第3話 お願いします


「はぁ、はぁ、はぁ……! ま、マジかよ……っ」


 いた。

 壁に寄りかかってしゃがみ込み、ぼーっと雨雲を見つめる天城。急いで駆け寄ると、彼女は途中で気づいて腰を上げ、「あれ?」と首を傾げる。


「委員会の仕事は? てか、それ私服? 面白いTシャツ持ってるんだね」


 部屋着のネタTを見て、くすくすと笑う。

 僕は息を整え、目に入りそうな汗を手の甲で拭う。


「……お前さ、何でそんな笑ってるんだよ。この格好見たらわかるだろ。お前のこと放っといて、一人で帰ったんだぞ」

「でも、結局は来てくれたじゃん。雨が降り出したから、心配してくれたんだよね」

「そ、そりゃ、誰だってそうするだろ……」

「そんな人、今まで一人もいなかったよ」


 と言って、僕に歩み寄り。

 汗でべっとりと濡れた背中に腕を回し、鎖骨のあたりに鼻先をつけた。


「ちょ、っと」


 身体の正面に感じるやわらかいものに、息が詰まりかけた。

 後ろに下がろうにも天城の腕がそれを許さず、身体を仰け反らせればそれだけ密着してくる。


「これが佐伯の匂いかー」

「や、やめろ。汗かいてるし、く、臭いからっ」

「頑張って走ってくれた人の匂い。初めて嗅ぐけど、好きだよ」


 ふっと見上げて、頬を緩めた。


「……すっごく、好き」


 大きな瞳がぱちりと瞬き、そこに僕だけを映して満足そうに鼻を鳴らす。


 頭がくらくらしてきた。

 いつの間にか呼吸を忘れていたようで、一気に息を吸う。その際、梨のような瑞々しく甘い天城の匂いも一緒に取り込み、それは熱となって全身が火照る。


「あたしやっぱり、佐伯と付き合いたい」


 ぱっと身を離して、悪戯っぽく笑った。

 一拍遅れて正気に戻った僕は、「だからぁ」と頭を掻く。


「嫌がってる人に、まとわりついたりしないよ。交渉材料があるの」

「こ、交渉?」

「大変だったんだよー。今日一日、授業も休み時間も全部潰して作ったんだから」

「作ったって、何を?」


 ガサゴソと鞄を漁り、真新しいノートを取り出した。

 それを受け取り、中身を確認する。


 書かれていたのは、数学の解説。しかも、まだ授業でやっていない範囲。

 ……少し読めばわかるが、かなりわかりやすい。この手の教材はいくらか買ったが、今まで読んだ中で一番だ。


「勉強が大変だから、あたしにちょっかい掛けられる余裕がないんだよね。だったら、テストで点数取れるように協力してあげる。あたしの授業、結構わかりやすいと思うよ」


 少し勘違いしているようだが、提案自体はかなり魅力的だ。

 このノートの内容、たった数時間で作ってしまう手際、並の技術ではない。彼女に教えてもらえるなら、どれだけ生活が楽になるか。


 で、でも、不純異性交遊は……。


「とりあえず、これは一旦没収ね」

「えっ」

「佐伯はあたしから勉強を教わる。その代わり、あたしは佐伯を惚れさせるために何してもいい。これを約束してくれるなら、他の教科のも作ってあげる」


 ふふんを笑いながら、奪ったノートを抱き締めた。

 何しても、いい。甘く蕩けるような響きに一瞬心が持って行かれそうになるも、寸でのところで唇を噛み踏みとどまる。


「……そ、そりゃ、僕だって勉強教わりたいけどさ」

「じゃあ、交渉成立?」

「無理なんだよ。親から一人暮らしの条件として、勉強しろとか、バイトしろとか言われてて。不純異性交遊をしたら、即実家に連れ戻されるし……」

「あたしに勉強を教わるのって、不純なことなの?」

「え」

「惚れさせるためにって言っても、佐伯のことが好きな友達が一人できるだけだよ。その子と一緒に勉強するのって不純なこと?」


 確かにそうだ。

 不純異性交遊はダメだと言われたが、別に友達を作るなとは言われていない。性的な関係にならなければ、問題はないだろう。


 ……しかし、僕は耐えられるのか。天城からの誘惑に。


 耐えられるかどうかの話をするなら、この身体もそうだ。

 バイトに次ぐバイト、寝る間を惜しんでの勉強。高校生活が始まってまだ半年なのに、もう身体が悲鳴をあげている。この調子で卒業までもつのだろうか。


「ねえ佐伯……絶対、勉強で苦労させないからさ」


 上目遣いで唇を僅かに尖らせ、切なそうな表情で懇願する。

 外気に触れた胸元。首筋から滲んだ汗が皮膚を伝い、谷間の暗がりへと落ちてゆく。


 だ、ダメだ。可愛い。可愛過ぎる。

 いけないとわかっていながら、口が勝手に言葉を紡ごうと開き出す。やめろと命令しても突っぱねられ、もう止まれない。


「あ、は、はい。じゃあ、よろしくお願い、します」


 気がつくと、僕は頭を下げていた。

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