誕生日への手紙
伊藤紗凪
誕生日への手紙
いつもと同じ時間に僕は部屋の扉をノックした。部屋の主の返事を聞いて、静かに扉を開ける。
日曜日以外の日は、いつも同じ。
もう半年くらいは経った。
部屋に入って、整理するものがあったら整理して、少し落ち着いたらいつもの椅子に座る。
やっと、ゆっくり話せる。
大好きなその人はいつも僕を笑顔で迎えてくれる。その笑顔が嬉しい。
だから、願わずにはいられない。
……早く、病室以外で会いたいと。
*******
「そりゃ私人参嫌いだよ。できれば食べたくないよ。だからって人参スープはひどいよ!ユウくんもそう思わない!?」
「そうかな?栄養あるんだし、好き嫌いはだめだよ」
「もう、ユウくんったら!」
好き嫌いが少し多いこの人は、ほぼ毎日食事の文句を僕に伝える。
彼女、佐々木ちえは僕より三つ年上の近所のお姉さん。いわゆる幼なじみ。ホントなら今頃高校に通う十六歳。けど今は病気を患っていて入院をしている。
どういう病気かは知らない。教えてほしいって言ったとき「大丈夫、すぐ治るから」とごまかされたことがあった。
言いたくないのなら、無理に聞けない。時間はかかっても、きっと治ってまた外で会えると僕は信じることにした。
「ねえユウくん、学校は大丈夫なの?毎日来てくれるけど、ちゃんと勉強してる?」
「大丈夫だよ。家でやれてるから」
「ふーん、ならいいんだけど……」
その点にぬかりはない。ちえちゃんは昔から僕のことを心配してくれる。僕は心配の理由にならないため、勉強は頑張ってしている。なんだけど、あまり信じてもらえてなさそうで、少しだけ凹む。
「ちゃんとしてるならいいけど、もしテストの成績下がったらダメだからね!私怒るよ?」
「分かった。じゃあ良い成績取って、見せてあげるよ」
「ほんと!じゃあ楽しみにしてる!」
……やってしまった。中レベルくらいの僕が良い成績って、どの位目指せばいいんだ?とはいえ、ちえちゃんが喜んでくれるなら、今以上に頑張らないと。……睡眠時間、少し減らそうかな?なんて思ってしまう。
他愛もない話をして、気付くともう二時間経っていた。残念だけど、タイムリミット。
「じゃあ、僕は帰るね」
「うん、今日もありがと!」
「好き嫌いせず、ちゃんと食べるんだよ」
「えー」
「はは。……ばいばい」
「うん。ばいばい」
いつものように返事を交わして、僕は静かに病室から出た。このタイミングが一番寂しい。けど、それは当たり前なんだ。病室で会うことが当然なわけない。だから、僕はちえちゃんの退院を願いながら、帰路につく。
*******
「今日はどう?」
今日もまたいつもと同じ時間に病室に来た。
「ん、とっても気分いいの!今日はしっかり食べられたよ!」
「そうなんだ!じゃあ、人参もちゃんとに食べた?」
「……」
「あからさまに目を逸らさないで」
少し苦笑いしてしまった。やっぱり、人参はだめなのかな。
話す内容は本当に他愛もないことばかり。それを二時間近く、ほぼ毎日。
僕は、ちえちゃんが好きだから、毎日でも会いたくて。でも頻繁にお見舞いに行くのは迷惑かなと思ったこともあった。一度それとなく聞いてみたら、もっと来て欲しいとお願いされたことがあった。大好きな子にそう言われたのなら、そうしちゃうよ。
こうして僕はほぼ毎日学校が終わっては来て、こうしてちえちゃんと話をする生活を送っている。
「ユウくんと話してると、ホントに楽しいな」
「そう?」
「うん!だって、いつも誰もいないし、先生が来ても診察だけだし、お父さんとお母さんだって色々忙しいし。毎日退屈だよ」
「そりゃそうだよね」
「だから、こうやってユウくんと話せて嬉しいよ」
そう言ったちえちゃんの顔を見て、目を逸らしてしまった。満面の笑みで言われて、それを直視できるほど、僕は器用じゃない。少し、恥ずかしい。
