With steps together

月並海

第1話

 水曜日。週の真ん中。山間の地方都市では今日も多くの人々が働いている。街の中心から外れた小高い山の麓には公園がある。公園の端にそこだけ日曜日のような賑わいを見せる場所があった。

 寒空の下には巨大な水槽。それを囲む円形の階段客席に老若男女が主役の登場を今か今かと待っている。

 ステージの開幕を報せるように、軽快な音楽が流れ始める。初めに登場したのはウェットスーツを着た女性だ。

「それでは、イルカと人魚のスペシャルパフォーマンスをお楽しみください!」

 彼女の声が会場に響き渡った直後に大きな水飛沫が上がる。

 飛び上がった二匹のイルカと一人の人魚は水の上で大きな弧を描いて、今度は音もなく着水しそのまま水の中へと潜っていった。

 わあっと歓声が上がりBGMをかき消すほどの拍手があがる。

 次の演技を待つように拍手は次第に小さくなり、BGMの音量も下がっていく。

 水面に上がってきた人魚は水槽からステージに上がった。翠色の鱗が眩しい尾びれは水につけたまま、ステージの縁に座って観客にお辞儀をする。胸に手を当て大きく口を開いた。

 明るく艶やかな歌声が会場内を包む。朗々と歌う彼女の今日の選曲は、定番のアニメ映画の主題歌だ。

 おもむろにドルフィントレーナーが手を上げ笛を吹いた。水底にいたイルカが急上昇を始め水面から飛び出す。それに合わせて人魚も更に力強く歌い上げる。

 華麗な歌声と演技の共演に観客は終始見惚れていた。


◇◇◇


 この国では人魚は人であると同時に、保全対象の生物である。深海で暮らす彼らは未だにその生態に多くの謎を宿し、地上の人間たちとの交流を多く持たない。だから地上に上がってきた人魚は手厚く保護される。

 能美水族館でパフォーマーとして働く彼女、メルクルも国に保護される人魚の一人だ。

「お疲れ様です」

 今日のパフォーマンスを全て終えた人魚が待機室の水槽から顔を出せば、車椅子と共に待機する男が声をかけてきた。

 彼の名前は前田。能美水族館の職員であり、唯一の人魚担当である。

 人魚担当の仕事の説明は容易だ。地上の生活に不便な彼らの身の回りの世話やマネジメント、健康管理を行う。例えば、彼女の移動補助。地面を移動できない彼女はパフォーマンスをする水槽とその反対側にある自室とを車椅子で移動する。それを助けるのが担当の役目だ。

 水槽から上がった彼女に前田は大判のバスタオルを渡す。先ほど乾燥が終わったばかりで温もりが残るそれにメルクルは顔を埋めた。好きだと言った柔軟剤の香りがして頬が緩む。彼は言葉少なだが気遣いのできる"良い人魚担当"だ。

「ありがとう。この柔軟剤の匂い好きです」

「前も言ってましたよね。詰め替え買っておきました」

 洗いざらしのシャツとカーディガンを着たメルクルは彼がやってきた夏の前を思い出す。彼女の肩まで伸びる栗色の癖毛がわがままになる頃、新入社員の彼はやってきた。

「俺、本当はイルカ担当になりたかったんです」

 お互いに自己紹介を終えて、人魚担当の業務を前任者から一通り説明された後のことだ。彼はこの配属が希望ではないことを歯に衣着せぬ物言いで伝えてきた。

 そもそも薄給重労働の水族館職員になる人間が人魚の世話をする業務を希望するはずがない。そういう意味で人魚担当はいわゆるハズレの業務だった。大抵、半年から二年ほどで担当者が変わっていく。ある意味で素直な彼もすぐに変わる担当なんだろうなと、癖毛を指に絡めながら考えたことをメルクルはよく覚えている。

 そんな期間限定の付き合いである前田とメルクルだが、相性は悪くなかった。前田は素直な性格が功を奏してすぐに業務に順応したし、女性で人魚のメルクルへの気遣いがよくできた。メルクルも真摯に対応してくれる前田に少しずつ心を許し、お互いが気持ちよく働けるよう要望を明確に口に出すようにした。お互いにとって思いのほか心地よい環境での仕事は、いつしか二つの季節を越えていた。

