【3】

 今日の午後の授業も相変わらず眠かった。


 けれど今日は自分にしては珍しく、すぐには降参しないで睡魔と戦った。どうにかこうにか打ち勝ったものの、それはそれで授業が終わった後も眠気が残るなと思った。一度しっかり意識を無くしてしまったほうが、起きた後それなりにすっきりするような気がする。


 なんてことをぼんやりした頭で考えながら、帰り支度を始める。長い一日からの解放、そして長い一週間からの解放でもある。


 とは言っても、週末の過ごし方なんていつも同じようなものだ。

 部活の休日練習に顔を出すか、家でだらだら過ごすか。悪くはないけど、かと言って特別何か楽しみがあるわけでもない。可もなく不可もなく、平々凡々。まあ、何でも普通が一番だ。そこそこで、十分だ。


 と思っていたのに、リュックのチャックを開けたところで、その半分寝ぼけたような平和的な気持ちが若干乱れた。

 目に飛び込んできたのは、前払い済みの貸し出し用ノートだった。

 今日の時間割に古文は無かったけれど、貸すことを約束させられた以上、よっぽど嫌でもない限りそれは守るのが道理だ。土日を挟む前に渡しておこうと思って、今日持って来た。


 そのノートを使って目の前の背中を軽くつつく。「ひっ」と一瞬変な声を出し、顔を小さくしかめながら雨宮が振り向いた。


「ねえ…急にやめて?心臓に悪い」


「いやただのノートじゃん。刃物突きつけられたみたいな反応するなよ」


「背後からそういうことするのほんと良くないよ」


「案外ビビりなんだな」


 そういうことじゃなくてね、と目を細めながら雨宮は俺を睨んできたけれど、差し出されたノートを見てその表情をぱっと変えた。


「そうだそうだ、貸してってこないだ言ったもんね。さすが雨宮専属のノート係、何だかんだ言いつつ仕事はきっちりやるよね」


「何で微妙に上から目線なんだよ」


 という俺の言葉なんてまるで聞こえてないかのように雨宮は平然と受け流し、ノートをぱらぱらとめくりながら、「あー…これくらいの量なら今ささっと写しちゃおうかな」と呟いた。


「別に今じゃなくても。ノート返すのなんて来週でいいよ」


「だって月曜日に古文の小テストあるじゃん。ノート無いと休みの間に森下が勉強できなくなっちゃうでしょ」


「俺小テストの前に勉強とかしたことないんだけど…てかテストあること自体忘れてた」


「もう、そういう所が森下のダメポイントだよね」


「ずいぶんはっきり言うな。じゃあそんなダメな奴からノート借りてる雨宮ってどうなの?」


「はいはいもううるさいな。とにかくすぐ写しちゃうからちょっと待ってて」


 強制的に会話を終了させて、雨宮は身体の向きをくるりと前に戻してしまった。そして本当にそのままノートを写し始めた。そのうち担任が教室にやって来て帰りのホームルームが始まったけれど、その間も雨宮はお構いなしにシャーペンを走らせ続けた。


 特別な連絡事項だとか配布物の類が無ければ、ホームルームなんていうものは一瞬で終わってしまう。日直当番の号令を合図にガタガタと席を立ち、部室へ、グラウンドへ、もしくは家へ、それぞれがそれぞれの場所へと散る。

「ごめん、ほんとあとちょっとだから待てる?」と手を合わせてきた雨宮と、「そんな急がなくてもいいけど」と答えた俺は、再び椅子に腰を下ろした。


 俺自身この後はと言うと部活だけれど、着替えるために部室に行っても結局そこでだらだら喋っている時間がいつも無駄に長いのだ。だから多少そこに遅れた所で特に問題はない。


 先輩達が揃って引退してからというもの、どうにも部の空気が緩んでいる。上に立つ人がいなくなった以上、仕方のないことなのかもしれない。

 そしてまた自分達二年生と後輩の一年生の距離感が妙に近く、馬鹿みたいなことで笑って一緒になって騒いでいる。


 要するに、運動部の割りにはゆるっとしている部ということだ。部活に手を抜いている適当な奴ら、なんてよその部の連中から裏で言われていることもあるらしい。確かにハードだとかキツいだとか、そういう雰囲気からは縁遠いのかもしれないけれど、かと言って部外者からあれこれ言われる筋合いもない。練習そのものは自分達なりに真剣にやっている。


 おもむろに席を立ち、俺らの陰口を言っているのは大体あの辺だろうな、とグラウンドにちらちらと姿を現し始めた野球部や陸上部を窓越しに見やる。

 どこか遠くから、金管楽器やら木管楽器やらが入り混じった音が聞こえてくる。

 俺と雨宮以外にも何となく教室に残って駄弁っているクラスメイトがいたけれど、だいぶ閑散としていた。


 周りを取り巻く空気の全てが、放課後のそれへと入れ替わっていた。余談だが、今せっせとノートを写している雨宮は帰宅部だ。


「あ、森下、ここ漢字間違えてる」


「え、どこ」


 机の上に広げられたノートを覗き込む。とその時、妙に馴染みのある匂いが、ふっと鼻の辺りを通り過ぎた。そのたった一瞬でもこうして分かってしまうくらい、はっきりと濃く、そして甘い。今自分の口の中にそれがあるわけでもないのに。


