第30話 ごめんなさい。お兄ちゃん


羽月がその日の業務が終わったのは、十七時を若干過ぎた頃だった。

今日はクライアントとの打ち合わせもなく、資料作成と社内手続きがメインだったため、彼の想定通りの退勤時刻だ。

使い込んだノートパソコンの電源を落とし、羽月は事務所を後にする。

途中、顔馴染みの社員とすれ違い、挨拶をする。


「お、羽月さん。今日はもう帰り?」

「ええ。長谷川さんもですか?」

「んー、残念ながらもうちょい居残りさ。子供も生まれたし、稼がないとね。」

「そうですか。でもあんまり根詰めないように、ですよ。」

「ありがとうな、また今度一杯いこうや。」


後ろ手に手を振りながら遠ざかる相手の姿に、羽月は内心で小さく頭を下げる。

きっと、彼はこれから今日羽月たちが回した資料に目を通すのだろう。

資材手配を担う部署の彼の部署は、羽月たちが動いた後からが本番なのだから。

大切な家族を待たせても仕事を進めてくれる彼には、忘年会では一杯と言わず何杯か注がないといけないなと、羽月は心を引き締めるのだった。

その後も何人かの社員とすれ違いつつ、彼はロビーを抜けて会社の出口へと向かう。


(今日は早いし、久しぶりに自炊でもしてみるか――)