 そして二月。冷たくなった空気の通るステージ裏を抜けて、二人は展示スペースを進む。三つ編みに結わえた髪とブランケットに隠した尾びれ、それに薄暗い照明のおかげで、さっきまで見事なアクションと歌声を披露した人魚の存在には誰も気が付かない。目的の水槽には、閉館も近いというのに人だかりができていた。つい十五分前まで一緒に演技をしていたイルカたちが巨大な水槽の中を優雅に泳いでいる。人だかりの外で二人は水槽を眺めていた。

「もうすぐ配置換えの季節ですね、前田さんはもうイルカ担当に希望を出しましたか?」

メルクルは振り返らないままに前田に尋ねる。

「幼い頃からの夢なのでできれば担当してみたいですが、まだ悩んでいます」

 ステージからメルクルの部屋までの短い帰路の間に、イルカを見に来るのがいつしか習慣になっていた。でもそんな毎日ももうふた月ないだろう。四月には例年、担当の配置換えがある。恐らく前田はイルカの担当を希望するはずだ。

「ねえ、前田さん」

 今度は体をよじって、前田の方に向き直り告げる。

「わがまま、聞いてくれませんか。もし聞いてくれるなら、貴方を次のイルカ担当に推薦します」

 突然の申し出に前田は首を傾げる。

「わがまま? 俺が叶えられることなら聞きますけど」

 前田の言葉にメルクルは頷いて答えた。

「私を砂浜へ連れて行ってください」

 そう言ったのと閉館のアナウンスが流れ始めたのは、ほぼ同時だった。


 現在、人魚の尾びれを一時的に二本脚に変身させる新薬の開発が、国家プロジェクトで進行中である。国はこれまでに二度、被験者を募って新薬の投与実験を行っていた。そして第三次の被験者募集がまもなく始まるとのことだった。彼女もそれに応募したのだという。

 彼女の”わがまま”は、二本足になって砂浜に足跡をつけてみたいということだった。

 足を手に入れて最初にやりたいことがそれですか? と前田が尋ねると、馬鹿にされたと思ったのかメルクルは透き通るような白い頬を膨らませた。

「海にいた頃ね、よく通ってた浜があったんです。他の人魚は人間を怖がって近づかないから、私一人でこっそり。子どもとかカップルが多くて、波打ち際を散歩したり座って話し込んだりしているのを見てました。何をするかはみんな違うんですけど、彼らが帰った後は必ず砂浜に足跡が残っていて。私にはそれが、楽しい時間の証みたいに思えたんです」

 昔を思い出しながらメルクルは自らの冷たい下半身を撫でた。

 ブランケットに隠されたその美しい尾びれは多くの人々を魅了する。されど、陸で生きていくと決めた彼女にとっては正真正銘の足枷だろう。

 出口に向かう人の流れに逆らって、前田は車椅子を進める。奥に向かうにつれ暗くなっていく館内は、海の奥深くへと潜っているようだ。

「歩けるの楽しみですか?」

「ええ!」

背後からの問いかけに人魚は弾けんばかりの笑顔と共に大きく頷いた。

「被験者の選考結果は来週の頭にはわかるはずですから、そうしたら館長に外出許可を貰います。予定では投薬実験が今月末で二、三日したら外出許可が出ると思うので来月の最初の週末に出かけるのはどうでしょう?」

 すらすらと予定を話す彼女は頬を赤らめて、さながら幼い少女のようだ。

 楽しくて仕方がないという様子の彼女を見ていると、前田もつられて心が躍った。

「予定空けときますね」

「お願いします! ちゃんと館長には、しっかり前田さんがイルカ担当になれるよう推しておきますから」

「いや、悪いですよ。第一、個人の希望が通るわけ、」

 水族館の奥に位置するメルクル専用の居住スペースまであとドア二枚分というところで、彼女は手を上げた。二人で決めていた止まってほしいという合図だ。

「私のための担当ですよ。私が合わないから変えて欲しいと言えばすぐに変わるはずです」

 伏し目がちに説明する彼女の声を聴きながら、前田は配属前の同期との会話を思い出していた。

「うちの水族館の人魚はわがままで有名らしいぜ。自分の言うこと聞かない担当はすぐに変えさせるって噂。前田も気をつけろよ」

情報通で親切な友人は同期の中でも要領の悪い前田が件の人魚担当になったことを心配してくれていた。幸運にもその心配は杞憂に終わったけど。

 その噂の真実を今突き付けられるのだろうか。

 否応なしに上がる心拍数を感じながら、何か言葉を出そうと前田は乾いた口を開きかけた。が、その甲斐むなしく人魚の言葉が先に前田の耳に届いた。

「ありがとうございました、また明日」

会釈をして、メルクルはゆっくりと車椅子を前進させる。自動ドアは瞬時に開き、そのまま彼女だけを内側に飲み込んだ。

「また、明日」

 業務が終了した前田はもう届かない別れの挨拶を自動ドアの前で呟いた。

 

