誕生日への手紙

伊藤紗凪

誕生日への手紙

 いつもと同じ時間に僕は部屋の扉をノックした。部屋の主の返事を聞いて、静かに扉を開ける。

 日曜日以外の日は、いつも同じ。

 もう半年くらいは経った。

 部屋に入って、整理するものがあったら整理して、少し落ち着いたらいつもの椅子に座る。

 やっと、ゆっくり話せる。

 大好きなその人はいつも僕を笑顔で迎えてくれる。その笑顔が嬉しい。

 だから、願わずにはいられない。

 ……早く、病室以外で会いたいと。


*******


「そりゃ私人参嫌いだよ。できれば食べたくないよ。だからって人参スープはひどいよ!ユウくんもそう思わない!?」

「そうかな?栄養あるんだし、好き嫌いはだめだよ」

「もう、ユウくんったら!」


 好き嫌いが少し多いこの人は、ほぼ毎日食事の文句を僕に伝える。

 彼女、佐々木ちえは僕より三つ年上の近所のお姉さん。いわゆる幼なじみ。ホントなら今頃高校に通う十六歳。けど今は病気を患っていて入院をしている。

 どういう病気かは知らない。教えてほしいって言ったとき「大丈夫、すぐ治るから」とごまかされたことがあった。

 言いたくないのなら、無理に聞けない。時間はかかっても、きっと治ってまた外で会えると僕は信じることにした。


「ねえユウくん、学校は大丈夫なの?毎日来てくれるけど、ちゃんと勉強してる?」

「大丈夫だよ。家でやれてるから」

「ふーん、ならいいんだけど……」


 その点にぬかりはない。ちえちゃんは昔から僕のことを心配してくれる。僕は心配の理由にならないため、勉強は頑張ってしている。なんだけど、あまり信じてもらえてなさそうで、少しだけ凹む。


「ちゃんとしてるならいいけど、もしテストの成績下がったらダメだからね!私怒るよ?」

「分かった。じゃあ良い成績取って、見せてあげるよ」

「ほんと!じゃあ楽しみにしてる!」


 ……やってしまった。中レベルくらいの僕が良い成績って、どの位目指せばいいんだ?とはいえ、ちえちゃんが喜んでくれるなら、今以上に頑張らないと。……睡眠時間、少し減らそうかな?なんて思ってしまう。

 他愛もない話をして、気付くともう二時間経っていた。残念だけど、タイムリミット。


「じゃあ、僕は帰るね」

「うん、今日もありがと!」

「好き嫌いせず、ちゃんと食べるんだよ」

「えー」

「はは。……ばいばい」

「うん。ばいばい」


いつものように返事を交わして、僕は静かに病室から出た。このタイミングが一番寂しい。けど、それは当たり前なんだ。病室で会うことが当然なわけない。だから、僕はちえちゃんの退院を願いながら、帰路につく。


*******


「今日はどう?」


 今日もまたいつもと同じ時間に病室に来た。


「ん、とっても気分いいの!今日はしっかり食べられたよ!」

「そうなんだ!じゃあ、人参もちゃんとに食べた?」

「……」

「あからさまに目を逸らさないで」


 少し苦笑いしてしまった。やっぱり、人参はだめなのかな。

 話す内容は本当に他愛もないことばかり。それを二時間近く、ほぼ毎日。

 僕は、ちえちゃんが好きだから、毎日でも会いたくて。でも頻繁にお見舞いに行くのは迷惑かなと思ったこともあった。一度それとなく聞いてみたら、もっと来て欲しいとお願いされたことがあった。大好きな子にそう言われたのなら、そうしちゃうよ。