僕は、ちえちゃんが好きなんだな。分かってることだけど、その笑顔を見ると、改めて感じる。
「ユウくん、もうそろそろ時間だけど、大丈夫?」
「え?もうこんな時間か。……じゃあ、今日はもう帰るね」
「うん」
一瞬見たちえちゃんの顔が、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「ねえ、ユウくん」
「どうしたの?」
「また、来てね」
「うん、いつでも行くよ」
なんでもないやり取り。だけど、僕はこれに細やかな幸せを感じた。
*******
「わ!綺麗なお花だね!」
「この間来た時、花瓶に何も無かったからね。少ないけど、無いよりはマシかなって思って」
病院に行く途中花屋に寄った。ちえちゃんに話したように、病室には花瓶はあるけど、肝心の花が無かった。なので、たまには見たいかなと思って買ってみたのだ。もちろん、喜ぶ顔が見たかったからでもあるけど、それは言わない。
とはいえ、中学生の少ない小遣いじゃ盛大なのは買えず、彩りも単調になってしまった。でもちえちゃんは僕の予想以上に喜んでくれて、嬉し恥ずかしい気持ちになった。
「はい。ここに置いとくから」
「うん、ありがと!」
窓際にそっと花瓶を置いた。窓はベッドの横にあり、ちえちゃんの視線からは真横よりやや斜めの位置にある。これなら少しは見やすいかなと思った。
「……いつまで、見てるの?」
「だって、綺麗だし、すごく嬉しいの」
そう言いながらも、目はずっと花を見ていた。決して大したものじゃない。お見舞いの花にしてはむしろ寂しい方かもしれない。なのにすごく嬉しそうに花を眺めていた。
そんなちえちゃんを見て、僕はちょっとだけ後悔した。もっといい花を買えばよかった、と。そしたらもっと喜んでくれたのかもしれない。
今日はいつもより会話が少なかった。少し途切れたと思ったら、ちえちゃんは花を見て、僕がまた話を振って、また区切りがつくと花を見て、の繰り返し。
でも、花を見るちえちゃんの横顔は可愛かった。だから、その事に不満は無かった。
次はもっといい花を買おう。そう思いながら、病室を後にした。
*******
「……」
今日は非常に困った。ノック後の返事が妙に素っ気なくて、いざ入ってみると明らかに不機嫌そうな顔で迎えられた。
話しかけても顔を膨らませたままで、未だに話してくれない。
何か悪いことしたかな?別に今日は遅かったわけでも無いし。考えるけど、何も思い当たらない。
「えっとさ、何か、あった?」
「……かった」
「へ?」
微かに出た声はとても聞きにくくて、自分でも変だと思う返しをしてしまった。
「痛かったの!」
「痛、かった?」
「あのね、今日の注射ね、すごく痛かったの!もう泣きそう!というか泣いたの!そのくらい痛かったの!いつもはこんなに痛くないのに、今日のはものすごく痛かったの!未だにジンジンするんだよ!もう、納得出来ない!」
何かの突っ掛かりが取れたのか、ちえちゃんは涙目で声を荒げて僕に訴えてきた。
……正直、何をどう言えばいいのか分からない。高校生で注射痛くて泣くなんて。いや、注射好きな人なんていないし、僕も注射は嫌いだ。けどこんなに泣くものなのか。
「ねえ聞いてるユウくん!あ、もしかして呆れてるでしょ!?」
「いや、そんなことは」
「ひどい!ユウくんなら私のこと慰めてくれると思ったのに!もう怒る!私怒るからね!」
「そ、そんな!ご、ごめんちえちゃん!えっと、慰めるから!」
「ぶー」
「リアルでぶーって言うなんて!」
どうしよう、こうなったら僕じゃどうしようにもならない。滅多に怒ったりしないから、いざこうなるとどうしていいか分からない。思えば小さいころあたふたして、僕も半泣きになってたような。
「えっと、何か買ってあげるから、その、もう落ち着こ」
「……」
もうこうなったら餌付けだ!他に手が思いつかない!
