【3】
長い髪をようやく乾かし終え、洗面所から出る。
出た先、リビングの電気は
キッチンの、シンクの真上にある蛍光灯だけを点けると、目線の先にあるリビングが薄闇の中にぼうっと浮かび上がった。
水が入ったグラスを持ち、今日の出来事を、一つ一つ焼き付けるように振り返る。
怜との、最後のデート。
手を繋ぎ、にこやかに笑い合いながら歩く私たちは、ごくごく普通の、どこにでもいる、けれど確かな幸せの中にいるカップルに、傍からは映っていたのだろうか。翌日に別れを控えているカップルだと、気付いた人は果たしているのだろうか。
何度も、錯覚を起こしそうになった。本当に私たちは、明日別れるのだろうか。怜は本当に、私から離れたがっているのだろうか。もしくは、付き合う前のあの頃に、時間が巻き戻っているのだろうか。
あの頃二人で行った場所、食べたもの、見た景色。全てがデジャブだった。
つまりこれは、もう一度やり直せるチャンスを与えられているということなのかもしれない。
別れが目前に迫ってきていてもなお私は、こんな風に現実から逃げようとしている。直視できないでいる。でも、怜に本音を言うことも躊躇ってしまう。
嫌だ、別れたくない、一緒にいたい。
けれどそんな風に訴えれば訴えるほど、怜の気持ちはますます離れていってしまうような気がした。だから物分かりのいい振りをして、静かに別れを受け入れた。別れることよりも、怜に嫌われることのほうが、よっぽど怖くてたまらなかった。
心を落ち着かせるようにして、グラスの水を一息に飲み干す。そして私は、寝室に向かった。
このまま、永遠に夜が続けばいいのに。朝なんて来なければいいのに。そう思いながら。
いつものようにベッドの左半分で横になっている怜は、仰向けで目を閉じていた。
時刻は十一時半を回っている。今日は割りと歩き回ったから、少し疲れてしまったのだろう。
先に寝てしまったことに対して、怒りは湧かなかった。むしろ眠っていてくれたほうが、これ以上辛い思いをしなくて済むのかもしれない。
けれど怜は、私がベッドの右半分にするりと忍び込むと、そっと目を開けた。
「あっ、ごめん。起こしちゃった…?」
「ううん、ずっと起きてたよ」
そっか、と、私も仰向けの姿勢になって呟く。呟いた言葉が、暗い部屋の中で浮遊する。いつもより夜の静寂が深い気がして、少し、怖くなる。
けれど、すぐ隣から伝わる体温は、確かに温かった。この温もりも、今夜で最後だ。
「…今日、楽しかった?」
唐突な、怜からの問い。私は天井を見つめたまま、「楽しかったよ」と答える。
質問の意図を探りたくなるけれど、きっと深くは考えないほうがいい。
もう、何も考えないほうがいい。考えを巡らせば巡らすほど、絡まっていくからだ。その糸のほどき方は分からなくて、私はただ、途方に暮れる。
よかった、と言いながら、怜は身体の向きを変えた。こちらを向いている。
今までだったら、呼応するように私も姿勢を変え、向かい合っていただろう。そしてそのまま、とろとろとした眠気が漂う中、他愛のない話をする夜がこれまで何度もあった。
深夜のテンション、というやつなのだろうか。くだらないことでも、馬鹿みたいに盛り上がったりした。何が可笑しいのか分からないけれど、笑いが止まらなくなることもあった。そんな夜が、楽しくて仕方なかった。
もちろん、幸せに抱かれる夜もあった。二人での暮らしが日常になっていっても、怜が私を求める頻度が極端に減ることはなかった。毎度恥じらいを見せる私を、怜はとても丁寧に扱ってくれた。可愛いよ、綺麗だよ。耳元でそう囁かれるだけで、身体の奥の奥が疼いた。
怜が私の中に入ってきた時、その疼きは加速し、そしてじんわりと溶け出していく。まるで、世界が私と怜だけのものになってしまったような気がした。頭がおかしくなるくらい、幸せだった。
でも今日は、怜と向き合うことができない。別れたいことを初めて聞かされた時のように、私の身体は石になった。冷たくて、硬い。