◇◇◇


 メルクルの”わがまま”を叶える約束をしてから四日後。前田は休日を利用して歯の治療に行っていた。平日の昼過ぎということもありスムーズに治療室に通され処置が終わった。

 歯科医院を出れば時刻は二時半。今から水族館に向かえば三時から始まるメルクルの最終パフォーマンスに間に合いそうだ。

 いつもはステージ脇の待機室から見るか、彼女の部屋の家事をしているので客席から見たことがなかった。

 そろそろ被験者の選考結果がわかると言っていたし、お祝いにケーキでも買って行ったら喜ぶだろうか、とカラフルな菓子に喜ぶ彼女を想像しながら前田はケーキ屋に向かった。


 水族館に着いたのはパフォーマンスが始まる直前だった。お決まりの音楽が聞こえてきて、急ぎ足で目的の場所を目指す。朗々とした歌声が今日はいつもより遠くから聞こえる。

 最後列に空いている座席を見つけて滑り込んだ。膝の上にケーキの入った箱を置く。

 ステージの縁に座った彼女はドルフィントレーナーやイルカと息を合わせてステージを盛り上げる。

 しかし、何か違和感があった。日頃から一緒にいる前田くらいしか分からないだろうが、落ち込んでいる様子を感じた。

 パフォーマンスはいつも通り拍手喝采の中で閉幕し、彼女は水槽へと帰っていった。

 ぞろぞろと館内に戻る人の隙間を縫って待機室へ足を向ける。

 ドアを3回ノックすれば、間が空いて「はい、どうぞ」と小さな返事がした。

「メルクルさん、お疲れ様です」

部屋の中は彼女一人きりだった。人魚担当の代理はどこかへ行ったままらしい。メルクルは全身ずぶ濡れのまま、水槽の縁で水底を見つめていた。

 前田は急いでバスタオルを取って彼女の肩にかけてやる。そうしてやっと、彼女は顔を上げた。

「ありがとうございます。前田さんは今日お休みでは?」

「出かけてたんですけど、実験の結果が今日くらいにわかるって仰っていたので気になって。どうでしたか?」

 彼女の口は開いたけれども声は出てこなかった。それから、言葉を探すような間があった。

 前田はその間で彼女が落ち込んでいる理由を悟った。今日結果が分かると知っていた自分の、あまりに気の回らない発言が恥ずかしくなった。

「メルクルさん、あのっ、」

「落ちちゃいました」

前田の弁解は打ち消された。彼女は笑って落選の報告をした。その笑顔は出かける予定を決めた時とは全く違っていた。

「えへへ、残念ですけどしょうがないですね。折角予定を空けてもらったのにごめんなさい。でも、ちゃんと館長には推薦するので、安心してください」

 努めて明るい声色の彼女は事前に用意していたみたいな言葉を並べる。

 自分が一番悲しいはずなのに他人の心配をする彼女の気遣いが痛くて、前田は彼女に詰め寄る。

 不意に重ねた手は思っていた以上に温度が低かった。

「また次、応募すればいいじゃないですか。俺、その時だって車出しますよ」

メルクルは前田の手が乗った左手を抜いて尾びれの上に乗せた。そうして言葉を否定するように首を横に振った。

「私これで三回目なんです。三回応募して三回とも落ちました。もう、きっと、無理です」

ふるふると首を横に振るたびに、冷たくなった髪から滴が彼女の身体に落ちた。

 前田にはかけるべき言葉が見つからなかった。だって、彼ができることはもう何もないから。慰めも約束も今の彼女にとっては無意味だ。

「わざわざ休日に来てもらって申し訳ないです。でも、今日はもう一人にしてもらえますか」

「……分かりました。また明日」

前田は足早に待機室を出た。そのまま出口に向かって館内を歩く。そこで手に持った土産を思い出した。

 もう食べる気にはなれなくて、仕方なく他の飼育員に差し入れをしようと踵を返す。

「おう前田」

出会ったのはペンギン担当の先輩だった。彼は前任の人魚担当でもある。

「お疲れ様です先輩」

「どうした? 情けない面してんじゃん。コーヒーでも飲んでくか? 土産、あるんだろ」

 そう言って先輩は前田の右手を示した。


 休憩室は閑散としていた。二人は四人席に座った。

「先輩、メルクルさんが気に入らない担当はすぐに変えさせるって本当ですか?」