「じゃあ、駅前のケーキ屋さんの限定レアチーズケーキ」
「もう売ってないよ!?というか学校行ってたんじゃ買えないよ!?」
「ひどい!ぶー!」
「またぶー言ったー!!」
そんな感じで今日は終わった。
……内心楽しかったことは内緒。
心配されていたテストは無事終わった。結果はまあまあ良かったと思っている。時間見つけて勉強した甲斐があったな。けどその代わり、それを言い合える友達が減ってしまった。
理由は分かっていた。ちえちゃんとの時間を優先するため、友達付き合いを後回しにしていた。休み時間みんなの話の輪に入らず勉強してれば当然だと思う。
始めの頃はみんな声を掛けてくれていたけど、僕はそれを断って勉強していた。表向きの理由は親がうるさく言ってるから、とごまかしていたけれど、理由なんてどうでもよかったのかもしれない。結果的に話の輪に入らなくなった同級生は、自然と外されていった。
寂しさが無いと言ったら嘘になる。ちょっと迷いもした。でも、今は好きな人のことを想っていたいから。そう思うと頑張れた。
心の何処かで、ちえちゃんを言い訳にしているような気もした。けど必死に考えを捨ててきた。僕は自分の弱さに向き合えるほど、強くなかった。
*******
また病室に来た。ただ、今日は朝から緊張していた。その緊張は病室の扉の前に着いた時、最高潮になっていた。
心臓がドキドキする。こんなに緊張しているのは久しぶりだ。ノックしようとする手が重い。普段だったら当たり前にしていたノックが、今日は簡単にできない。
一度深呼吸をする。ゆっくり吸って、吐いて。意を決して、少し強めにノックした。
「はーい。どうぞ」
いつもの元気な声が聞こえた。その時僕の脳みそに響くくらい心臓の鼓動が早く、強くなった。息が詰まる。喉が乾く。扉を開こうとする手が重く、震えている。でも、今更逃げられない。ゆっくり、扉を開いた。
「?ユウくんどうしたの?」
開口早々、不思議に思われた。そのくらい表情が硬かったのかもしれない。
ただ、ちえちゃんの顔を見たら、それまでの緊張が吹き飛んだ気がした。自分のやるべきことを、無理に意識することなく、本当に自然に。
「あの、これ!」
「え?すごい!え?え!?」
目の前に出したのは、大きな花束。この間買ってきた花とは違う、色とりどりで、たくさんの花がまとまったもの。
「誕生日おめでとう!」
そう、今日はちえちゃんの誕生日。
「ありがとう!すごい、こんな花束もらったの初めて……」
「それと、ね」
僕は袋に入っていた箱を取り出して、ベッドの横に置かれた小さなテーブルに置いた。
「開けても、良い?」
「うん」
ちえちゃんがゆっくり丁寧に箱を開ける。その様子を見ると、さっきの緊張が蘇ってくる。
「……これ、駅前のお店の、限定レアチーズケーキ。これ、買えないんじゃ?」
「特別に、予約したんだ」
そう、今日の為にお店にお願いして、用意してもらった。限定だから、本当は予約なんてしてないんだけど、事情を話したら、特別に、と。
ちょっと無理をしたなと思うけど、今回くらいは大目に見てほしい。
ちなみに、病院にはちゃんと許可を取った。誕生日だから特別、と許してくれた。誕生日最高だよ。
「ありがとう。すごく嬉しい!」
「良かった。さあ、食べてよ」
「うん!あ、ユウくんも食べよ!」
一緒にケーキを食べながら、いつもの様に他愛もない話をした。ケーキは美味しかった。それ以上に、ケーキを美味しそうに食べるちえちゃんを見るのが、すごく幸せに思えた。
少し日が傾いてきた。ケーキも食べ終わって、ある程度会話も落ち着いてきた。
「……ユウくん、今日はありがと。すごく嬉しかったよ」
「僕も嬉しいよ。……そういえば、今日おじさんとおばさんは?」
「二人とも来てくれたよ。お母さんは朝と、あと三時くらいに来てくれたの。お父さんはお昼に。お父さんね、お昼ごはんも食べずに来たんだって!笑っちゃったよ。でも、嬉しかった」
「そう」
おじさんもおばさんも、ちえちゃんのことが大好きなんだな。二人の気持ちがすごく伝わる。
……だからというわけじゃないけど、僕は、頑張んなきゃいけない。
「ちえちゃん」
「?何?」
「改めて、今日はお誕生日おめでとう」
「うん、ありがと!」
「……」
「どうしたの?」
「……僕、ね、……ちえちゃんのことが、好きなんだ」
「……」
……僕の気持ち。ずっと抱えていた想い。
今日、言いたかった。大好きな人が生まれた、この日に。
「病気治って、退院したら、……僕と、付き合ってほしい」
最後は、顔を逸らした。恥ずかしさじゃなくて、胸がいっぱいで。
「……」
ちえちゃんは、まだ何も言わない。この沈黙が、怖かった。
「ユウくん、ありがと。嬉しいよ」
「ち」
「でも、ごめんね」
……どういう、こと?