羽月とて自炊をしないわけではないが、普段は出来合いを購入してしまっていた。

一人分の食事というのは、自炊をしても言うほど安くは仕上がらないのだ。

しかし、時間がある日に気分転換も兼ねて自炊を擦る程度には、羽月には生活力がある。

彼が献立を考えながら外に出ようとした時――


「あ、あの……」


小さく、それでいて耳に残る風鈴のような声が、彼の耳に届いた。

吸い寄せられるように彼が声の方向へ顔を向けると、どこか小動物の雰囲気がある銀髪の少女、鳩麦がいた。

今日の彼女は、普段の茶色と白のフード姿ではない。

小柄な彼女には若干大きすぎるスカイブルーの長袖に、身体のラインが隠れるジーンズ姿だ。

ただ、それが不格好かというと違う。

むしろ、絶妙に彼女の雰囲気と噛みあい、庇護欲をそそる見かけをしている。

羽月は先日の彼女とクライアントのやり取りを思い出し、日本人離れした長身の男性の姿を探すが、今日は何処にも見当たらない。

そんな彼の顔を、鳩麦は見上げる。


「あの……良かったら、お話しませんか?」


~~~~~~~


結局、羽月は鳩麦の誘いを断ることができず、二人近くの喫茶店にいた。

もっとも、場所を移したのは羽月の提案があったからだ。


(流石に、あのまま立ち話ってわけにもいかないしな……)


喫茶店に来慣れていないのか、周囲をキョロキョロと見まわす彼女の代わりに羽月は二人分の飲み物を頼む。

彼は自身の分をアイスコーヒー、鳩麦の分はアイスティーをとりあえずオーダーした。

店員に伝えつつ、羽月は横目で彼女の様子を伺うが、特段問題ないようだ。

オーダーを受け終わった店員が遠目になったタイミングで、彼は話題を切り出す。


「それで、鳩麦さんの話って、何かな。」


可能な限り声音に気を付けて羽月は問う。

肝心の鳩麦は口を少し開けた後、閉じるのを数回繰り返して、ポツリと言葉をこぼす。


「えっと……その、この前の絵、どうでしたか?」


そういえば、感想を伝え忘れていたなと羽月は思い出す。

だが、彼女のほうも感想を待っていたことが以外で、羽月は面食らうが素直な感想を口にする。


「よく描けてたよ。絵、うまいんだね。」


月並みな感想だというのに、一拍置いて鳩麦の顔には喜色が広がっていく。

陶器を思わせる顔に朱色が差し、柔和になる様は、彼女の整った顔立ちと幼さが合わさり、現実味を欠いた不思議な魅力がある。

きっと、今の彼女を題材にした絵画があれば、求めるものは多いだろう。


「ありがとう、ございます。」


小さくも確かに届く声で彼女は呟いた。

正直、羽月自身そこまで喜ばれると思っていなかっただけに、まんざらでもない気持ちになってくる。

そうしていると店員が注文を品を二人の席に届け下がっていく。

羽月が自身のコーヒーに口を付けていると、鳩麦はゆっくりと語り始める。


「私、絵だけが取り柄なんです。昔から、人と話すのが苦手だったから――」


それから鳩麦が口にしたのは、彼女の身の上話だった。

なんでも彼女は相応に資産のある家の末子らしく、上に年の離れた兄が一人いるのだという。

兄は良くできた御仁で、家の期待を一身に浴びて育ち、今では青年実業家の一人として家の一翼を担っている。

他方、彼女自身はどうかというと、小さい頃から兄と比べられることが多かったそうだ。


「習い事とか、色々しました。学校のお勉強もいっぱい頑張りました。」


けれど、彼女には兄ほどの利発さも、商才もないそうだ。

そんな形であるから、家では疎まれていた。

居場所がない、そう感じる日々の中、彼女の支えとなったもの、それが――


「お兄ちゃんと絵が、私にとっての、唯一できることなんです。

 だから、喜んでもらえて、嬉しいです。」


そう語る彼女の笑顔には、どこか薄幸さが漂っていた。


(だから、俺に絵をくれたのか……)


羽月は嬉しい反面、複雑な内心に顔が若干強張る。

勿論、彼女の気持ちは嬉しかった。絵自体も良く描けていて、今では彼の部屋の壁に掛けてあるほどだ。

だからこそ。だからこそ、彼には引っかかる。


(何故、彼女の両親は彼女自身を見てあげないのだろう。)


確かに、彼女には兄ほどの利発さも商才もないのかもしれない。

だが、そもそもそういったものを大人が見張るほどに発揮できる子供というのは、どれほどいるのだろう。

彼女は彼女であっていいと、両親が言えてあげられているのなら、彼女はこれほど自信なさげにいるのだろうかと、純粋に羽月は疑問に思った。


(とはいえ――他人の家庭事情に口を出すのは、宜しくないな。)


そう、羽月は考え直す。

彼ができることを強いて挙げるならば、目の前の少女を一人の等身大の人間として向き合うことだろうと、自分を納得させる。

きっと彼女が彼にわざわざ会いに来た理由はそれなのだろうと、羽月が内心の整理を付けた時、涼やかな音が喫茶店内に響いた。


チリン――チリン――


次いで、小走りのような音が店の入り口から段々と二人の席へ近づいてきた。

何事かと羽月が視線を上げると目に入ったのは、ここ最近よく目にする存在。

日本人という割には高身長かつ整った顔立ちの男性――彼の会社のクライアントである。

クライアントは、鳩麦と羽月の間で視線を行き来させた後、鳩麦の肩に掴みかかる。

端から見ると、壮年男性が十代の少女と話しこんでいる状態。かつ、羽月はクライアントと鳩麦の関係がある程度進んでいるものと考えていた。


(あ、これはいけない。止めないと――)


「違うんです。彼女と俺は単なる知り合――」

「公子!いきなり居なくなるんじゃない!お兄ちゃん探したぞ!」


(お兄ちゃん?)


羽月は腰を浮かした姿勢のまま、静止する。

そんな彼を置き去りに、状況が刻一刻と変化していく。

鳩麦はクライアントの顔を少し驚いたように見た後、バツの悪そうに瞳を伏せた。


「ごめんなさい。お兄ちゃん」


ここで、ようやっと羽月の思考が現実に追いつく。

状況と共に自分の様々な理解が間違っていたと思い知り、羽月は腰を座席に戻すのだった。


(二人は兄妹だったのか――)


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