頭徹尾、中央の配置は楕円が占領している。

 ただ、その楕円は常に寒色だ。羽化するとは到底思えないほどに冷たい。

 しかし、故に後ろの背景ともよく合う。

 冷たい山間部の情景には、非現実的な美しさで浮き上がる。

 温かみのある街中では、まるで切り抜かれたかのような鋭さを持ち、存在を伝えてくる。


(目が離せなく――)


「目が離せなくなる、ですよね?」


 志々雄の感想と自身の内心が重なり、思わず羽月は彼の顔を見る。

 志々雄にとっては想定の範囲内なのか、当然のことかのように言葉が続く。


「初めて、彼女の絵を見たのは僕なんですよ。

 父も母も公子のことを認めていなかった。そんな彼女がひっそりと一人で描いているところを発見したんです。

 僕はね、震えた。こんな絵を10歳が描けるのかって。」


 懐かしむように、自分だけの思い出に浸るように、彼はつらつらと話を続ける。

 気づけば、二人の脚は一際大きな絵の前で止まっていた。


「10歳の少女が描いた絵が、これなんです。」


 誇らしげに彼が語る絵に、羽月は畏怖を覚えた。

 分厚い雲の下、腐り果てていこうかというような色合いでどんよりとした卵が描かれている。

 卵から血のようなものが垂れ、鉄錆を思わせる水溜まりを形成している。

 そして、卵を吹き飛ばそうかという風が吹きつけているのだ。


(確かに、これは凄い。写真でみるよりも数倍圧巻だ。でも――)


 羽月はそこから先の言葉を飲み込んだ。

 それからは志々雄の足の進みも戻り、二人は家の最奥へと至る。

 一際大きな吹き抜けの部屋は、全面が色というものを忘却したかのような白で塗り潰されていた。

 唯一、色と呼べるものは壁沿いに置かれた描きかけの絵たちと道具類、中央で膝を抱えて座っている公子のみである。

 彼女は感情の抜けた顔でゆっくりとした視線を志々雄、次いで羽月へ向ける。

 暫く静止した後、コンピュータが再起動するかのように、彼女の顔に色味が、命が宿る。


「えっ、えっ!?」


 髪の毛を振り乱して周囲を確認した後、彼女は自身の服装を見やり、慌てるようにキャンパスを隠していた大きなシーツで全身を隠す。

 そして、シーツの端から頭を出すと、恥じ入るように顔を鬼灯色に染め上げた。


「な、なんでっ!?」


 若干掠れている彼女の声だが、兄である志々雄は意に介さない。


「どうだ、公子?兄さんは最愛の妹のためにゲストを呼んできたんだ。」

「どうって、聞いてない!」

「それは言ってないからな。」

「酷い、酷いよ、なんで――」


 暫し、兄妹でやりとりするが、しまいには公子側が泣き出してしまう。

 羽月は彼女に声をかけるタイミングを逃し、立ち尽くす。


(これは、どうしたものか。)