……すぐに、理解できなかった。思考が回らない。視界がぐらつく。
「ユウくんは大好きだし、大事。でも私にとって、弟みたいな子だから。恋愛じゃ、ないんだ。だから、付き合えないよ」
息が苦しい。手が震える。身体が動かない。考えもまとまらない。
「……もし辛いなら、今日はもう帰って」
……ちえちゃんの目を見た!でも、見た瞬間、何も言えなくなった。
ちえちゃんも、苦しそうだったから。
だから僕は、何も言えず、立ち上がって、重い足を頑張って動かして、扉まで行った。
「……ユウくん」
「……なに?」
「また、来て欲しい」
……辛いお願いだった。
「お願い、お姉ちゃんのわがまま、聞いて欲しい」
「……うん。また、来る」
返事は聞かなかった。聞けなかった。
病院を出た後、僕は走った。どこに向かうわけでもなく、とにかく走った。
走った先は公園だった。小さいころ、一緒に遊んだことがある。
それを思い出したら、涙が溢れ出てきた。
その場にしゃがみこんで、泣き叫んだ。
ちえちゃんの想いの分だけ、涙が止まらない。
好き。大好き。気持ちが溢れる。溢れる気持ちが、涙になる。
僕は、ただの年下の幼なじみでしかなかった。
浮かれてた。何も見ていなかった。
大好きな人の気持ちなんて、何も分かっていなかった。
何もかもが悔しくて、苦しくて、辛くて、泣いたって何も変わらないのに、でも涙が止まらない。
止まらないことが、どうしようもないくらい、僕はちえちゃんのことが大好きだって思い知って……。
大好きだから、今、この現実が辛くて。
好きじゃ、だめだった。
僕じゃ、だめだった。
*******
翌日、足取りが重かった。会いに行くのが、辛かった。
でも、ちえちゃんは来て欲しいと言っていた。だったらそれに応えるため、気持ちを抑えこんだ。
あの日以降も、変わらず僕を笑顔で迎えてくれた。だから頑張って他愛もない話をした。
早く元気になってほしい。
……でも元気になったら、ちえちゃんは離れていくのかな。
最低な不安だ。分かっていても、その不安を止めることができなかった。
*******
いつもの様に病院へ向かった。けど。
「面会、謝絶?」
「はい、申し訳ありませんが、ご家族以外は」
……どういうこと?この間まで、普通に話せていたのに。なんで?
分からない。何も理解できない。
「ゆう君?」
「……おばさん?」
混乱して待合室の椅子に座ろうとしたとき、聞き慣れた声がした。それはちえちゃんのお母さんだった。
「……今日も、来てくれてたんだね」
「……はい」
おばさんの顔はすごく辛そうで、苦しそうで。
何か、感じるものはあった。でも、同時に理解したくない気持ちが湧き上がった。
「……ゆう君には、ちゃんと話さないといけないわね」
「……分かり、ました」
分かりたくない。怖い。嫌だ。
でも、聞かなければならない。そう思った。
病院の中庭まで移動した。周囲には誰もいない。ゆっくり話すにはちょうどいいのかもしれない。
中庭のベンチに腰をおろして、おばさんは静かに息を整えた。
「……ちえは、もう長くないの」
意を決して発した言葉は、すぐには信じられなかった。
「入院して暫く経った時に、先生に言われたの。日本では珍しい病気でね。手術しても、成功する確率はすごく低いの。あと、数ヶ月が限界だって」
嘘だ。嫌だ。そんなの、信じたくない。
「最近までは症状が安定してて元気だったんだけど、昨日急に悪くなったの。……先生からは、覚悟してくださいって、言われたわ」
何も、言えない。言葉が、思いつかない。
「ゆう君には、本当に感謝してるわ。ちえは、いつもあなたが来てくれたことの話をしてくれた。たぶん、あなたが来てくれたことがとても楽しかったんだと思う」
嫌だ。そんなこと、聞きたくない。それじゃまるで。
「だから、ゆう君、あなたも覚悟して」
「!」
「それと、もう、ちえに会わせることはできないわ」
「え……」
「お願い、もう、時間がないの。せめて、私達が、いたいの」
言いながら、おばさんは泣いていた。
僕は、やっぱり馬鹿だった。一番つらいのは、ちえちゃんのご両親なのに。僕は、何も分からずにいた。