「ぶっ……!?」

 席に着くなり始まった後輩の話に、先輩は危うくコーヒーを吹きそうになる。

「そんな噂あるの……」

 前田に渡された紙ナプキンで口を拭きながら先輩はうーんと困ったような声を出す。

「前田はさ、その噂本当だと思う?」

「俺はメルクルさんと半年一緒にいて、自分の都合を他の人に押し付けるような人ではないと思いました。噂は根も葉もない嘘だと思います」

 まっすぐに先輩を見据えて前田は答えた。すると、先輩は満足そうに頷いて

「うん、俺もそう思う。てかその話知らなかったけど完全に尾ひれついてるよね」

と言われて、前田はほっと胸を撫でおろす。前任の先輩がこういうのだから全くのデタラメなのだろう。では、どうして噂がたったのか? 前田が思考を巡らす前に先輩が話を始めた。

「彼女、折角水族館の職員になれたのに人魚担当だなんて可哀想って言うんだよね。それで配置換えの時期になると、必ず館長に口添えするんだよ。早めに希望の担当に変えてあげてほしいって。それで人魚担当になった職員は早めに配置換えするから、嫌な噂になっちゃったんじゃないかな」

 いるよなあ余計なことしか言わないやつ、と先輩はケーキを食べコーヒーをすする。

 順調に食べられていく先輩のケーキに反して、前田のケーキは頂点が削れた程度だった。もう生クリームは喉を通らなくて、代わりに食べてほしい人のことばかり考えてしまう。

 手の止まった前田を見ながら先輩は残してあった苺を口に入れた。

「前田は彼女に何かしてあげたいんじゃないの?」

 相談料はそのケーキでいいよ、なんて先輩はニッと笑った。

 前田は待機室を出てきたのと同じスピードで席を立ちあがる。

「ありがとうございました!お先に失礼します!」

「おう、頑張れよ」

 お辞儀をして前田はそそくさと休憩室を出ていく。1人残った先輩は2ピースめのケーキを食べるためのコーヒーを取りに立ち上がった。


◇◇◇


 次の水曜日の朝はひどく冷え込んだ。メルクルは掛布団から飛び出してしまった尾びれをいそいそと中に仕舞う。寝ぼけ眼で時計を確認すれば短針は数字の5を過ぎたところだった。

 もうひと眠りしようかと微睡んでいたその時、ノックの音が耳に入ってきた。

 最初は空耳かと思って無視をしたが、同じリズムでドアがノックされる。

 こんな時間に誰だ。今は警備員か自分しか水族館にはいないはず、と恐怖を滲ませながらメルクルは身体を起こす。布団が守っていた暖かさは途端に宙に放たれて残ったのは身を切るような朝の冷たさだ。

 尾びれを引きずって車椅子に乗り、ドアまで車輪を回す。

「誰ですか」

恐る恐るドアの向こうに話しかけると返ってきた声は意外なものだった。

「おはようございます前田です。すみませんこんな早朝に」

「前田さん……!?」

急いで開けたドアの先にいた人魚担当はいつもの作業服ではなく、コート、マフラーという防寒装備だ。

「連れていきたいところがあります」

そう言うと、彼は車椅子の前に片膝をついた。

「えっ、……今からですか?」

「はい、あまり時間がありません。車椅子だと動きずらいと思うので俺が連れていきます、いいですか?」

 黒々とした瞳がメルクルの薄茶の瞳を見つめる。律儀な彼は海に連れて行ってくれるというのだろうか。仕事でもない、こんな朝早くに。

「今から海に行っては始業に間に合いませんよ。大丈夫です、ちゃんと館長には口添えしますっ、」

「海じゃありません。山です」

「はっ……?」

「もう本当に時間がないので失礼しますね」

「えっ! まってっ!」

メルクルの制止の声も空しく、前田は手に持っていた男物の上着を彼女にかけると車椅子から抱き上げた。

 そのまま、駆け足ギリギリの速さで駐車場に向かう。

「私寒いんですけど!」

「車の中にありったけの毛布を用意しています。それで我慢してください」

 前田は駐車場に一台だけ停まった軽自動車に直進する。空は白んできて、もうすぐ朝が来ることを知らせている。身を切るような寒さが尾びれにまとわりつくが、上半身は前田のくれた上着と接する体温で思っていたよりは温かかった。

