1月26日

 やってしまった。昨日の私は何をやっていたんだ。日記を見返しても支離滅裂な事しか書いていない。何が子犬を拾った、だ。只の誘拐でしかない。厄介事に首を突っ込む癖は本当に短所中の短所だ。更に厄介なことにあの子は私に懐いている。今日目が覚めたらあからさまに怯えて部屋の角で丸まっていたのに、傷をしっかり見るために風呂に入れて着替えさせたら、あっさりと昨日嫌がっていた手当てを抵抗しなくなって食事も自分から食べた。罪悪感なのか分からないが、食器洗いも手伝ってきた。洗濯や掃除も手伝ってきたから家事がとても早く終わった。空いた時間で幾つか質問をしたが、得られたのは彼女の名前が玄菠くろは、好きなものは甘い卵焼き。ということだけだった。犬っぽいのでクロと呼ぶことにした。試しに呼ぶと戸惑いながら嬉しそうに見えたのでこのままいく。

 昼食を食べさせると眠くなったようで、ソファに寝かせた。昨日はあまり疲れが取れていなかったらしく、泥の様に眠り始めて夕食前にようやく起きた。起きた瞬間に時計を見て愕然としたのは面白かったが、直後に顔を真っ青にして謝り始めたのを見るに、やはり今まで問題があったのは確実と思っていいだろう。その後煮魚を食べたら直ぐに忘れたようだが。


 しかし奇妙なことで、クロは中々話そうとしない。一応ちゃんと名前とかお礼は言ったから病気では無さそうだが、たまに一言二言話したらそれで終わり。正直不便に思う場面もあるが、まだ完全には懐いていないということで折り合いをつける。



……………………



 目の前に丸くなっている少女がいる。黒髪の見知らぬ少女だ。私の愛用のブランケットと布団に包まって涎を垂らしている。

 誰が、どのようにしてこの少女を連れ込んだのか。その元凶は……


「私なんだよなあ」


 幾ら現実逃避してもこの事実からは逃れられない。


寺峰弥てらみねひさ27歳。少女誘拐の疑いで逮捕……ははっ」


 五日後くらいの朝刊の見出しを予想で呟くが、全くもって笑えない。

 お父様お母様すいません。ここまで堅実に生きてきたつもりですが、社会人五年目にして私は酒に酔った勢いで名前も知らない少女を誘拐するという結構アウトな犯罪を犯してしまいました。

 でもこの子が何かの事件に巻き込まれてた可能性も高い訳で、じゃないとあの外見と行動に説明がつかない。


「あー、面倒だ。全くもって面倒だ」


 人様の家庭環境ほど厄介なものは無い(個人の意見です)というのに、なぜ私はこんなことをしたのだ。酔ってたとはいえ、この服装なら一発アウトだって直ぐわかる___あ、


「風呂入れてないじゃん」


 何の脈絡も無く、とてもどうでもいいことを思い出した。いや、傷がどうなってるか詳しく見たいし後で起きたら入れよう。そうしよう。

 そうなったら着替えも用意しなければ。この子は私より背が低いから服は私のを着れると思うが、下着に関しては何とも言えない。人が使った物は嫌だろうし、今から買おうにもサイズが分からない。そもそも朝っぱらから開いている店なんて近所にあっただろうか。

 というかその前に朝ご飯だ。二人分の食料なんて買っていないし、昨日の様子を見るにこの少女は相当お腹が空いているようだったから、結構な量を作らないといけないかもしれない。


「ん、ぅ……?」


 うだうだ考えていると、目の前の少女が目を覚ました。まだ寝ぼけているようで、半目で天井を見つめて魂が抜けたようにぼーっとしている。少しすると私の存在に気付いて、こちらに視線を寄越す。知らない人間を見て驚いたのか、誘拐されたと思った___実際その通りだが___のか知らないが目を丸くした後に逃げるようにソファから飛び退いた。


「えー、……おはよう」


 取り敢えず声を掛けたらまた逃げられた。今度はリビングの壁際で蹲ってプルプルと震え始める。どんな扱いを受ければ挨拶されただけでこんなに怯えるようになるのだろうか。昨日の出来事がフラッシュバックして、顔を伝う涙の跡を思い出した。

 この少女を風呂に入れなければ。昨日タオルで拭いたときは土埃か何かで汚れていたし、ただ少女を眺めるのではなく他に何かして気を紛らわしたい。


 少女の目の前にしゃがみ手を差し伸べると、一瞬首を竦めたがおずおずと手を取ってくれた。そのことに思わず口角が上がってしまうが、構わずに小さな手を繋いだまま洗面所に向かう。私もシャワーを浴びたいので全裸になり、そのまま無抵抗の少女の服を脱がし適当に放り投げる。