「分かりました。僕は大丈夫です。だから、ちえちゃんを大事にしてください」
強がりだったと思う。でもそうしないと、僕も耐え切れなかった。
それから、僕は病院へ行くのをやめた。
辛かった。けど、そうするしかなかった。
十日後、ちえちゃんは亡くなった。
それから暫くの間、無気力だったと思う。でも、ちえちゃんを言い訳にしたくなかったから、表面上は頑張ってみた。
ただ、何のために頑張ってるのか、分からなくなるときもあった。
時間は、残酷だった。どんなに悲しく辛い気持ちを持っても、無情に過ぎ去っていく。
同時に、優しかった。止まることがないから、歩くことができた。
*******
月日が流れて、ちえちゃんの年齢を追い越して、気付くと二十歳の誕生日を迎えていた。
なんだか、色んな後悔を抱えたまま大人になった気がした。
そうして今日、僕は彼女のお墓に来ていた。
お線香をあげて、手を合わせて。
このままじゃ辛くなるな。そう思って帰ろうとした時、懐かしい人を見つけた。
「おばさん?」
「ゆうくん!?」
そう、ちえちゃんのお母さんだった。
「良かった。ここにいたのね」
「え?」
どういうこと?けど僕の理解が追いつく前に、おばさんはバッグからあるものを出した。
それは、一つの手紙。
「ちえからよ」
「ちえちゃん、から?」
「そう、生前、あなたへ書いたもの。二十歳の日に、渡してって頼まれたの」
どういうこと?ちえちゃんが、僕の二十歳の日に?なぜ?
全く分からなかった。
「これを読むかは、あなたが考える事。私が言えるのは、それだけよ」
「……ありがとうございます」
僕は静かに、震える手でその手紙を受け取った。
誰もいない家の、僕の部屋。ベッドに腰を掛けて、手紙の封筒を見つめる。
正直、見るのが怖い。
でも、ちえちゃんが二十歳の僕に遺した手紙。
今読まなければ、一生後悔する気がした。
恐る恐る、僕は封を切った。
『ユウくんへ。この手紙を読むということは、私はもういません。だから、この手紙を書きました。
実は、私はもう長くなくて、手術しても治る可能性が低いっていうのを知っていました。でも、ユウくんには言えませんでした。言うと、きっとユウくんは傷付く気がしたからです。隠してて、ごめんなさい。この手紙は、私の謝罪と、ユウくんへの感謝を遺したいと思い書きました。もし奇跡が起こって私が生き延びれたなら、この手紙は破り捨てます。ふふ、私らしいでしょ?でも、ユウくんがここまで読んでるのなら、きっと私はだめだったんだと思います。ユウくん、いつもお見舞いに来てくれて、ありがとう。寂しかった私にいつも元気をくれたのはユウくんです。ユウくんがいたから辛い闘病生活も頑張ることができました。
けど、ユウくんの大切な時間を私に使わせてしまって、ごめんなさい。本当はもっと色んな事をしたかったんだと思います。なのに私のことを考えてくれて。私はユウくんに甘えていました。私はお姉ちゃん失格だなって思います。でも、どうしても嬉しさを抑えることができませんでした。だから、私は残り少ない人生を、甘えることにしました。甘えさせてくれてありがとう。甘えを許してくれたのは、誰でもないユウくんです。本当に、心から感謝してます』
一文字ずつ丁寧に書いてあって、ちえちゃんらしさが出ていた。
僕はこみ上げるものを堪えつつ、一枚目を後ろにやり、二枚目に目を通した。
二枚目に書いてあった言葉は、簡潔だった。
『次の紙に書くことは、もしかしたらユウくんを傷付けるかもしれません。もし辛いと思うなら、もうこの手紙は閉まってください。書いておいてワガママですが、私はこれ以上ユウくんを傷付けたくないです』
……少し目を閉じて、僕は次のページを読むことにした。
静かに、紙を移した。
『ここから先を読んでくれることを、喜んでいいのか分かりません。でも、偽りない私の気持ちを書きます。
私は、ユウくんのことが大好きです。お姉ちゃんとしてではありません。一人の女の子として、ユウくんに恋をしています。