 こうして僕はほぼ毎日学校が終わっては来て、こうしてちえちゃんと話をする生活を送っている。


「ユウくんと話してると、ホントに楽しいな」

「そう?」

「うん!だって、いつも誰もいないし、先生が来ても診察だけだし、お父さんとお母さんだって色々忙しいし。毎日退屈だよ」

「そりゃそうだよね」

「だから、こうやってユウくんと話せて嬉しいよ」


 そう言ったちえちゃんの顔を見て、目を逸らしてしまった。満面の笑みで言われて、それを直視できるほど、僕は器用じゃない。少し、恥ずかしい。

 僕は、ちえちゃんが好きなんだな。分かってることだけど、その笑顔を見ると、改めて感じる。


「ユウくん、もうそろそろ時間だけど、大丈夫?」

「え?もうこんな時間か。……じゃあ、今日はもう帰るね」

「うん」


 一瞬見たちえちゃんの顔が、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。


「ねえ、ユウくん」

「どうしたの?」

「また、来てね」

「うん、いつでも行くよ」


 なんでもないやり取り。だけど、僕はこれに細やかな幸せを感じた。


*******


「わ!綺麗なお花だね!」

「この間来た時、花瓶に何も無かったからね。少ないけど、無いよりはマシかなって思って」


 病院に行く途中花屋に寄った。ちえちゃんに話したように、病室には花瓶はあるけど、肝心の花が無かった。なので、たまには見たいかなと思って買ってみたのだ。もちろん、喜ぶ顔が見たかったからでもあるけど、それは言わない。

 とはいえ、中学生の少ない小遣いじゃ盛大なのは買えず、彩りも単調になってしまった。でもちえちゃんは僕の予想以上に喜んでくれて、嬉し恥ずかしい気持ちになった。


「はい。ここに置いとくから」

「うん、ありがと!」


 窓際にそっと花瓶を置いた。窓はベッドの横にあり、ちえちゃんの視線からは真横よりやや斜めの位置にある。これなら少しは見やすいかなと思った。


「……いつまで、見てるの?」

「だって、綺麗だし、すごく嬉しいの」


 そう言いながらも、目はずっと花を見ていた。決して大したものじゃない。お見舞いの花にしてはむしろ寂しい方かもしれない。なのにすごく嬉しそうに花を眺めていた。

 そんなちえちゃんを見て、僕はちょっとだけ後悔した。もっといい花を買えばよかった、と。そしたらもっと喜んでくれたのかもしれない。

 今日はいつもより会話が少なかった。少し途切れたと思ったら、ちえちゃんは花を見て、僕がまた話を振って、また区切りがつくと花を見て、の繰り返し。

 でも、花を見るちえちゃんの横顔は可愛かった。だから、その事に不満は無かった。

 次はもっといい花を買おう。そう思いながら、病室を後にした。


*******


「……」


 今日は非常に困った。ノック後の返事が妙に素っ気なくて、いざ入ってみると明らかに不機嫌そうな顔で迎えられた。

 話しかけても顔を膨らませたままで、未だに話してくれない。

 何か悪いことしたかな?別に今日は遅かったわけでも無いし。考えるけど、何も思い当たらない。


「えっとさ、何か、あった?」

「……かった」

「へ?」


 微かに出た声はとても聞きにくくて、自分でも変だと思う返しをしてしまった。


「痛かったの!」

「痛、かった?」

「あのね、今日の注射ね、すごく痛かったの!もう泣きそう!というか泣いたの!そのくらい痛かったの!いつもはこんなに痛くないのに、今日のはものすごく痛かったの!未だにジンジンするんだよ!もう、納得出来ない!」


 何かの突っ掛かりが取れたのか、ちえちゃんは涙目で声を荒げて僕に訴えてきた。

 ……正直、何をどう言えばいいのか分からない。高校生で注射痛くて泣くなんて。いや、注射好きな人なんていないし、僕も注射は嫌いだ。けどこんなに泣くものなのか。


「ねえ聞いてるユウくん!あ、もしかして呆れてるでしょ!?」

「いや、そんなことは」

「ひどい!ユウくんなら私のこと慰めてくれると思ったのに!もう怒る!私怒るからね!」

「そ、そんな!ご、ごめんちえちゃん!えっと、慰めるから!」

「ぶー」

「リアルでぶーって言うなんて!」


 どうしよう、こうなったら僕じゃどうしようにもならない。滅多に怒ったりしないから、いざこうなるとどうしていいか分からない。思えば小さいころあたふたして、僕も半泣きになってたような。


「えっと、何か買ってあげるから、その、もう落ち着こ」

「……」


 もうこうなったら餌付けだ!他に手が思いつかない!


