理解不能とリビドーと@ヨコハマ

 一体、目の前の光景はなんであるのか、まるで訳が分からない。今までの経験とはまるでかけ離れた事態であるからこそ、それがなんであるかを認識できない。

 それでも一つ一つの要素は、分からなくもない。分解していけば、理解できないことはない。要素要素は、なにも異常なものはない。

 というか日常にありふれたものばかりだ。


 どうしてここにいるかは分からないけれど、カウンターに座る色白で、ふわふわとした髪形をしている美少女。

 座ったまま眠たそうな顔をして、カウンターにだらけながらなにかを、もぐもぐと食べている美少女。

 どうしてここにいるかは分からないけれど、毒か、魔力過多か、あるいは魔法を使われたか、殴られたかで死に掛けで痙攣しているラット。

 ダンジョン最弱であるがゆえ、よくよくミミックに捕食されているラット。


 美少女がいる、ということがまずもって珍しいことだが、ありえないことは無い。大抵ダンジョンにいる女性は、ムキムキな姉御というべき人たちだが。

 ラットが死に掛けていることはよくよく見かける。連中、ゴブリンにさえ嬲り殺されるから、歩いていればそこらの床で転がっているのを見つけられる。


 しかし、それら要素全てを一つにまとめるとあまりにも異常すぎた。

 一つ目に、なぜ彼女はラットを食べているのかが分からない。しかも噛まずに、飲み込まずに口にくわえたままであるし。

 そしてしかもなぜ生きたまま食そうとしているのか分からない。

 そのうえ、そもそもなぜそんなおかしな奴がここにいるのかも分からない。


 要素を分解し理解して、もう一度要素を合成する。

 するとどうだろう、やっぱり意味が分からない。

 一旦、一旦落ち着こう。話はそれからだ。

 あまりに現実離れしたその姿を忘れ去ろう。己も彼女の口元で蠢くラットのごとく食われるのではないかという非常識な恐怖も忘れよう。

 一度その空間から外へ飛び出し自動ドアが完全に閉まり切ってから一息を吐く。


 幻覚を見ていたのかもしれない。

 いや、そうに違いない。

 あるいは……そう、ヨコハマには珍しいが妖怪の類の魔物があそこに偶然出現したのかもしれない。いや、そうに違いない。奈良とかの方にある小規模ながらに妖怪ばかりが出てくるダンジョンには、美しい女性のようなナリの妖怪というのがたくさん出ると聞く。

 その現実離れした美貌は、それが男女の交わりの中で奇跡的に生み出たのでなく、チョウチンアンコウの光る提灯のようなものだからだろう。

 第一生きたラットなんてものを食っている人型の存在を、化け物と言わずして何というのか。そもそもラットを生食しているのが万一人間だとしても、おそらく二日後にはゾンビになっているのだから、それはもう魔物だ。現在人類未来的魔物である。つまり、魔物だ。その可憐の美少女は信じたくないが、魔物である可能性しかない。


 いや、まて、そんなわけはない。そうであったとしたら齢十八になったばかりの少年である俺の、この胸の底からあふれ出る恋心と期待感と、物語が始まる予感はどうすればよいのか。どこへ行ったら支払ってしまったそれは返してもらえるのか。

 いや、そもそも幻覚であるのだから、魔物ではない。そうに決まっている。

 そうでないのならば俺は泣くね。間違いなく。そして魔物でも構わないと言って彼女に抱き着くことだろう。もはやこのリビドーはだれにも止められない。

 大きく一呼吸。そうして、もう一度自動ドアが開く。


 そこには、カウンター身体をたおし寝息を立てている白い美少女がいた。


 ほら、ほらそうだ。あんなものただの疲労によって生まれた幻覚でしかない。

 そうだ、これである。ダンジョンという命を取り合い、殺し殺されの世界で美しい嫋やかな美少女と会うシチュエーションというのはこういうものであるべきだ。決して、先程に幻視してしまったサイコで猟奇的な場面ではない。その出会い方は美少女でなく美少女の皮を被った化け物だ。

 一息つく、そしてようやく、おそらく明晰になってきた意識を巡らせる。


 そして至ったのは、果たしてこの少女はなぜこんな場所で寝ているのかという疑問。いくらヨコハマのダンジョンが安全であると言っても、寝泊まりすることは明らかに異常。

 ダンジョンにはかなり濃度のある魔力が空気中を漂っている。お陰で、年間で超えてはいけない魔力許容量と言うものがあり、だから入り口で身体の魔力を測られる。

 それは過剰な魔力に当てられると危険であると信じられているから測られる。


 眠らせておくわけにはいかない。


 起こしてあげよう。俺は彼女へと近付いた。

 瞬間えも言われぬ、フローラルな、ダンジョンにそぐわない芳しい香りが鼻腔を突き抜けた。耳孔は、すやすやと聞いている方が心地よくなってしまう可愛らしい寝息に柔らかく包み込まれた。

 それだけで、まるでここが天上にあるのかと思うほどの心地がやって来る。

 初めて見る、美少女という生物。しかもそれが、かように可愛らしく庇護欲を誘うように、無防備に眠っている。

 耐性がないから、心臓がバクバク騒ぎ立てる。

 肩に手をやろうとして、その直前で怯えて、静止してしまう。触れてしまえば天寿を全うできたと急逝することが脳裏をよぎってしまったから。

 しかしそんなことをしていたからだろう……いや、そういうわけではないだろうが、瞬きをした瞬間、寝ていると思っていた彼女が突然起き上がる。


 そして彼女は俺へと抱き着いた。


 一気に押し寄せる芳しい匂いに硬直する。

 彼女の身体と接している部分から伝わる柔らかく細い彼女の身体に、ドギマギが止まらない。

 すでに天国にいたのかもしれない、そう思った。


「やっと、あえた」

 それほど甲高いと言うわけでは無い、気だるげな声。ダウナーという奴だろう。けれど代わりに甘い吐息が混ざって、俺の純情が反応してならない。頭が爆発しそう。

 彼女とは身長差があって、自然と上目遣いを向けられる。

 そのまま俺の顔を見てくる彼女の顔の眠たそうな表情は、確かにその声とイメージが合致する。ハーモニーという奴だ。すべてがすべて、なにもかもが邪魔せずに、和を生み出して更なる次元へと昇華する。

 鼻血が出ていないのか、それが唯一の心配事だった。


「だ、だ、だ」

 けれど少し恰好をつけようと、「困ったな子猫ちゃんめ」みたいなことを言おうと思って、しかし女慣れしていないがゆえに声が気持ち悪さを伴いつつどもってしまう。なんと気持ちの悪い己の声だろう。この可愛らしく楽器の如き声色の彼女のソレとは違って失望する。こんなにも物語的に、美少女に抱き着かれたのに。

 その上、俺の言葉が伝わらず上目遣いのままに彼女はコテンと小さく首を傾げる。その仕草に、もう胸がキュンキュンしてたまらない。キュンキュンし過ぎて身体が心筋梗塞かと勘違いしたのか冷や汗がドバっと出てくる。


「だいじょうぶ?」

 ゆっくりと、寝ぼけながら口を開く彼女。


 もう、だめかもしれんね。

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