 参ったな、と少し途方に暮れたくなった。


「飴、舐めてる?」


「え?あー、うん」


 それは、苺の香りだった。


「まあ正確にはもう溶けて無くなっちゃったけどね。でも舐め終わった後もすごく残るんだよね、味とか、匂いとかも」 


「…いつも俺にくれるやつ?」


「そうそう。あの苺の飴ね、私すっごい好きなの」


 へえ、とか、ふうん、とか適当な返事をしながら、雨宮の隣の空いている席を拝借して、そこに腰を下ろした。なるべく自然な動作で。


 そう、不自然さは生み出したくなかった。その苺の飴って俺以外にもあげてんの?なんていうド直球な質問は、やっぱり不自然に値してしまうのだろうか。

 でも、ここまで来たらもう思い切って聞いてしまいたい。


 曖昧なままでいい、そんな風に今までは思っていたけれど、そんなのは嘘だ。嘘と言うべきか、逃げと言うべきか。


「…俺もあれ好き」


「ほんと?なら良かった」


 ノートに落ちた髪を耳にかけながら、雨宮が屈託のない笑顔を向けてくる。

 だから、何でお前はすぐそういう顔をするんだ。内心、俺はどうしたらいいのか分からなくなってしまうんだ。


 当の本人に悪意なんていうものはもちろん無いだろう。俺が密かに困っているなんて、夢にも思ってないはずだ。

 というようなことを突き詰めて考えていくと、最終的に辿り着くのは雨宮への恨みがましさ。


 くそ、と思わず歯噛みしたくなる。何で飴玉一つでこんな気持ちにならないといけないんだ。


 雨宮も俺もさらっと「好き」とかいう言葉を口にしたけれど、もちろんその対象は例の物。苺味の飴玉だ。なんてわざわざ言うまでもないことなのかもしれないけれど、でも大事な部分は強調しておくべきだし、変な誤解が生まれでもしたら大変だ。


 誰に向けての言い訳なのか釈明なのかもはやよく分かんねえな、と自分で自分に呆れたくなった。


「…あのさ、森下」


「ん?」


「ちょっと、言いたいことあるんだけど」


 雨宮が手を止めて、じっと俺のほうを見た。勘弁してくれ、と今度こそ本当に降参したくなる。教室には、いつの間にか誰も居なくなっていた。俺と雨宮の二人を除いて。


「…何?」


「…んー」


 こんな風に歯切れの悪い様子を雨宮が見せるのは、珍しかった。そのせいで、緊張感が余計に加速する。


 雨宮が何を言おうとしているかなんて、その口から言葉が発せられるまでは全く分からない。俺には知り得ないことだ。だから勝手に想像なんかしちゃいけない。それなのに、そんな意思とはまた別の意思が自分の中で勝手に動き出す。


「え、何だよ気持ち悪いな」


「気持ち悪いって何、失礼な」


「はいはい。……で?」


「うん…まあ、言いたいことっていうか、頼み事なんだけど」


「頼み事…」


「もっと言うと、書道の授業のことなんだけど」


「書道の授業……?」


 なんだか、話の方向性が俺の勝手な想像とはだいぶずれているような気がする。もちろんさっきも思ったことだけれど、雨宮が人気のない放課後の教室で、改まった態度で切り出そうとしているその話の内容なんて、実際それを明かされるまで俺には分からない。


 二つの意思の間で、右往左往している自分。客観的に見ると、一体何をこんなに必死になっているんだろうとも思う。教室はすっかり静まり返っているというのに、俺の心の中はやたら騒がしかった。


「森下さ、書道の授業中、いっつも半紙に落書きしかしてないでしょ?」


「…はあ」


「でも、ふざけないでちゃんと書けば絶対上手いと思うの。だって普段のノートの字がこれだけ見やすいんだよ?なのにさ、半紙と筆と墨を与えられたら落書きするとか、やってること小学生と同じだよ。いや、今の小学生は賢いから、もしかしたらそんなことしないかも。そしたら小学生以下だよ」