怜が、私の長い髪の毛のほんの一束を、そっと指に取った。怜は今何を考えているのか、やっぱり気になってしまう。
「…本当に、別れるんだよね。私たち」
口が、勝手に動く。抑え込もうとしていた気持ちが、溢れ出そうとしている。もう、私の身体はばらばらになりそうだった。それを繋ぎとめる方法は、一つしかない。
私には、怜しかいない。怜を失ったら、私は、どこに向かって歩いていったらいいのだろう。いい年した大人が何を、と思われるのかもしれない。けれど、気分は本当に迷子のようだった。一歩間違えたら、奈落のような場所に落ちてしまいそうだった。そしてそこから永遠に出てこれないような気さえした。
「…ごめん」
その言葉は、もう何十回と聞いた。聞くたびに、ずるい言葉だと思った。謝られたら、もう何も言えない。責めたいのに、責められない。そして謝ったからと言って、状況が良い方向に変わるわけでもない。
石のような私の身体に、そっと腕が回される。やめて、と叫びたい気持ちと、ずっとそうしていて、と祈る気持ちが半々で混ざり合う。
「ずっと」は、この先死ぬまで、という意味だ。明日も明後日も、この日常が続いていってほしい。
それは、絶対に叶うことのない虚しい願いだ。絶対なんてない、とついこの間思ったけれど、これに関しては言い切ることができてしまうのだ。
現実が、怜が、揺るぎようのない「絶対」を、突きつけてきているのだから。
その刃による傷口から、見えない血が静かに流れ出す。けれど流れ出したのは血ではなく、涙だった。怜の前では我慢しようと思っていたのに、
「尊敬している相手が女性だから、その好意が恋愛感情だって思い込んでるだけなんじゃないの…?」
駄目だ、駄目だ。分かっているのに、私の意思とは裏腹に、抑え込んでいた言葉がこぼれていく。
とその時、視界が大きく動いた。突如怜が、私に馬乗りになる。そのまま抱きすくめられ、首筋のあちこちに唇が落とされる。大切な何かを一つ一つ確かめていくように、怜は私の首にキスをする癖があった。
このまま、してもいいよ。でも私たち、明日別れるんだよね?怜は何を思って、今私に触れているの?怜なりに、名残惜しさでもあるの?散らばった気持ちが、またぐるぐると頭の中を巡り出す。
「…残酷なこと言うよ。でも、分かってほしいから」
身体をほんの少し離し、でも私を見下ろす姿勢のまま、怜は言った。
「こんな風に澪加に触る時、してる時…いつの間にか、僕はあの人のことを考えるようになっていた」
傷口が、
穏やかで、優しくて、例えるならば凪いだ海のような。そんな怜が今、容赦なく私を刺し殺している。血が、涙が、止まらない。
「これだけは信じてほしいけど、あの人とはまだそういう仲じゃない。これに関しては、僕の一方的な気持ちだから。もちろん、性欲だけっていうわけでもない。それはあくまで恋愛感情の中の一部で、その恋愛感情は尊敬とは別物なんだ。そこはちゃんと切り離して考えているつもりだよ」
私の顔をだらだらと濡らしていく涙を、怜は鬱陶しがることなく、そっと拭う。私が泣き止むまで、そうしているつもりなのだろう。その労りや慰めも残酷だと思ったけれど、その手を振り払うことはできなかった。
「…怜」
「ん?」
「もう一回だけ、抱きしめてほしい」
すると、怜の温もりが全身を包む。それは心地良いい温度で、心地良い嗅ぎ慣れた匂いのする、私のたった一つの居場所だった。
今まで本当にありがとう、大好きだったよ。怜が、小さく呟く。それは本当に小さかったけれど、それもまた、刃だった。
こんなに傷だらけになった身体は、どうしたら癒えてくれるのだろう。怜がいなくなったら、この身体は本当に壊れてしまうんじゃないだろうか。だから私は、もう一度虚しい祈りを捧げた。
このまま、永遠に夜が続けばいいのに。朝なんて来なければいいのに。
【完】
命尽きるまで 川上毬音 @mari_n_e_
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