第32話 静かな熱が宿っていた
『今から一緒に映画見に行かん?』
羽月がそんなメッセージを受け取ったのは、鳩麦兄妹と会ってから数日経った定時過ぎだった。
送り主は水族館以来、顔を見ていない羽里だ。
もっとも、あの日以降、彼女が彼にメッセージを送ることは日に数回程度ではあるものの増えていた。
ただ、どれもさして内容があるものではなく、『腹減った』だの『風呂は何処から洗う派?』だの『三千円あったら何喰う?』だのといった、所謂雑談じみたものだ。
とはいえ、羽月も三十路の独身であり、仕事以外は忙しくない身の上だ。
毎回、律儀に彼女に返信をしていたら、ついには今日このメッセージが届いたというわけだ。
冗談なのか本気なのか、羽月が判断しかねていると、既読を確認した羽里から次いでメッセージが届く。
『既読無視とか……寂しいじゃん』
最近、メッセージの受信頻度と合わせて、羽里の彼への態度が変わったのは、こういうところだった。
昔より、何処かじゃれついてくるような印象を受ける文章に、羽月は返信を返す。
『すまん、今仕事が終わったところだ』
『やっぱ読んでんじゃん』
『どう返したものかとな』
『時間あるのかないか、そんだけ』
時間あるのかと言われれば、今は他の部署がメインで動いている時期なのである羽月だ。
しかし、彼の脳裏で公子の最後の姿がちらついていた。
(正直、そういう気分ではないんだよな。それに――)
そもそも、三十路が十代と夕方というよりは夜になろうという時分に出かけること自体どうかと、羽月は思っていた。
先日の彼女との出来事も、今では会いにくさに拍車をかけていた。
断るなら早々がいいと、羽月が断るメッセージを打ち込もうとした時、アプリが着信を告げる。
かけてきた主は、先ほどまでメッセージを送り合っていた相手、羽里だ。
仕方なく、羽月は応答する。間髪、懐かしい声が聞こえた。
「タイピングが遅すぎる。」
「いや、今書こうとな……」
「で、どうする?私、暇なんだけど。」
「というか、こんな夜更けに子供が出かけるとかダメじゃないか?補導されるぞ。」
「大人いればいいんでしょ?だから連絡した。見たい映画あんの。」
羽月は内心、そういうことかと嘆息する。
どうやら彼女にとって羽月は体のいい何かのようで、彼の肩から力が抜ける。
一方、受話器向こうの羽里は何処か寂しそうだ。
「なんだよ、私と出かけるのは不満か?」
不満でないといえば、嘘にはなるだろう。
羽月とて、流石に十歳以上年下を夜中に連れ歩く趣味はない。
だが、彼女の身の上を考えると、断りにくいとも感じた。
結果、折れたのは羽月のほうだった。
「仕方ないな……何時の上映?」
「え、いいの?」
「今回だけだからな」
「へへ、ありがと」
羽里が見たいという映画の時間を聞き、羽月は時間を確認する。
入場時間を考慮すると、今から向かえば若干早めに着く感じになるだろう。
「全く、仕方ないやつだな……」
口では諦めるようなことを言いつつ、羽月の顔は少しばかり明るくなっていた――
~~~~~~~
羽月が集合場所に着く頃には日が完全に落ち切っていた。
闇をバックにライトに照らされて浮かび上がる映画館はどこか大人な雰囲気を醸し出す。
時間としても、これから行われる上映はレイトショーに分類されるものだろう。
映画館に歩みを進めつつ、羽月は羽里の姿を探す。
左右を何往復かし、彼の目線は映画館から若干離れた、電灯下のベンチで停止する。
(まさか、あの子か?)
困惑という言葉が、彼の顔には浮かんでいた。
ボンヤリとした電灯に照らされたベンチに座る少女は、先日まで彼の見知っていた姿とは趣を異にしていた。
以前の姿を野ばらに例えるのならば、今は純白の睡蓮を思わせる。
目の前で物寂し気にスマホを弄る彼女は、パーカーではない。
純白のノースリーブトップスに鮮やかな緑の映えるチュールのロングスカート姿だ。
サンダルも夏の訪れを告げるようなストラップサンダルで、年齢を知らなければ若干幼さの残る大学生といった風体と言えるだろう。
(もしかして連絡相手は俺じゃなくて彼氏かなにかで、間違えて俺に連絡したとかだろうか?)