 浴室で改めて見てみると、やはりこの少女の有様は酷いと実感させられる。昨日粗方手当てした傷以外に下着に隠されていた部分にも傷があり、手足は細く女の子らしさを失っていてあばらや鎖骨が浮いている。髪は痛み頬も痩せこけていて、現代の日本にこんな子供がいたのかと驚かせられる。


 ___と、そこで少女の顔が赤らんでいることに気付いた。まだシャワーもしていないから暑くてそうなった訳ではないだろう。だとすると勿論違う理由で、


「……あ、ごめん」


 浴室に二人だけ、両方とも全裸で片方はその裸体をまじまじと見つめている。客観的に見ればとてもアブナイ状況だと気付いた。私も恥ずかしくなってきたので急いでシャワーの温度を調節して少女の体を洗うことにした。

 体はそうでもないが少女の髪は汚れていて全く泡立たず、何回かシャンプーをつけては流す作業を繰り返した。本当にひどい扱いを受けていたらしい。



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 シャワーを終えると少女には私のTシャツとズボンを適当に履いてもらった。下着は奇跡的に未使用だったセットがあったのでそれも使ってもらった。服はブカブカになっているが、下着の方は問題ないらしい。

 当の本人は目の前で美味しそうに朝ご飯のベーコンエッグを頬張っている。今日は自分が食べてもいいと理解しているようで、二人が食卓についた瞬間に勢いよく食べ始めた。料理が得意という訳ではないが、こうも嬉しそうにされると鼻が高くなってしまう。少女はそのまま適当な食器に入れた白米とレトルトの味噌汁も掻き込み、私よりも圧倒的に早く食べ終えた。


「ご馳走様でした」


 手を合わせて行儀よく呟くと、少女は自分が使った皿をキッチンで洗い始めた。そこまでしなくて良いよと声をかけたが、黙って首を振られた。お礼の一環なのだろうか。

 使った食器を洗い終わった少女はまた食卓に戻ってきて、私の目の前に行儀よく座る。どうやら私が食べ終わるのを待つつもりらしい。しかし私は朝ご飯を摂るのが非常に遅いから、テレビでも見てなと促したところまた首を振られてしまった。飽くまでここで待ちたいらしい。

 20分程かけて朝食を摂り終えると、少女が私の皿をキッチンに持って行った。人の分まで片付けるとは、人がいいのか罪悪感なのか。後者だったら子供にしては気にし過ぎに思う。


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 朝食の後、午前にやるような家事が何時もの半分ほどの時間で終わった。