「じゃあ、駅前のケーキ屋さんの限定レアチーズケーキ」

「もう売ってないよ!?というか学校行ってたんじゃ買えないよ!?」

「ひどい!ぶー!」

「またぶー言ったー!!」


 そんな感じで今日は終わった。

 ……内心楽しかったことは内緒。


 心配されていたテストは無事終わった。結果はまあまあ良かったと思っている。時間見つけて勉強した甲斐があったな。けどその代わり、それを言い合える友達が減ってしまった。

 理由は分かっていた。ちえちゃんとの時間を優先するため、友達付き合いを後回しにしていた。休み時間みんなの話の輪に入らず勉強してれば当然だと思う。

 始めの頃はみんな声を掛けてくれていたけど、僕はそれを断って勉強していた。表向きの理由は親がうるさく言ってるから、とごまかしていたけれど、理由なんてどうでもよかったのかもしれない。結果的に話の輪に入らなくなった同級生は、自然と外されていった。

 寂しさが無いと言ったら嘘になる。ちょっと迷いもした。でも、今は好きな人のことを想っていたいから。そう思うと頑張れた。

 心の何処かで、ちえちゃんを言い訳にしているような気もした。けど必死に考えを捨ててきた。僕は自分の弱さに向き合えるほど、強くなかった。


*******


 また病室に来た。ただ、今日は朝から緊張していた。その緊張は病室の扉の前に着いた時、最高潮になっていた。

 心臓がドキドキする。こんなに緊張しているのは久しぶりだ。ノックしようとする手が重い。普段だったら当たり前にしていたノックが、今日は簡単にできない。

 一度深呼吸をする。ゆっくり吸って、吐いて。意を決して、少し強めにノックした。


「はーい。どうぞ」


 いつもの元気な声が聞こえた。その時僕の脳みそに響くくらい心臓の鼓動が早く、強くなった。息が詰まる。喉が乾く。扉を開こうとする手が重く、震えている。でも、今更逃げられない。ゆっくり、扉を開いた。


「?ユウくんどうしたの?」


 開口早々、不思議に思われた。そのくらい表情が硬かったのかもしれない。

 ただ、ちえちゃんの顔を見たら、それまでの緊張が吹き飛んだ気がした。自分のやるべきことを、無理に意識することなく、本当に自然に。


「あの、これ!」

「え?すごい!え?え!?」


 目の前に出したのは、大きな花束。この間買ってきた花とは違う、色とりどりで、たくさんの花がまとまったもの。

「誕生日おめでとう!」


 そう、今日はちえちゃんの誕生日。


「ありがとう!すごい、こんな花束もらったの初めて……」

「それと、ね」


 僕は袋に入っていた箱を取り出して、ベッドの横に置かれた小さなテーブルに置いた。


「開けても、良い?」

「うん」


 ちえちゃんがゆっくり丁寧に箱を開ける。その様子を見ると、さっきの緊張が蘇ってくる。


「……これ、駅前のお店の、限定レアチーズケーキ。これ、買えないんじゃ?」

「特別に、予約したんだ」


 そう、今日の為にお店にお願いして、用意してもらった。限定だから、本当は予約なんてしてないんだけど、事情を話したら、特別に、と。

 ちょっと無理をしたなと思うけど、今回くらいは大目に見てほしい。

 ちなみに、病院にはちゃんと許可を取った。誕生日だから特別、と許してくれた。誕生日最高だよ。


「ありがとう。すごく嬉しい!」

「良かった。さあ、食べてよ」

「うん!あ、ユウくんも食べよ!」


 一緒にケーキを食べながら、いつもの様に他愛もない話をした。ケーキは美味しかった。それ以上に、ケーキを美味しそうに食べるちえちゃんを見るのが、すごく幸せに思えた。

 少し日が傾いてきた。ケーキも食べ終わって、ある程度会話も落ち着いてきた。


「……ユウくん、今日はありがと。すごく嬉しかったよ」

「僕も嬉しいよ。……そういえば、今日おじさんとおばさんは?」

「二人とも来てくれたよ。お母さんは朝と、あと三時くらいに来てくれたの。お父さんはお昼に。お父さんね、お昼ごはんも食べずに来たんだって!笑っちゃったよ。でも、嬉しかった」