三十路の彼にとっては、デートコーデとも言えそうな衣装の羽里に映画に誘われるのがイメージできない。
慌ててスマホを取り出し、もう一度メッセージ画面を読み直す。
次いで、来る前に彼女と通話していたことを思い出し、そうではないだろうと彼が独り言ちた瞬間――
「はじめ、何してんだ?」
あきれ顔の羽里が彼の目の前まで来て、ジト目で溜息をつく。
慌てて、羽月はスマホをポケットにしまうのだった。
「い、いやぁ、時間を確認しててな。」
「はぁ、安心しな。待ち合わせ時間なら、少し前くらいだよ。」
「そ、そっか!いやぁ、良かった。」
誤魔化すように笑いつつ、羽月は視線を泳がす。
(な、なんだ?こういう状況でどう声をかければいいんだ?)
彼にとっては遠い記憶である彼女が居た頃はできたことも、今の彼にはできそうもない。
そうこうしていると、羽里が横にやってきて、勝手に手をとってくる。
「へっ?」
羽月の口から、間の抜けた声が漏れ出る。
すると、羽里は彼の顔とは逆方向を向き、呟いた。
「上映、始まっちゃうだろ……」
「あ、そうだよな!そうだった!アハハ――」
「ったく、あとよ。」
先ほどより若干彼を引く手の力が強くなる。依然、彼女の顔は羽月からは見えない。
「今日の私、どうだ?」
「えーと、正直驚いたよ?」
「どう驚いたんだよ。」
「どうって――」
「あー、もうやめだ!私らしくない。はじめ、一度しか言わないからな?」
「な、なんだ?」
「似合って、る――のか?」
振り向いて、朱色の差した顔で羽里は少し不安気に羽月の目を見つめ返す。
それはどこか不安定で、出会ったばかりの彼女の姿が彼の脳裏に浮かぶ。
未だに彼女の恰好が変わった理由に至れない残念な思考の羽月であったが、彼女の瞳を見たことで分かることもある。
彼女の心に良い意味で何かしらの変化があったのだろうと、彼は当たりをつけた。
だからこそ、彼の口からようやっと言葉が滑り落ちる。
「――そうだな、とてもよく似合ってるよ。」
「ッ!ならさっさと言えよ!」
サンダルで軽く羽月の脚を蹴ると、羽里は彼を映画館へ連れていく。
同然、先行する彼女の後頭部しか羽月には見えない。
だが、彼女の耳が赤みを帯びているのは、彼にもわかるのだった。
~~~~~~~
『キャー!人殺しよ!人殺し!』
『ま、待ってくれジェニファー!これは違うんだ!俺のフランクフルトが勝手に!』
『やめて!その銃口を私にむけないで!』
『ちがう、これは銃口じゃない!俺のフランク――』
(俺は、何を見ているんだろう――)
率直に、羽月はそう思った。
あのやり取りの後、彼らは目的の映画を見ることにした。
支払いをめぐり、羽里と羽月で少しだけもめたものの、最後は羽月が年長者だから出したいと申し出る形で決着がついた。
当然、申し出た以上は羽月も納得しての提案だったわけだが、目の前で流れていく物語は、羽月の好みには合わなかった。
パっと見で予算がないのだとわかる、異様にアップで映される演者たち。
次いで気になるのが、本筋に関係のない話が無駄に長いこと。
周囲の暗さも相まって、羽月は眠気を感じ始めていた。
しかし、好みとは人それぞれなのだろう。
「……。」
彼が隣に目をやれば、羽里がコーラの容器を握りつぶさん勢いで抱きしめている。
心なしか鈍色の彼女の瞳にはキラキラとした星が浮かんでいるようにも見える。
(まあ、硝子が楽しいならいいか――)
羽月は若干崩れた姿勢を座り直し、映画の続きへと目を向ける。
物語はクライマックス、主人公の男が催眠から覚め、自分の下半身が銃口になっていることを自覚する部分だ――
『俺は、俺は、今まで何人をこのフランクフルトで――』
「フ、フランクフルトマン、つれぇよなぁ……」
彼の横では、羽里がどこからか取り出したハンカチで涙をぬぐっていた。
