第31話 何かが喉につっかえたような

 結局、羽月は鳩麦の誘いを断ることができず、二人近くの喫茶店にいた。

 もっとも、場所を移したのは羽月の提案があったからだ。


(流石に、あのまま立ち話ってわけにもいかないしな……)


 喫茶店に来慣れていないのか、周囲をキョロキョロと見まわす彼女の代わりに羽月は二人分の飲み物を頼む。

 彼は自身の分をアイスコーヒー、鳩麦の分はアイスティーをとりあえずオーダーした。

 店員に伝えつつ、羽月は横目で彼女の様子を伺うが、特段問題ないようだ。

 オーダーを受け終わった店員が遠目になったタイミングで、彼は話題を切り出す。


「それで、鳩麦さんの話って、何かな。」


 可能な限り声音に気を付けて羽月は問う。

 肝心の鳩麦は口を少し開けた後、閉じるのを数回繰り返して、ポツリと言葉をこぼす。


「えっと……その、この前の絵、どうでしたか?」


 そういえば、感想を伝え忘れていたなと羽月は思い出す。

 だが、彼女のほうも感想を待っていたことが以外で、羽月は面食らうが素直な感想を口にする。


「よく描けてたよ。絵、うまいんだね。」


 月並みな感想だというのに、一拍置いて鳩麦の顔には喜色が広がっていく。

 陶器を思わせる顔に朱色が差し、柔和になる様は、彼女の整った顔立ちと幼さが合わさり、現実味を欠いた不思議な魅力がある。

 きっと、今の彼女を題材にした絵画があれば、求めるものは多いだろう。


「ありがとう、ございます。」


 小さくも確かに届く声で彼女は呟いた。

 正直、羽月自身そこまで喜ばれると思っていなかっただけに、まんざらでもない気持ちになってくる。

 そうしていると店員が注文を品を二人の席に届け下がっていく。

 羽月が自身のコーヒーに口を付けていると、鳩麦はゆっくりと語り始める。


「私、絵だけが取り柄なんです。昔から、人と話すのが苦手だったから――」


 それから鳩麦が口にしたのは、彼女の身の上話だった。

 なんでも彼女は相応に資産のある家の末子らしく、上に年の離れた兄が一人いるのだという。

 兄は良くできた御仁で、家の期待を一身に浴びて育ち、今では青年実業家の一人として家の一翼を担っている。

 他方、彼女自身はどうかというと、小さい頃から兄と比べられることが多かったそうだ。


「習い事とか、色々しました。学校のお勉強もいっぱい頑張りました。」


 けれど、彼女には兄ほどの利発さも、商才もないそうだ。

 そんな形であるから、家では疎まれていた。

 居場所がない、そう感じる日々の中、彼女の支えとなったもの、それが――


「お兄ちゃんと絵が、私にとっての、唯一できることなんです。

 だから、喜んでもらえて、嬉しいです。」


 そう語る彼女の笑顔には、どこか薄幸さが漂っていた。


(だから、俺に絵をくれたのか……)


 羽月は嬉しい反面、複雑な内心に顔が若干強張る。

 勿論、彼女の気持ちは嬉しかった。絵自体も良く描けていて、今では彼の部屋の壁に掛けてあるほどだ。

 だからこそ。だからこそ、彼には引っかかる。


(何故、彼女の両親は彼女自身を見てあげないのだろう。)


 確かに、彼女には兄ほどの利発さも商才もないのかもしれない。

 だが、そもそもそういったものを大人が見張るほどに発揮できる子供というのは、どれほどいるのだろう。

 彼女は彼女であっていいと、両親が言えてあげられているのなら、彼女はこれほど自信なさげにいるのだろうかと、純粋に羽月は疑問に思った。


(とはいえ――他人の家庭事情に口を出すのは、宜しくないな。)


