第7話 雉鳥は爽やかに笑った
今、羽月の目の前には山があった。
気高さの代わりに物量に見合わない心理的重さを持った重量の山。
そう、書類の山である。
一見するだけでかかるであろう労力に思い至り、魂が抜けるかの如く、嘆息が口元から漏れ出る。
何故、このような事態に陥ったのか?
遡ること数時間前、土日明けの始業直後のことだった――
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一度も朗らかな顔を見たことのない女上司が、殊更に眉間の谷を深くして羽月の机に直行してきたのだ。
全く自慢にはならないが、彼にも経験で養われた危機察知能力がある。
上座から近づく彼女の足音が嫌でも彼に何かあったと察せさせる。
よって女上司が彼の席に着く瞬間、彼がとった行動はおおよそ最善のものだった。
「な、何か不手際がございましたか!鵜飼係長!」
若干声が上ずったことを意識の端で気にしながら羽月が応対すると、先ほどの般若がどこへ行ったのか、異様に優しい顔の女上司が猫なで声で言う。
昨今、マネージメントの在り方として叱る時は優しくなどというが、それが殊更羽月の脂汗を増やす。
「先週は午後休暇のところ、急ぎの書類作成ありがとう。とてもありがたかった。」
「いえいえ、このくらいは当然で――」
「ただ、この資料。全部データが去年のものなのだけど?明日の朝1までに仕上げてくれるわよね?」
「申し訳ありません!すぐ取り掛かります!」
「もちろん必要部数の印刷も?」
「責任をもって行います!」
「”期待”してるから。」
(かつて、これほど怖い”期待”があっただろうか……)
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そんな訳であるから、羽月は資料の見直しと差し替えを行っていた。
先週はプレミアムフライデーだからと張り切り、半日かけて仕上げるために普段は確認するような所が疎かになっていた。
当時の自分の後頭部を叩きたい気持ちになりつつ、目と指は仕事をこなす。
元データを最新へ更新するのは勿論、データが違うのだから説明文なども見直さなければならない。
また、汚名を洗い流すためには当然以前よりも『質』が求められる。
(自分で自分を追い詰めないと、前と同じことを繰り返すだけだ――)
そう、羽月が自分へ言い聞かせていると、パソコン画面を遮るものがあった。
入れたばかりであろう、紙カップに入った湯気が立ち昇るブラックコーヒーだ。
「羽月先輩、コーヒーいります?」
視線を上げると柑橘系の香りを身にまとった青年、雉鳥裕也(26)がいた。
紙カップを受け取りつつ、羽月が礼を述べると雉鳥は気にした風でもなく、話を続ける。
「にしても係長は厳しいっすね~。先週末に頼んだくせに、あんなイラつかんでもねぇ。」
羽月はチラっと視線を係長席へと向ける。次いで、壁掛け時計へ視線を向けた。
時計の針は昼半ばを過ぎたところ。
(係長は昼休憩か――)
「まあ、仕方ないさ。元々は俺のミスだ。」
「先輩はお人よし過ぎっすよ。俺なら『じゃああんな日に頼まんといてください』っていっちゃいます。」
「はは、ありがとう。その気持ちだけもらっとくよ。」
「それで、終わりそうなんですか?」
「少し残業しそう、ってくらいかな」
「なら、定型のやつだけ俺こなしときますよ。」
「すまん、感謝する。今度これ奢るわ」
羽月が手で酌のジェスチャーをすると、雉鳥は爽やかに笑った。
「おっし!なら倍頑張ろうかな!」
羽月はできた後輩に頭が下がる思いで、書類の手直しに戻るのだった。
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