一方、羽月は最後に監督の名前だけは憶えて帰ってやろうと心にきめていた。
~~~~~~~
「いやぁ、名作だった!やっぱ、メダルマンの監督だけある!」
「まさか、最後に下半身が分離変形するとは思わなかったぞ。」
上映後、羽月と羽里は近くのファミレスに来ていた。
結果的に、終わってみると彼も彼女と一緒に楽しめていた。
(まさか、B級映画に俺がハマるとはな……)
羽月は注文したパスタを口へと運ぶ。
外食ならではの完成された旨味が彼の口の中に広がる。
帰る時間の都合上、最近はコンビニ飯などが増えていただけに、彼の顔も綻んだ。
一方、羽里はカレーうどんを食べているが、食べ方に迷いがないため飛んだ汁が彼女の白いトップスにシミを作りそうになることが何度かあった。
最初は羽月も彼女に気を付けて食べたほうが良いと伝えていたが、今では好きにさせている。
羽里はチュルリと麺を平らげた後、口元をぬぐって彼を見やる。
「その、今日はありがと。」
「別にいいさ。俺もいい息抜きになった。」
「なに?はじめにも悩みとかあんの?」
意外そうに羽里は小首をかしげる。サラリと彼女の髪が流れ落ちる。
(無いわけがないだろ……)
羽月は内心、嘆息を漏らす。
大人になって楽になることは、ほとんどない。むしろ、しがらみや義務ばかりが増えていく。
現に羽月自身も仕事では今進めている個展について悩み尽きないし、先日の鳩麦兄妹のことに至っては気になり続けている。
しかし、一方で問題に対してどう接していいかがわからない自分がいる。
身体ばかりが成長し老いていくのに、それに追いつけない精神に戸惑う毎日だと、羽月は思うのだ。
ただ、彼は同時に羽里よりも大人である。
大人が、そんな現実を子供に無慈悲に伝えるのは違うとも思うのだ。
だから、彼は曖昧に笑う。
「なに、対したことじゃないさ。」
「本当?」
「……!」
ずいっと羽里が羽月の顔を覗き込む。
思わずパスタを巻いていた手が止まるが、羽月は仕事の時の顔を張り付けて、受け流す。
「――ああ、もちろんさ。」
「そっ。」
それからファミレスを出るまで二人の間に会話はなかった。
やがて、互いの帰路につくことになる。
それぞれがそれぞれの家の方向へ歩き出した時、不意に羽月の背後に声がかけられた。
「なあ、はじめ。」
「――?どうした、言っとくけど流石に家までは送らないぞ?」
「ちがう。やっぱ一言言っとく事にした。」
「なんだ。」
小走りで羽里が彼との距離を縮めてくる。
「私にはさ、大人の辛さとかわかんねぇし、聞きもしねぇよ。けどさ――」
ポン――
手と手が触れそうなほどの距離、彼女は羽月の腹部を小さな拳で叩いた。
「居てくれてよかったと思ってる。はじめははじめらしくすればいいんじゃね?」
「俺が、俺らしく――」
「ま、わかんねぇけどな!私馬鹿だもんさ。」
ニカッと笑うと羽里は羽月と距離を取る。
そして、はにかむように笑うのだった。
「それと、キーホルダーつけてくれて、ありがとうな。」
羽月は、はっと自身のスマホを見やる。サメのキーホルダーは、小さく揺れた。
「じゃあな、はじめ。またデートしようぜ。」
「ああ――。」
羽月は遠ざかる彼女を見送った後、スマホのメッセージ画面を開く。
そのメッセージ画面はこの数日、何度も開いては閉じたものだ。
一瞬の躊躇の後、彼の指は一つのメッセージを打ち込んだ。
『先日の件ですが、今度の土曜日に伺うことは可能ですか?』
送信した後、彼の口から息が漏れる。それは嘆息とは違う、ある種の達成感がこもったものだ。
数分後、呼応するように返信が届く。
『良いですよ、10時に公子のアトリエで。アトリエの場所は――』
(俺は俺らしくすれば、か。そうだよな、硝子。)
彼の瞳には、静かな熱が宿っていた。
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