 そう、羽月は考え直す。

 彼ができることを強いて挙げるならば、目の前の少女を一人の等身大の人間として向き合うことだろうと、自分を納得させる。

 きっと彼女が彼にわざわざ会いに来た理由はそれなのだろうと、羽月が内心の整理を付けた時、涼やかな音が喫茶店内に響いた。


 チリン――チリン――


 次いで、小走りのような音が店の入り口から段々と二人の席へ近づいてきた。

 何事かと羽月が視線を上げると目に入ったのは、ここ最近よく目にする存在。

 日本人という割には高身長かつ整った顔立ちの男性――彼の会社のクライアントである。

 クライアントは、鳩麦と羽月の間で視線を行き来させた後、鳩麦の肩に掴みかかる。

 端から見ると、壮年男性が十代の少女と話しこんでいる状態。かつ、羽月はクライアントと鳩麦の関係がある程度進んでいるものと考えていた。


(あ、これはいけない。止めないと――)


「違うんです。彼女と俺は単なる知り合――」

「公子!いきなり居なくなるんじゃない!お兄ちゃん探したぞ!」


(お兄ちゃん?)


 羽月は腰を浮かした姿勢のまま、静止する。

 そんな彼を置き去りに、状況が刻一刻と変化していく。

 鳩麦はクライアントの顔を少し驚いたように見た後、バツの悪そうに瞳を伏せた。


「ごめんなさい。お兄ちゃん」


 ここで、ようやっと羽月の思考が現実に追いつく。

 状況と共に自分の様々な理解が間違っていたと思い知り、羽月は腰を座席に戻すのだった。


(二人は兄妹だったのか――)


 ~~~~~~~


 鳩麦公子の兄は安堵に肩を落とした後、公子の横へと座る。

 長身の兄は背の低い公子と並ぶととりわけ大きく見えて、まるで壁のように羽月には思えた。

 兄は自分の分の紅茶を店員に頼み、羽月に向き合う。


「貴方は……何処かで会いませんでしたか?」


 どうやら、羽月は彼を覚えているが、彼のほうは羽月のことを覚えていないらしい。


(それも当然かもしれないな。俺はあくまで一担当者だしな。)


 内心苦笑いしつつ、羽月は改めて自己紹介をする。


「羽月一と言います。イベントの企画ではお世話になっています。志々雄さま。」

「ふむ……」


 公子の兄は顎に手を当てると暫し考え込み、困ったような笑みを浮かべる。


「なるほど、これはどうやら僕の手に負えない状況ようだ。」


 それからの説明に羽月は難儀した。

 幸い、公子の兄は頭の回転が速い質ですぐに状況を飲み込んだものの、唯一状況を完全に理解しているであろう公子は聞けば答えるものの、あまり話したがりはしなかった。

 三者で情報が共有化できたのは十分以上後のことだ。


「清水志々雄というのは偽名だったんですね、鳩麦志々雄さま。」


 羽月は確かめるようにあえて公子の兄、志々雄のフルネームを声に出す。

 志々雄は首肯し、顎に手を当てて答える。今では彼の語尾も崩れている。

 きっとこちらが普段のものなのだろうと、羽月は思った。


「まあ、そういう事になるか。仕事柄つかうペンネームみたいなものでね。

 『鳩麦』という名前は、何かと制約も多いもので。」


 彼は含むように言うと、公子に「なっ?」と促す。

 すると、公子は静かに首を縦に振った。


「にしても、貴方の会社も人が悪い。いつから気づいていたんですか?」

「えっと、何をですか?」

「何をって、絵画を描いているのが私自身じゃないことに、ですよ。」


 至極当然のことかのように、志々雄は言葉にするが、静寂が三人の間に訪れる。

 それに気が付くと、彼は暫し考える仕草をした後、公子へ視線を向ける。


「公子、どういうことか教えてくれ。」

「お兄ちゃん、怒らないで……」


 公子の話は羽月にとっても驚きだった。

 事の発端は数年前にさかのぼる。

 当時、人付き合いが苦手な公子は学校などにも行けず、一人でいることが多かった。

 唯一、彼女のそばにいるのは兄のみで、それ以外は家の窓から切り抜かれた景色ばかりを眺めていた。

 そんな中、彼女の趣味は描画に傾倒していき、その画力はついには巨匠の目に留まるほどにまで至った。

 晴れて日の目を見た公子の絵画だが、一つの問題があった。

 彼女には人に自分の絵を評価されることが、耐えられなかったのだ。

 絵画の評価というのは、何も賛同や称賛だけではない。