 彼が悩んでいると、足元に違和感があり視線を落とす。

 そこには、いつぞや見た小動物の姿があった。


「あっ――」

「ブモッ!!」


 心なしか以前よりもでっぷりと肥えたハムスターは、羽月の脚をテシテシと叩く。

 彼なりの挨拶だろうかと羽月が思っていると、公子がシーツ姿のまま足に突っ込んでくる。


「だめ、ハム蔵!こっちに来なさ――あっ。」

「ひ、ひさしぶり……」


 羽月と公子の視線が混じる。

 心なしか、公子の髪は以前見た時よりも艶があり、女性としての甘みを感じる香りが強くなっていると彼は感じた。

 公子は、慌てるように顔まで含めてシーツに隠すとハム蔵ごと丸くなる。


「あ、あぁあぁああ!見ないでぇ、見ないでぇ。違うんです、これはちょっと入る暇がないだけで、決して普段は……違う、違うんです。」

「これは……」

「ふふっ、いきなり会わせてしまい驚かせてしまったようだ。羽月さん、先にお茶でもどうです?公子にも用意があるようなので。」

「え?あっ、はい。」


 その後、羽月と志々雄は別室で腰を落ち着ける。

 公子は二人が部屋を出ると風のような早さで浴室へと立てこもり、『入室禁止』という札をドアノブにかけるのだった。

 志々雄はティーポットからティーカップへ自身と羽月分の紅茶を入れ、茶菓子を出すと口を開く。


「見られましたか?」


 羽月は、どのことを言っているか分からず、内心首を傾げつつティーカップに口を付ける。

 志々雄はそれをどう受け取ったのか、話を続けた。


「未だ、キャンパスが白紙なんですよ。」

「あっ――」


 彼に言われて羽月は初めて気づく。確かに先ほどシーツがかかっていたキャンパスは真っ白だったと。

 しかし、スランプなど芸術家に限った話でもないと思うのだった。

 極論、漫画家にしろ通常のサラリーマンにしろ、スランプというのはつきものだ。

 その原因は様々だが、得てして小さなきっかけから解消されることもある。


(ああ、だからか。)


 今回、何故自分が呼ばれたのか理解し、羽月は独り言ちる。

 なんてことはなく、志々雄は羽月に期待しているのだ。彼が公子の製作活動に良い効果を持たさないかを。


「でも、なんで私なんですか?」


 志々雄は自身の紅茶に角砂糖を一個落とし込むと、ティースプーンでかき回しながらゆっくり答えた。


「以前、公子の生い立ちについては話しましたよね?

 彼女は複雑性PTSDで“家族”以外に話せる相手がいない。

 けれど、実のところ、ここ一年ばかり新作が描けないでいる。」

「えっ、そうなんですか?」


 公子は以前、羽月に自身の描いた絵をプレゼントしている。

 このことから、彼には意外に思えた。

 その疑問は当然のことだと、志々雄は自嘲気味に笑った。


「どうやら、貴方と関わると筆が進むようでね。

 有り体にいって、僕もほとほと困っていたから、これは光明さ。」

「でも、私にはどうすればいいか。」

「ああ、そうだろうとも。兄である僕もわからないことが“家族”でない貴方にすぐにわかるとはおもっていない。だからね。」


 志々雄は紅茶をもう一口飲むと、ティーカップを置く。


「まずは、今の公子の気持ちを聞いてみてほしいんだ。」

「気持ち、ですか?」

「『家族にも言えないようなことを教えてくれるわけがない』って顔だね?

 とはいえ、僕も良き兄として、愛する妹のためにはできることをすべてしたい。」


 さも、当然のように志々雄は口にした。

 羽月も言葉の上でなら、彼の考えには賛同するばかりであり、現に協力したいとも思っていた。

 けれど、だからこそ何かがやはりひっかかる。

 先日見た彼らのやりとりが、今日のすれ違いが羽月の中で喉元に刺さった小骨のような違和感を与えてくる。

 気づくと、彼の口からは言葉がこぼれていた。


「それは、妹さんの――公子さんのためなんでしょうか?」


 一瞬、志々雄の顔に感情がなくなる。

 それは、まるで白磁でつくられた能面かのようで、公子と同じ黒曜石を思わせる瞳には感情の色はなく、まるで底なしの井戸を覗き込むよう。


(怖い――)


 そう、羽月が思った時だった。

 枯れ井戸に水が継ぎ足されるように、白磁に絵を描くかのように、志々雄の顔に感情が戻る。

 理想的な兄の顔で、彼は言葉を口にする。


「勿論じゃないか。」


 次いで、彼は思い出したように、しかし念を押すように呟く。


「勿論、タダでとは言わないよ。うまく行った時には君個人にもお礼しますから。」

「はい……」


 羽月は、またもや何かがひっかかる感触を覚えるのだった。

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