「はあ」


「書道室だと私、通路を挟んで森下の斜め後ろの席なんだけど、手元がよく見えるの。昨日もさ、下手くそなトトロ描いてたね」


「はあ」


「だからね。私からの頼み事っていうのは、森下が書いた本気の毛筆も見たいなってこと。それを見られる日が来たら、私もしかしたら感動しちゃうかも」


「はあ」


 ちなみに昨日の書道の授業で俺が描いていたのはトトロじゃなくてピカチュウだ。ただ真面目に授業を受けていないのは事実だから、特に何も言い返せない。


 けれど、それってわざわざ今この状況で話すことなんだろうか。正直、かなり紛らわしい。何かを勘違いしたっておかしくないだろう?勝手な想像だってそりゃしてしまう。だから俺は悪くない。こんな時まで相変わらずのマイペースぶりを炸裂させる雨宮が悪い。


「ねえ、さっきから何なの?その気の抜けた返事は」


 誰のせいでこんなに脱力的な気持ちになっていると思ってるんだ。お前のせいだぞ。そう言ってやりたかったけれどぐっと堪えた。


「…書道つまんねえんだもん。大体、芸術選択の授業、俺の第一希望は音楽だったんだよ。そりゃモチベーションも上がんねえよ。落書きだってするっつーの」


「書道の授業って人気ないから、第二希望を書道で提出した人は、第一よりもそっちが優先されちゃったらしいよ」


「何だそれ…今初めて知ったんだけど」


「まあまあ、とにかくさ。せっかく書道の授業取ってるのに、今のままだと宝の持ち腐れだよ」


「…あっそ」


「お世辞とかじゃないからね?森下、ほんとに字上手いよ」


「はいはいどうもありがとうございます」


「ねえ、なんか怒ってる?」


 俺はまた一つ学んだ。学んだというか、誓った。一般的な範疇から外れていることが多い雨宮の言動を、他の人間があれこれ推測なんてしちゃいけない。そうだ、二度とするもんか。


「雨宮」


「ん?何?」


「飴ちょうだい」


 投げやりに言ったその言葉に、雨宮はほんの一瞬驚いた様子を見せたけれど、それでもすんなり飴玉をくれた。そして、それはやっぱり苺味だった。


「…なるほど。イライラしてる時って糖分足りてないとか言うもんね。飴を催促されるのは初めてだったからちょっとびっくりしちゃった」


「別にイライラしてねえよ。…もしかしてあれなの?雨宮からしたら、俺って孫的存在なの?」


「……は?」


「んで、雨宮がばあちゃんなの?やっぱり老人なわけ?」


「待って待って、全然話が見えないんだけど」


「こいつに聞いてくれよ」


 後ろの席を振り返り、またも投げやりに言う。「え、こいつって…ここの席?葉田っちのこと?何で今葉田っちが出てくるの?」と雨宮はますます混乱しているようだった。


「いちいち飴を渡してくるのが老人みたいだって言ってたよ」


「そんなこと言ってたの?ひっど…。出身中学が同じっていう希少生物だけどあいつにはもうあげてやんない」


「飴?」


「そう」


 何味の?という言葉は、喉元で止まってしまった。何をこんなに恐れているんだろうなと、もはやだんだんおかしくなってくる。…もう、いいや。追究するのは、やめよう。


 たった今貰ったばかりの苺味の飴玉を、口の中に放り込む。

 怒ってもいないしイライラもしていないけれど、ただただ気が抜けた。一気に広がった苺の強い香りも相まって、自分が負けたことを自覚させられる。何かと勝負していたわけでもないのに、何故だか胸の中に残る敗北感。でも、嫌な気持ちではなかった。負けというより、許しだろうか。


「私ももう一個舐めちゃおっかなー」


 そう言って雨宮が巾着袋から取り出したのは、またも赤かった。もうやめてくれよ、と俺は頭を抱えたくなる。これ以上の追究はやめておくと決めた矢先にそれはない。俺の気も知らないで、本当にこいつはどこまでも我が道を行く。


「んふふ、美味しい」


「何笑ってんだよ気持ち悪い」


「あのさー…、もっと違う言い方無いの?そういう発言をする人にも、金輪際こんりんざい飴はあげないようにしようかな」


 すかさず、それは困る、と思った。


 もう追究はしないし、うやむやで曖昧なままでいいけど、つまり状況はこれまで通りを保ちたい。それが雨宮の通常運転なら、俺もそれを何も言わず受け入れる。そこに雨宮の何か特別な意図があろうが無かろうが、もうどっちでもいい。


 というようなことをもちろん馬鹿正直に言えるわけもなく、「てかノートは?写し終わった?」と俺は話をはぐらかした。


「あと三行!すぐ終わる!」


 再びシャーペンを手に取ったその横顔を眺めながら、どう足掻いても永遠に敵わなさそうだな、と両手を上げたくなった。追究という名の銃はとっくに下ろして、それは足元に転がっている。どうせならいっそのこと、どこか遠くの見えない所へ蹴飛ばしてしまおうか。


 口の中では、ゆっくり、ゆっくり、苺味の飴玉が溶け出していく。この香りにも、到底敵わないだろう。


 でも今は、それでいいんだ。




【完】

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苺味の飴玉 川上毬音 @mari_n_e_

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