 洗濯物を干していたら服をハンガーにかけてくれたり、掃除をしていたらテーブルの上を整理してくれたり、少女が手伝ってくれたからだ。

 お礼と称して頭を撫でようとしたが、驚いたのか避けられてしまった。急に触れられるのは苦手なのかも知れない。


 ソファに座りながら暫く少女とテレビを見ながらまったりしていると、ふとこの子について何も知らない事を思い出した。

 テレビをつけてもこの少女についてはおろか、誰かが行方不明になったなんて報道されていないし、この子も何も話さない。言いたくないのだろうけど、はっきり言って不便だ。


「あのさ、幾つか聞きたいことあるんだけど、大丈夫かな」


 思い切って聞いてみると、途端に少女は不安そうな顔になる。やはり言いたくないことがあるのだろう。


「言いたくないことは言わなくて大丈夫。ただ、名前とか知らないと不便だなって。だめならそれでいいよ」


 少女の目の前に移動して、怯えた目を見つめる。焦ってはいけないし、この目を逸らしてはいけない。そうしたらこの子の心は閉じたままだ。

 敵じゃない。危害は加えないんだと伝えるように頬や肩を撫で、次の動作を待つ。


「……うん、ありがとう」


 やがて、少女がゆっくりと確実に頷く。そのことに安堵を覚え、軽く叩くように頭を撫でる。


「じゃあ、名前教えてくれる?」


 少女の隣に座り、黒い瞳を見つめながら一つ質問する。少女も私を真っ直ぐ見つめてくれる。


「……くろは」


 呟く様に答えてくれるのは、信頼の証なのだろう。怯える様子もなく落ち着いて返してくれる。


「くろは、ね。……漢字はどう書くの?」


 もう一つ質問をすると、くろはは近くにあったペンとチラシで名前を書いてくれる。『玄菠』落ち着いた雰囲気のあるいい名前だと思う。


「綺麗でいい名前……ん?どうしたの」


 チラシに書かれた文字を眺めていると、玄菠が何かを言いたそうにしていることに気がついた。


「あの、名前……」

「名前?……あー。私の名前ね、言ってなかったっけ」


 玄菠は何度も忙しなく頷く。これは私に興味を持ってくれたということで良いのだろうか。


「弥、寺峰弥ね。漢字はこう書く」


 そう言って玄菠の名前の隣に私のフルネームを書く。玄菠はその字をまじまじと読む。興味津々といった姿がとても犬っぽい。


 ……犬、犬か。


「クロ」


 私が何を呟いたのか気になったのか目の前のその子はチラシから視線を外して振り返った。何のことだかわからないといった風に首を傾げられる。


「貴女の事。良くない?くろはだからクロ。可愛いと思うんだけど」


 犬っぽくて。とは言わない。本人は自分がそう呼ばれていると理解したのか、何とも言えない微妙な顔をしている。


「今度からそう呼ぶね、クロ」


 呼びかけるとはにかんで頷いた。少し戸惑ってはいるが嫌そうには見えないので、この瞬間からこの子クロ呼びは決まった。次の質問はどうしようか。なるべくこの子の琴線に触れない様にしなければならないし、その琴線自体何処にあるのかよく分かっていない。


「……クロってさ、今何歳なの?」


 彼女の顔が青ざめた。


 なるべく当たり障りのない質問をしたつもりだが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。こんな質問で青ざめるとは、どんな教育を施されていたんだ。いや、単に誘拐犯に教えてはいけないと思ったのかも知れないが、そうなると名前を教える意味が分からない。だが、最初に言ったことが効いたらしく、無言のまま私を見つめている。


「じゃあさ、クロの好きなものとかってある?」


 強引に話を逸らしてそう聞くとクロは首を傾げた。いまいちピンと来ていないようだ。


「ゲームとか、本とか食べ物とかさ、これいいなってなるもの。何かある?」


 なるべくわかりやすくなるようにもう一度問うと、クロは俯いて何かを考える仕草をする。今度は答えられる質問の様だ。


「……卵焼き」


 ポツリと出てきたのは中々可愛らしい言葉。


「卵焼きか、良いね。私は甘いやつ好きなんだけどさ、クロは?」

「甘いの……です」


 どうやら私と好みが同じようだ。明日にでも作ってあげよう。


「そっか、じゃあ明日の朝にでも作ろう」


 すっかり保護者気取りでそう言うとクロは躊躇いがちに頷いた。拾ってから約半日、まだまだ心を許していないということだろうか。


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 それからも幾つか質問をしたが、クロは答えにくそうにしていたのでお昼ご飯を言い訳に中断した。この少女は私が思っていたより秘密があるようだ。住んでる場所や学校なんかは兎も角、年齢も趣味も教えてくれないなんて。何があっても教えてはいけないという態度は、高校の時に担任教師の趣味で習わされたカルト宗教の緘口令を思い起させた。


 そんな緘口令を敷かれた本人は、今度も美味しそうにご飯を頬張っている。

 ただの皿うどんがそんなに美味しいか。と聞きたくなるほど幸福そうで、その顔を見るたびに心臓が握られた様に苦しくなって箸を止めてしまう。この子がボロボロだったのは私の責任ではないのに、昨日の今頃はお互い面識もない赤の他人だったのに、保護者面する立場なんかではないのに、たった24時間前この子が傷ついていたということがもう腹立たしい。今は何も怯えなくていいことを切に願う程に、この子に情が湧いている。

 本当に捨て犬を拾ったような気持ちだ。


______________________________________


 昼食を摂って満腹になったからか、また二人分の食器を洗ったクロはテレビの前で眠そうにしている。瞼が落ちて首が上下したかと思うと、ハッとして目を開ける動作をかれこれ5回は繰り返している。見ていて面白いが、そろそろ違う場所で寝かせないと首を痛めてしまいそうだ。


「ソファで寝ようか」


 そう言って手を引くと、細目を開けて昨日同様すんなりとついてきた。本当はベッドで寝かせてあげたいが、私の部屋は狭いし汚いから無理だ。ソファで横にし、布団をかけてやると安心したように目を閉じる。胎児のように丸まって1分ほどで寝息を立て始めた。


