【2】
「ちょっと、話があるんだ」
改まった口調で、怜からそう言われたのは二週間ほど前のことだった。
夕食を食べ終え、私はダイニングテーブルに座ったままテレビを見ていて、かたや怜はキッチンで食器を洗っていた。
キッチンから戻ってきた怜は、私の向かいに腰を下ろし、姿勢を正した。
いつもとは様子が明らかに違うことにはさすがに気付いていたけれど、この時の私は、呆れてしまうくらいにのんきだった。まさかとは思いながらも、ある漢字二文字が、頭の中でぱっと灯った。
「別れたいって、思ってる」
その
怜が言おうとしていたことは、私が安易に思い浮かべた二文字の、真逆を行くものだった。
全く予想していなかった一言だったから、その言葉を脳が理解するのに少し時間がかかった。上手く、処理できない。
目の前にいるのは、確かに怜だ。ずっと一緒に過ごしてきた、怜。
怜は、一体何を言っているの?今日はオムライス綺麗に作れたねって、ついさっきまで話してたよね?澪加が作るコールスローは本当に美味しいって、さっき、怜は言ってたよね?
混乱する私をよそに、怜は唐突に話し始める。どれもこれも初めて聞くことばかりで、私は、息の吸い方、吐き方さえ分からなくなりそうだった。
怜といると、安心して呼吸をすることができる。ずっと、そう思っていたはずなのに。それは揺るがないもののはずだったのに。私が信じてきたものが、目の前で、ぼろぼろと崩れていく。
職場の先輩で、とても尊敬している
仕事が速く、機転も利いて、社内で一目置かれているような存在だ。
ここ半年ほど、ある案件でその人と組んで仕事をすることが多かった。
話せば話すほど、この人はすごい、自分もこうなりたい、そんな気持ちが膨らんでいった。そして、自分が本当にやりたいことは何なのか、それを実現するために何をしていけばいいのか、見えてくるようにもなった。
そんな時に、その人から言われた。
「今すぐじゃなくてもいい。けど、いつか一緒に別の仕事してみない?ここから離れて。私は、あなたの力が欲しい。あなたのやりたいことと、私のやりたいことって、話を聞いているとリンクしてると思うの」
嬉しかった。ここ最近で、何よりも嬉しい出来事だった。
そして気付いた。ずっと見て見ぬ振りをしてきたけれど、僕の中で、彼女のことを考える時間がどんどん増えてきている。もっともっと、彼女のことを知りたい、近付きたいと思っている自分がいる。
もう、無視できなくなっていた。僕は、彼女のことが好きだ。
仕事ぶりだけを見て言ってるんじゃない。一人の女性として、どうしようもなく魅力を感じてしまっているんだ。
そして私は、成す術もなく、ただ座って聞いていた。
身じろぎ一つできなくて、このまま石になってしまいそうだと思った。
普通なら、逆上してもいいところなんだろう。でも、何故だかそれができなかった。
「こんなことを打ち明けた後で、何を言っても言い訳に聞こえてしまうのかもしれない。でも、僕は確かに澪加のことも大事なんだ。だからずっと一緒にいた。今でも、僕にとって澪加は特別だって思ってる。そんな相手に、不誠実な態度は取りたくないって思った。どっちつかずは、絶対に駄目だ。あの人…先輩のことを選ぶなら、澪加とはけじめをつけなきゃいけない。自分勝手なことを言ってるっていうのは、分かってる。いくらでも罵ってもらって構わない。どんなに綺麗事を言ったって、僕が澪加を裏切ったことに変わりはないんだ。本当に、ごめん」
怜は深々と頭を下げ、そしてそれを上げようとはしなかった。
怜の頭頂部をぼんやりと見つめながら、相変わらず猫っ毛な髪の毛、なんて場違いなことを私は考えていた。怜は一向に頭を上げない。私が口を開くまで、ずっとそうしているつもりなのだろう。
石のように硬く、そして鉛のように重くなった身体を、私は椅子から離した。何も言わずに立ち上がり、そのまま寝室に入って行った。それが、私にできる精一杯の抵抗だった。
いや、違う。ただの現実逃避だ。
日付が変わる頃、怜はようやく寝室に姿を現した。この時になって、やっと私は冷静に話をすることができる状態に落ち着いていた。納得はしていなかったけれど、それでも、怜の固い決意の前では、私が何を訴えても無駄なのだろうということを悟った上で、話をした。
ベッドに並んで横たわり、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
怜は、一旦実家に戻ることになった。兄夫婦が少し前に家を出て、部屋が空いているのだと言う。いずれはアパートかマンションか、部屋を借りるつもりではいるらしい。
それなら実家に戻らなくても、ここにいる間に部屋探しをして、決まり次第そっちに移ったらいいんじゃないの。そう提案もしてみたけれど、怜はゆるやかに首を振った。
けじめだから、甘えちゃいけないよ。離れるって決めたなら、すぐに動いたほうがいい。一つ、分かっていてほしいのは、澪加のことが嫌いになったから別れるわけじゃないよ。でも、別の場所で生きてみたいってどうしても思ってしまったんだ。
そうか、嫌われてはいないんだ。
その部分だけを都合よく
おやすみ、とどちらからともなく呟き、間もなくして怜の寝息が聞こえ始めた。けれど私がその夜、眠りに落ちることはなかった。
言い争ったことなんて今まで一度もない相手に、どう牙を向けたらいいのか分からなかった。怒りのぶつけ方が分からなかった。
二人だけの小さな世界は、ずっと守られた場所のはずだった。胎児をゆったりと包む羊水のように、絶対的な安心が保証された空間のはずだった。
絶対なんて、無かったのだ。私は眠れないまま、地獄のような夜を彷徨い続けることになる。
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