第23話 やがて朝がやってくる――

「おっさん――何勘違いしてやがる。」


 羽里ははじかれるように羽月から離れる。

 ガラス越しに水面の揺らめきが彼女の顔へ影を作り、頬が朱色を増していることに羽月は気づけない。

 だが、それに羽里は気づかず、そっぽを向く。

 若干鼻声が混ざりつつも、彼女はからかうように言葉を紡ぐ。


「私はよ。別におっさんに慰めてもらいたかったわけじゃねぇ。

 ただ、少しばっかり愚痴を言いたくなっただけさ。それ以上でも、以下でもない。」


 傍目からでも分かる露骨な言い訳に、羽月は思わず苦笑いをした。


「そうか。なら、余計なことして悪かった、羽里。」

「謝るほどでもねぇよ、年上だろ?年下に謝るなよな。

 それと、おっさん。今後はさ――」

「なんだ?」

「はじめって、呼んでもいいか?」


 大水槽の前だけあって人足は相応にあるのに、二人だけ切り抜かれたように時間が止まる。

 正直、羽月は答えに迷っていた。

 彼女とは、親しくなるほどの時間を過ごした覚えも、行いをした覚えも彼には未だない。

 しかし、彼女の提案からして、心を開いてくれているのだろう。

 それはきっと、彼女が羽月を大人としてではなく、一人の人間として信用してくれたのであろうことは鈍い彼でも気が付く。


(でも、せめて苗字呼びくらいにはしてほしいけどな……)


 羽月が答えに窮していると、羽里は言葉を重ねる。


「ご、誤解すんなよ?変な意味はねぇ。

 私は、自分のことを苗字じゃなくて名前で呼ばれたいんだ。

 羽里瑠璃子の娘じゃなく、私として、見られたい。」


 不意に振り向いた羽里の瞳は、縋りつくように彼を見据える。


(あぁ、そういうことか。)


 羽月は自身が読み違えていたと思い直す。

 なんてことはない、彼女なりのバランスのとり方なのだろう。

 相手に自分を名前で呼ばせるなら、自分も相手を名前で呼ぶべきだという。

 なんだか、朝方まで自身を翻弄していた少女とは思えない実直さを垣間見て、羽月は頬が緩んだ。

 答えは、自然と決まっていた。


「そういうことなら。いいぞ、硝子。」

「へっ、喜色悪い顔してんじゃねぇよ。よろしくな、はじめ!」


 羽里は目尻を細めて羽月に笑いかける。

 その笑顔は、彼女がこれまで見せた表情の中で最も彼の心に残ったのだった。

 二人はそれから水族館の残りを回った。

 もっとも、それはデートというにはお粗末で、歳の離れた二人が歩けば親戚の娘と出かける叔父のように見られる。

 実際、羽月の感覚は正しく親戚の娘と話をする時と近く、ここ数年会っていない姪のことをボンヤリと思い出す時間だった。

 やがて、日がビルの合間に沈みゆこうかという頃、二人は今朝の駅にいた。

 羽里は半眼で虚空を見つめるサメのぬいぐるみを胸元に抱え、ニンマリと口角を上げている。

 ぬいぐるみは彼女が売店で買うかどうか十分も悩んでいたので、羽月がプレゼントした代物だ。


「はじめ、今日は楽しかったぜ!」

「俺も楽しかったよ。たまには、こういうのも悪くないな。」

「なんだよ、美少女と一緒だったんだから、もっと喜べよなぁ……」

「自分でいうのか。」

「悪いか?”アレ”との繋がりの中で、私が唯一好きなモノなんだよ。」


(地味に重い話をぶちこんでくるな、コイツ。)


 どう返答したものかと羽月が考えていると、羽里は急に真剣な眼で彼の瞳を射抜く。


「なんだ?」

「本当に、感謝してる。私一人じゃ、今頃何してたかわからなかったから。」

「また、そんなことを――」

「嘘じゃねぇよ。」


 羽里はぬいぐるみの頭を愛おしそうに撫でながら、柔らかな笑みを浮かべる。


「だから、はじめには感謝してるんだ。これ、今日の礼な?」


 彼女が取り出したのは手のひら大の大きさをした小袋だ。

 袋には水族館のロゴがあり、羽月は彼女が何やら包んでもらっていたのを思い出す。


(母親へのプレゼントかと思っていたけど、俺にだったか……)


 折角くれるならと、羽月はもらい受ける。手にすると硬い感触が伝わった。


「開けてもいいのか?」

「中身は帰ってからのお楽しみな?」

「――わかった。」


 短いやり取りの後、別れの挨拶を済ませて二人はそれぞれの帰路につく。

 ある程度歩いてから、ふと羽月が駅を振り向くと羽里がぬいぐるみに顔をうずめていた。

 その夜、羽月が彼女からもらった小袋を開くと中からコトリッと出てきたのは。


「全く、アイツってやつは……」


 彼の口から溜息が漏れるが、それは温かいものだ。

 羽里から羽月へのプレゼント。

 それは彼が彼女に送ったぬいぐるみと同じキャラクターのキーホルダーだったのだから―― 


 ~~~~~~~~

 一方、その頃。

 同じ市内のとあるアパートでは、一人の女性が鏡の前で二つの衣服を見比べていた。

 片方は夏の訪れを感じさせる蒼色が白地に映えるワンピース。

 もう一方は、太ももを強く露出するデニム地のホットパンツに身体のラインに沿うデザインのTシャツ。


「羽月さんはどっちが好きなんだろ?あぁ、私の馬鹿!なんであんだけ色々話したのに聞いてないのぉ!」


 半ば泣くように叫ぶと、鶴舞は慌ててスマホで電話をかける。

 受話器の向こうから、呆れ混じりの溜息と共に渋い男性の声が届く。


「なんだ?今日はシフト入れてないはずだが?」

「店長!助けて、服が決まらないの!」

「俺に女の服が分かると思うか?」

「そこをなんとか!奥さん、いるんだし!」

「アイツとお前じゃタイプが違うだろ。大体、羽月なら何でもいいって言うだろうさ。」

「それでも悩むのが女心なの!」

「仕方ない。客が来るまでだ。」

「神さま仏さま店長さま!ありがとう!まずはこの二つからなんだけど――」

「客がくるまで、だからな?」


 ~~~~~~~

 他方、羽里は卓上ライトの光のみがぼんやりと輝く自室で、ベッドに横になっていた。

 腕には羽月に取ってもらったサメのぬいぐるみが収まっていた。

 異様に静かな家には彼女以外の気配はない。

 羽里が帰ってきた時点で、居間の机に紙幣数枚と書置きがあったのだ。


『今日は家族でお祝いにいくから、貴方は好きな物を食べてね』


 彼女は書置きを読んだうえで、何も食べてはいない。

 自室の机には紙幣数枚が乱雑に置かれている。

 羽里は段々と温度を失う自室の空気を感じながら、熱を得るようにぬいぐるみを抱きしめた。


「大丈夫、一人じゃない。」


 ポツリと呟いた言葉は、闇の中へと吸い込まれる。

 それぞれの夜が更けて、やがて朝がやってくる――

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