 言葉にできないものを表現する業界だからこそ、否定や批難もありえる。

 公子のメンタルは、早々に押しつぶされてしまった。

 しかし才能は才能であり、絵画一枚に数万程度の値打ちがつくようになっていた。

 これに対し、彼女の兄である志々雄は一計を案じた。

「彼女が直接、批評に晒されなければ良いのだ」と。

 結果として、彼の策略は至上の結果を産んだ。

 公子の絵は彼が防波堤になることで彼女自身への批判を受け流し、ついには個展を開催できるまでになった。

 そして、羽月の会社に企画が持ち込まれたわけである。

 ここまで説明が至った時、志々雄は口角を上げた。


「それにしても、驚きました。まさか、仕事とは別口で公子と貴方が会っていたとは。

 何せ、公子は持病――複雑性PTSDがありますから。」


 複雑性PTSDという単語を聞いて、羽月は数年前にみたTV報道を思い出す。

 基本的には戦争や虐待などを受けた者が至る、社会から受ける刺激に対して過剰な恐怖心を覚える精神病だったはずだ。

 志々雄は、言い含めるように言葉をつなげる。


「言っておきますが、我が家に虐待のようなことはなかったですよ。

 ただ、言葉というのはあまりに残酷で、公子の心を切り裂いてしまった。

 だから、彼女は外出はできても他人と話せないのが最近までだった。」


 羽月が公子に視線を向けると、彼女は否定するでも肯定するでもなく、小さく震えているのみだった。

 彼女の内心がどういったものなのか、羽月には想像がつかなかったが、出会った頃の彼女の姿が脳裏に浮かんだ。


「でも、彼女は――公子さんは、成長したと私は思います。」

「ええ、そうですね。兄である僕が一番そう思います。多分、貴方に会ったからでしょう。」

「えっ?」

「少なくても、僕は公子が”家族”以外と話ができているところを見たのは、貴方が初めてですから。」


 事もなげに志々雄は告げると、自身のグラスを空ける。

 気づけば、三人ともグラスの氷は融け切っていた。


「羽月さん――でしたね。できればいいんですが、仕事とは別に貴方に頼みたいことがあります。」

「なんですか?」

「今度、公子のアトリエに来てくれませんか?」

「えっ。」


 小さな驚きの声を漏らしたのは羽月ではなく、公子のほうだった。

 彼女の瞳の中で驚きとも、戸惑いともつかない感情が湖面のように揺れ行く。

 志々雄は駄々をこねる子供に言い聞かせるように口にする。


「公子、最近創作は進んでるか?」

「っ!!」


 小刻みに公子の肩が揺れる。


「彼に絵を贈ったのだろう?なら、彼が来れば、少しは身も入ろうってものじゃないか?」

「それは――でも――」

「”家族”として心配しているんだよ?」

「――はい。」


 彼女が了承したと見るや、志々雄は公子を立たせる。


「羽月さん、今日は公子がご迷惑をおかけしました。

 またお呼びするので、是非いらしてください。公子、行くよ。」


 そういうと、彼は若干強引に公子を引っ張る。

 彼女の身体が若干ふらつき倒れそうになり、思わず羽月は立ち上がる。

 しかし、彼女の身体は倒れない。志々雄が横から支えていた。


「どうした?公子。”兄さん”のいうことが聞けないのか?」


 ピクリと、公子の肩が反応する。

 すると、先ほどまでの様子が嘘のように、公子は親しみのこもった笑みで兄へと抱き着く。

 それは、いつか羽月が会社のロビーで見た、二人の様子と同じだった。


「そんなことないよ!お兄ちゃん!」

「なら良かった。ああ、そうそう――」


 志々雄はスマホを取り出すと、羽月へ向ける。


「連絡先を交換しません?羽月さん。」

「あ、ああ。はい。」


 羽月は何かが喉につっかえたような感覚に襲われつつ、志々雄と連絡先を交換する。

 その間も公子は顔に笑みを張り付けたまま兄にくっついていた。

 やがて、交換が終わるとそそくさと二人はいなくなる。

 羽月は最後まで公子が笑みを浮かべていたことに対して、自問自答した。

 以前見た時とは違う感情が、彼の中で渦巻き、腰を席へと戻す。

 暫く、立てそうにないと、彼は思ったのだった。

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