第7話 キスの代わりね

 早朝。

 いつものように近所のパン屋でバイトし、学校へ行くための用意を取りに一度帰宅すると、部屋の前に天城がいた。


「おはよー、佐伯。どこ行ってたの? ドアノックしても全然出て来ないから、めちゃ心配したんだよ」

「毎朝二時間だけパン屋でバイトしてるから。……それより、何してるんだ?」


 部屋の扉を背にしゃがみ込むと、天城の短いスカートではどうしたって際どいところまで捲れ上がってしまう。

 健康的な白い太もも、内股に垂れて下着を隠すスカート。いけないとわかっていても、視線のやり場に困って結果的に見てしまう。


「一緒に学校行こうと思って」


 僕の目がどこにあるのか察したらしく、悪い笑みで唇を歪めてぴらっとスカートの端を摘まみ上げた。

 別に何が見えたわけではないのだが、突然のことに僕は噴き出す。


「すけべだなー、佐伯は」

「いや、違っ。興味とか、ないし」

「見たいなら、見せてあげるよ」

「え?」


 今一瞬、僕の目が期待に輝いた。

 パシッと両頬を叩いて邪念を追い出す。


 え? じゃないだろ。

 朝から何やってるんだ、しっかりしろ!


「き、着替えてくるから、ちょっと待っててくれ」


 部屋に入って荷物を置き、ジャージから制服に着替えて鞄を手に家を出た。

 「やっと来た」と天城は笑みを浮かべ、僕の身体を上から下へと流し見る。


「ネクタイ、曲がってるじゃん。直してあげる」


 ぐっと距離を詰め、僕の首元へ手を伸ばした。

 枕から香ったものと同じ匂いが舞い、ビクリと心臓が跳ねる。


「い、いいって。ネクタイなんて誰も見てないし」

「だーめ。だらしないのは良くないぞ」

「……自分はこれでもかってくらい着崩してるくせに」

「これは可愛いからいいの」


 視線を少し落とすだけで、真剣な面持ちでネクタイに触れる天城がいる。

 そして視線は、そのまま更に下へ。ワイシャツの隙間から覗く胸元に辿り着き、まずいまずいと前へ向き直った。


「佐伯、気づいてる?」

「な、何が?」


 唐突に話を振られ、若干挙動不審になりながら返した。

 天城はネクタイをギュッと握り締め、上目遣いでニヤリと笑って見せる。



「このままネクタイ引っ張ったら、佐伯とキスできちゃうこと」



 その言葉に、僕の視線は否応なく彼女の唇に吸い寄せられた。

 化粧が施された、艶やかな朱色のリップ。


 くいっ、と。僅かに力を込め、僕を引き寄せた。

 抵抗する間もなく数センチだけ距離が縮み、たったそれだけで彼女の熱が伝わったように、やけに顔が熱くなる。


「あはは、冗談だって。おはようのキスなんて、あたしたちにはまだ早いし」


 ネクタイから手を離し、白い歯を覗かせた。

 付き合ってすらいないのだから、早いも遅いもないと思うのだが。まあ僕も一瞬期待した手前、そんな冷静な指摘をするのはバカっぽい。


「だから、これはキスの代わりね」


 と言って。

 僕の脇あたりに両腕を滑りこませ、自分の身体を押し付けた。背中に回された手は、僕が逃げないよう服を掴んで離さない。


「い、いやっ、ちょっと。何するんだっ」

「マーキング」

「は、はぁ……!?」

「佐伯に今日一日、他の女の子が寄り付かないように」


 落とした視線の先にあるのは、天城の悪戯心たっぷりな甘ったるい笑み。

 まさか、女子から二日連続で抱き着かれる日が来るなんて思わなかった。嬉しい……嬉しいのだが、非常に困る。理性という名の岩が、ゴリゴリと音を立てて砂と化してゆく。


「それとさ――」


 服を掴む指に力が入った。

 顔を隠すように俯いて、僕の鳩尾にぐりぐりと額を押し付ける。


「今日はお昼から久々にお仕事で……元気、もらいたくって」


 背中に触れる手が、ほんの少しだが震えていた。

 このまま抱き締めてやりたい衝動に駆られるが……いやいや、俺と天城はそんな関係じゃない。そういう気の緩みが、不純異性交遊に発展してしまう。


「何かごめんね、早く行かないと遅刻しちゃうし」


 天城はふっと身を退き、一歩二歩と先へ進む。

 「なあ」と背中に一言。金の髪を揺らしながら振り返り、可愛らしく小首を傾げる。


「天城の好きな食べ物ってなんだ?」

「んー……酢豚、かな? 中華全般好きだけど」

「じゃあ、夕食は中華にしよう。僕も得意だし」

「えっ?」

「頑張って来いよ。応援してるから」


 天城は格好いいし立派だ。

 抱き締めることは出来ないが、背中を押したいとは思う。


 夕食が好物だと、僕ならちょっと嬉しい。

 そのちょっとが、彼女にとってどの程度かは知らないが。


「あ、ありがと……」


 顔を真っ赤にして、照れ臭そうに前髪を手櫛ですく。

 視線を伏せては上げ、伏せては上げを何度か繰り返し。

 ようやく少し落ち着いたのか、僕を真っすぐ見据えて唇に指を当て熱い息を漏らす。


「キスしてくれたら、もっとがんばれるなぁ……なんて」

「中華無しにするぞ」

「えー! なんでっ!」

「不純異性交遊禁止なんだよ! てかお前、さっき自分で早いとか言ってただろ!」

「その時と気分によって言うことなんて変わりますぅー」

「んな無責任なこと、当たり前みたいに言うな!」

「あ、でも、佐伯のこと好きってのは変わらないから。そこのとこは安心して」

「そこが一番安心できないんだが……」


 はぁー、と特大のため息。

 天城はニッと白い歯を見せ、「佐伯大好きーっ!」と叫びながら走り去って行った。


 頼むからやめて。

 他の住人に、絶対聞かれてるから。

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