ずっと昔から、あなたのことが大好きです。私の誕生日、私を好きって言ってくれた時、あの日、私はユウくんから幸せをもらいました。だって、大好きな人が、好きって言ってくれたんです。信じられませんでした。でも、ユウくんの目は真剣で。だから、私は信じることができました。本当は泣きそうなくらい嬉しくて、それくらい幸せだったんだよ。
でも、大好きだからこそ、私は諦めるしかなかったの。
だって、私、死んじゃうんだよ?そんな人が、ユウくんを好きって言っていいわけ、ないよね?ユウくんはこれからもっともっと幸せになるべき人なのに、私が縛ったら、だめなんだよ。だから、私は耐えたの。頑張ったんだよ。
でも、ユウくんが帰ったあと、涙を堪えることができなかった。私は、自分が大好きな人を、私を好きって言ってくれた人を、傷付けたの。こんなの、許されるわけないよね。でも、辛かった。どうしようもないくらい辛かった。なんで私死んじゃうの?どうしてこんな病気になったの?なんでユウくんと一緒にいられないの?何もかもが辛くて。でも、それでもユウくんには会いたかった。だから、ワガママを言ったの。ごめんね、私のワガママで苦しめて。
でも、もう一つだけワガママを言わせて。
これからユウくんは、違う出会いがあって、私じゃない人が隣にいることがあるんだよね?そんなの、嫌だよ。なんで私じゃないの?ユウくんを好きなのは私なんだよ?私が隣にいたいよ!ユウくんの恋人になって、結婚して、ユウくんと幸せな家族になりたかったの。なのに、なんで叶わないの?ほかの人がそうなるなんて、やだよ。私の好きな人を取らないで。私が、私が大好きなの!なんで神様は残酷なの?私は恋したらだめだったの?ねえ、ユウくん、私、もうどうしようもないくらいあなたが大好きなの。やだよ、死んじゃう私が縛ったらだめなのに、ほかの人と幸せになるユウくんを、祝えないよ。私が、隣にいたいの。やだよ、やだよ、やだよ!ユウくん、大好きだよ!
これを読んでいるユウくんへ。本当にごめんね。私、ユウくんを傷付けてばかりだよね。大好きな人の幸せを願えないなんて、最低だなって思う。だから、この手紙は私のワガママなの。これは、ユウくんの為に遺したんじゃないの。私自身のためなの。ユウくんを傷付けて、そうやって私が生きてあなたを愛した証にしたいの
でも、やっぱりユウくんには幸せになってほしい。もし今の願いが叶うなら、私の恋を知った上で、あなたに幸せになって欲しいです
ユウくんへ。私、佐々木ちえは、あなたを、心から愛しています』
涙が止まらなかった。僕は、本当に大馬鹿野郎だった。大好きな人の本当の気持ちに、何も気付けなかった。
僕はその日ずっと、手紙の前で泣いていた。
*******
僕は十年振りに、彼女の前に来た。これまで一度も訪れなかったのは、僕なりのけじめだった。
「ちえちゃん、今までこれなくて、ごめんね。正直辛かったけど、その辛さが、必要だった気がしたんだ。……実は、僕、結婚することにしたんだ。都合のいい言い方をすると、僕は君への気持ちを忘れてはいない。忘れない上で、結婚することにしたんだ。今まで出会って付き合った人、何人かいたよ。でも、うまくいかなかった。でも、今の彼女は違ったんだ。ちえちゃんのことを話して、ちえちゃんへの想いを打ち明けても、認めてくれて、支えてくれて、僕を好きでいてくれた。だから、僕は彼女を幸せに、……違うね、一緒に幸せになりたいって思えたんだ。……僕のお嫁さんはちえちゃんが決めたみたいだね。そう考えるのは、勝手かな?ちえちゃんは怒るかな?ヤキモチは焼きそうだね。分かってるよ。でも、そういうの全部受け止めるから。だから、僕を信じて」
……一方的だったな。でも、お互い昔からそうなんだ。だから、僕らはこれでいいんだと思う。
僕は帰ることにした。今度は、彼女と一緒に訪れると誓って。
一瞬、優しい風が吹いた。
それはちえちゃんの声のような気がして。
気のせいかもしれない。でも、僕には聞こえたんだ。
『大丈夫だよ』
誕生日への手紙 伊藤紗凪 @sana_ito
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