命尽きるまで
川上毬音
【1】
「一番最初のデートをなぞりたい」なんて、私はよく考えもせずに言ってしまった。
けれどその穏やかさが、今は逆に痛みを伴って私に突き刺さってくる。
どうして、どうしてこうなってしまったんだろう。
間違えた場所を誰かが教えてくれるのだとしたら、そこに引き返してもう一度やり直したい。
「澪加?」
はっと顔を上げる。隣を歩く怜の横顔が、夕焼け色に染まっていた。
「あっ、ごめん…ぼーっとしちゃった」
ふっと、怜が笑う。どこか寂しげに見えるのは、気のせいなんだろうか。寂しいと思っていてほしい、という、私の願望が作り出した幻想なんだろうか。
時間帯のせいも、あるのかもしれない。
太陽が、もうすぐで沈む。今日という一日が、終わりに近付いていく。
「何か言ってた?」
「ん、ほら、本屋さん行って、ぶらぶらして、外でラーメン食べて、公園散歩して、移動販売のソフトクリーム食べて…って、本当にこれで良かったのかなって」
「どうして?全部ちゃんと、一番最初のデートで行った場所だよ?」
「そりゃね、あの頃は僕が貧乏だったからさ、あんな不甲斐ないデートになっちゃったけど。どうせなら、今日はもっとちゃんとしたデートのほうが良かったんじゃないかなって思って」
「もう、私の大事な思い出なのに。不甲斐ないの一言で片付けないでよ」
少しむくれたように言うと、そんな顔しないでよ、と苦笑されてしまった。そして、「でも確かに」と、夜の気配が混じり始めた空を見上げながら、怜は言った。
「大事だから、リクエストしたんだもんね」
怜の心が、分からない。どうしてそれを、わざわざ言葉にするのだろう。
ずるい、憎い、卑怯。そんな気持ちがふつふつと湧いてはくるけれど、それでも私は、怜のことが嫌いになれない。
いっそ、嫌いになれたら。いっそ、もっと酷い態度を取ってくれたら。そうしたら私も、離れたい、一緒にいたくない、と、自然に思えるのだろうか。
「でも、不甲斐ないなりに、僕も大事だよ。全部、ちゃんと覚えてた」
だから、どうして。どうしてそういうことを怜は今言うんだろう。泣き出したい気持ちを、どうにかこらえる。
繋いでいた手を、そっと放した。
「ああ…もう家か」
「うん、あっという間だったね」
最初の再現をした、最後のデートが終わる。
私たちは、住み慣れた家に帰ってきた。
築年数が少し古めの木造アパート。二階の、廊下を進んだ突き当たり。その角部屋が、私たちの帰る家だった。
けれどこの家は、明日以降、住人を一人失う。怜は明日、この家を出て行く。
「けど、あのソフトクリーム屋さん、前よりちょっとメニュー増えてたね」
「ね。黒ごまソフトとかほうじ茶ソフトとか、美味そうだったなあ」
じゃあ今度一緒に食べようよ、なんて、思わず勢いで言ってしまいそうになる。けれど、それを言うことは赦されない。私たちに、今度はない。
頭では分かっている。怜とちゃんと向き合って、話はした。結論だって出た。ただ、感情が追いつかないのだ。
付き合って三年、一緒に暮らして二年。
長い、という感覚はあまりない。気付いたら、それだけの月日が過ぎていた。
怜はすっかり、私の日常の中に溶け込んでいた。一人で過ごしている時より、怜といる時のほうが自然だった。身体が、軽かった。安心して呼吸をすることができた。
私はもう、一人ぼっちじゃない。この時間が、これからもずっと続いていくんだと思っていた。当たり前のように。
けれどその当たり前は、私だけの思い込みだった。
私が変わらない日常の中に浸かりきっている間、怜は、私からどんどん離れていた。知らない間に、すれ違いが生まれていた。
カバンの中から鍵を取り出した自分の手が、ほんの少し震えている。ぶら下がっているペンギンのキーホルダーは、怜の鍵にも同じものがついている。いつだか一緒に水族館に行った時、お土産として買った。
その鍵も、明日の朝、きっと返されるのだろう。別に返さなくてもいいよ。そんな風に言うことも、きっと赦されない。
「ただいま」
いつものように、怜が呟く。ドアを開けた先の部屋は、以前よりもすっきりとしていた。怜の荷物が粗方運び出された後だからだ。
と言っても怜が持ち出すものはあまり多くはなく、たったの段ボール二箱分で収まってしまった。
二年もここで、一緒に暮らしていたのに。確かな重みが、この部屋にはあるはずなのに。だからこそ私の心は、未だに現実を受け入れきれていない。
「ただいま」
いつものように、私は呟けただろうか。恋人として一緒に過ごせる時間が、こうしている今も刻一刻と減っていく。二人の余命、恋人関係という名の余命が、ゼロに近付いていく。
右手の中の鍵を、私は無意識のうちに強く握りしめていた。ペンギンのくちばしが、ぎゅうぎゅうと手のひらに食い込む。痛い、と思ったけれど、こんなの、大した痛みじゃない。
怜と別れることと比べたら、どんな痛みも、些末なものに思える。
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