「……可愛い寝顔」


 クロを見ているうちに私の口からそんな言葉が出た。クロは可愛い顔をしている。贔屓目とかそんなものでなく、子犬の様で男女構わず皆から愛されるタイプの美人だ。年齢は知らないが子供のあどけなさが残っていて、失礼かもしれないが何時もの幸薄さが庇護欲を掻き出す。寝ている今はその幸薄さは鳴りを潜めているが、代わりに幼さが引き立っている。

 昨日あそこに通りかかったのが違う男だったら。と思うと薄ら寒くなる。勿論すべての男性がそうだとは思わないが、優しい振りをして後で豹変する人もいる。

 自意識過剰だが、彼女を拾ったのが私で良かった。あの状態でもう一度傷つきでもしたら、この子はきっと死んでしまった。


「今は、ゆっくり寝な」


 私の隣で安心してくれて本当に良かった。


______________________________________


「……ん、んん」


 日がすっかり落ちた頃、昨日の疲れが残っていたのか寝返りの一つも打たずに熟睡していたクロが起き上がって虚空を見つめる。今朝も見た光景だ。


「おはよう」


 料理をしていた手を止めキッチンから声をかけると、クロは目を瞬かせて私を見てからリビングに掛けてある時計を見る。


「……⁉」


 午後7時。彼女が昼寝を始めたのが1時くらいだったから、クロは6時間もの間昼寝をしていたことになる。その事実が余程ショックだったのか、彼女は時計を見上げたまま口を半開きにして固まってしまった。お手本の様に愕然としていて中々に面白い。つい口角が上がってしまう。




「も、申し訳……申し訳ございません!」




 が、直ぐに引き戻された。クロが大声で謝ったからだ。大声といっても五月蝿い程度ではない。だが、呟く様にしか喋らなかったクロにしては些か異常だと思ってしまうくらいには大きかった。


 クロは顔を真っ青にして、キッチンで硬直したままの私に向かってきた。


「わ、私の様な存在がこんな、なに、何もせず、になまけるなど、」


 必死に下を縺れさせながら謝ってくる。殆ど話さない彼女が。知り合って一日しかたたない私にもわかる程異常に謝罪している。たかが寝続けた程度で。


「あ、なんでも、罰、を下さい。こんな不届きもの、に」


 怒りが湧いてくる。「何でも」なんて子供が言う台詞じゃない。やはりこの子は生活環境に異常がある。虐待とか、苛めとか、それをされていた。ここまで怯える程日常的に。溜息が出てしまいそうだ。だが、そんなことしたらこの子は余計怯えてしまうだろう。この子を落ち着かせる方法を、今までに何かあっただろう。この子が何も怖がらない場面が。幸せそうにしていた場面が。




「……取り敢えず、夕飯食べよう。手伝ってくれる?」


 クロは有り得ないものを見るようにして頷いた。


 一応は正解の様だ。クロはチラチラと私を見ながら炊いておいた白米をよそっている。一方の私もクロの視線を受け止めながら焼きあがった魚を皿にのせる。視線は痛いが何とか落ち着いてくれた様で安心した。


「次、これ盛り付けてくれる?」


 コンロの近くに招き寄せて、野菜炒めの入ったフライパンと菜箸を渡すとまだ少し困惑した様子で受け取ってくれた。


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 夕食を食べるとクロの不安は消え去ったようで、焼き魚にポン酢をかけて食べている。どうやら私の予想は当たってくれたようだ。私からこのまま蒸し返さなければ、先程のことは忘れてくれるだろう。

 しかし、先程のクロはすさまじかった。ぽつりぽつりとしか話さなかったこの子が必死になって謝罪するのだから。というか、昼寝をし過ぎて何でもする。なんて大袈裟すぎる。そんなことがあったら私は中学くらいでに親に縁を切られている。


「……その可能性もあるのか」

「?」

「何でもない」


 今までこの子が家出をしていたと思い込んでいたが、この子が親に捨てられた可能性もある。どっちにしろ碌な話ではないが、後者だとしたらきっと親は子供のことを着せ替え人形だと思う屑だ。そうじゃなくても頭はおかしい。

 誘拐した側が言う台詞ではないが、同じような子の誘拐届もないし、こんなかわいい子を蔑ろにするなんてあり得ない。


「美味しい?」


 クロは当然だという風に首を縦に振る。この子が私の隣にいてくれる限り、幸せであってほしい。

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子犬の保護日記 秋登 @kurokku

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