 キーの操作で後部座席のドアが自動で開く。中には彼の言う通り山のように毛布が積まれていた。

「降ろしますね」

 車椅子から抱き上げた時の勢いとは反対に、今度は出来るだけ丁寧にメルクルを毛布の上に座らせる。

「毛布全部使えば多少は寒さがしのげると思うので。今暖房付けます」

 忙しくドアを閉め、前田は運転席に乗りすぐに暖房をつけた。ぶわぁっと温い風が車内に吹き始める。

「出発します」

風が温かくなるのを待たずに車は出発した。

 駐車場を出て少し道路を走ればすぐに山道への入り口が見えてくる。毛布に包まりながら、彼女は珍しい風景を眺めていた。外出するときはほとんど街の方に行くし、そもそもその機会が少ない。だから住んでいるところの裏手とはいえ、見るもの全てが新鮮に感じる。

 車内は暖房だけが音を発している。前田は出来る限り早く目的地に着きたいという思いから運転に集中しているし、メルクルも何を話していいか分からなかった。

 数分の無言の後、車はスピードを緩め始めた。そこは展望台のような場所らしかった。

「ここです」

 心なしか安心した声の前田は後部座席と助手席を開ける。途端に寒気がメルクルの顔にぶつかってきた。寒いのも当然である。だって外は見る限りの雪景色なのだから。

「わあ……、雪……」

海にいた頃も陸に上がってからもほとんど見たことのない雪に胸を高鳴らせる。

「触ってみますか?」

「いいんですか?」

「もちろん、でもその前に」

と前田は助手席から何かを取る。

「俺にはあなたを歩けるようにすることはできないですし、今は砂浜に連れていくことも出来ません。でも、」

そう言って手渡されたのは、紺色のハイヒールとエナメルのバレーシューズ、それに厚底のスニーカーだった。それも、全部片方だけ。

「これ」

いきなり渡された靴にキョトンとする彼女を見て、前田は口元に笑みを浮かべる。

「砂浜を歩くときの予行演習をしませんか」

つまり、履かれる予定のない靴たちで雪に足跡もどきをつけてみよう、と前田は言っているらしい。おままごとみたいだとメルクルは思った。でもそれと同時に試してみたくなった。まっさらな雪の上に足跡をつけてみたいと思った。

 コクリと頷く彼女を前田は数枚の毛布とまとめて抱き上げた。

 そのまま振り返り、しゃがむ。ちょうどメルクルが手を伸ばせば雪に触れるくらいの高さだ。

 メルクルは、抱えた靴の中からバレエシューズを手に取る。

 バレエシューズは柔らかい白を押しのけて、不格好な三日月模様を残した。

ハイヒール、スニーカーの底も並ぶように雪に押し付ける。

 それぞれ特徴的な片足だけの足跡ができた。

「どうですか?」

緊張がちに前田が尋ねる。

 腕の中の人魚はそうね、とゆっくり間を置いてから口を開いた。

「決してこれは自分の足跡ではないけれど、来年はきっとこの靴を履いて雪の上を歩いてみたいと思います」

 彼女はそう言うと、抱えた靴を大事そうに抱きしめた。

 展望台の向こうには山とそこから顔を出しそうな太陽が見える。あと数分もすれば、日の出だろう。


 展望台を出発する頃にやっと山から朝日が顔を出した。

 容赦なく車内に降り注ぐ陽光が薄暗さに慣れた目にはちょっときつい。

 反射的に目をつむれば、想定外の早起きだったからか段々と瞼が重くなってくる。

「そういえば、メルクルさん」

「はい……?」

 安全運転で坂道を走る前田の声が落ちていく意識を引き寄せてくれた。

「館長に推薦とかしなくていいので。俺、配属希望人魚担当で出しましたから」

 それだけ言って、彼は暖房の風量を上げた。

 車内にはまた来た時と同じように、風の音だけが響く。

 メルクルは太陽の眩しさからも逃げるように毛布の下に潜り込んだ。


 いつもより少しだけ長い1日が始まる。

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