「そう」


 おじさんもおばさんも、ちえちゃんのことが大好きなんだな。二人の気持ちがすごく伝わる。

 ……だからというわけじゃないけど、僕は、頑張んなきゃいけない。


「ちえちゃん」

「?何?」

「改めて、今日はお誕生日おめでとう」

「うん、ありがと!」

「……」

「どうしたの?」

「……僕、ね、……ちえちゃんのことが、好きなんだ」

「……」


 ……僕の気持ち。ずっと抱えていた想い。

 今日、言いたかった。大好きな人が生まれた、この日に。


「病気治って、退院したら、……僕と、付き合ってほしい」


 最後は、顔を逸らした。恥ずかしさじゃなくて、胸がいっぱいで。


「……」


 ちえちゃんは、まだ何も言わない。この沈黙が、怖かった。


「ユウくん、ありがと。嬉しいよ」

「ち」

「でも、ごめんね」


 ……どういう、こと?

 ……すぐに、理解できなかった。思考が回らない。視界がぐらつく。


「ユウくんは大好きだし、大事。でも私にとって、弟みたいな子だから。恋愛じゃ、ないんだ。だから、付き合えないよ」


 息が苦しい。手が震える。身体が動かない。考えもまとまらない。


「……もし辛いなら、今日はもう帰って」


 ……ちえちゃんの目を見た!でも、見た瞬間、何も言えなくなった。

 ちえちゃんも、苦しそうだったから。

 だから僕は、何も言えず、立ち上がって、重い足を頑張って動かして、扉まで行った。


「……ユウくん」

「……なに?」

「また、来て欲しい」


 ……辛いお願いだった。


「お願い、お姉ちゃんのわがまま、聞いて欲しい」

「……うん。また、来る」


 返事は聞かなかった。聞けなかった。

 病院を出た後、僕は走った。どこに向かうわけでもなく、とにかく走った。

 走った先は公園だった。小さいころ、一緒に遊んだことがある。

 それを思い出したら、涙が溢れ出てきた。

 その場にしゃがみこんで、泣き叫んだ。

 ちえちゃんの想いの分だけ、涙が止まらない。

 好き。大好き。気持ちが溢れる。溢れる気持ちが、涙になる。

 僕は、ただの年下の幼なじみでしかなかった。

 浮かれてた。何も見ていなかった。

 大好きな人の気持ちなんて、何も分かっていなかった。

 何もかもが悔しくて、苦しくて、辛くて、泣いたって何も変わらないのに、でも涙が止まらない。

 止まらないことが、どうしようもないくらい、僕はちえちゃんのことが大好きだって思い知って……。

 大好きだから、今、この現実が辛くて。

 好きじゃ、だめだった。

 僕じゃ、だめだった。


*******


 翌日、足取りが重かった。会いに行くのが、辛かった。

 でも、ちえちゃんは来て欲しいと言っていた。だったらそれに応えるため、気持ちを抑えこんだ。

 あの日以降も、変わらず僕を笑顔で迎えてくれた。だから頑張って他愛もない話をした。

 早く元気になってほしい。

 ……でも元気になったら、ちえちゃんは離れていくのかな。

 最低な不安だ。分かっていても、その不安を止めることができなかった。


*******


 いつもの様に病院へ向かった。けど。


「面会、謝絶?」

「はい、申し訳ありませんが、ご家族以外は」


 ……どういうこと?この間まで、普通に話せていたのに。なんで?

 分からない。何も理解できない。


「ゆう君?」

「……おばさん?」


 混乱して待合室の椅子に座ろうとしたとき、聞き慣れた声がした。それはちえちゃんのお母さんだった。


「……今日も、来てくれてたんだね」

「……はい」


 おばさんの顔はすごく辛そうで、苦しそうで。

 何か、感じるものはあった。でも、同時に理解したくない気持ちが湧き上がった。


「……ゆう君には、ちゃんと話さないといけないわね」

「……分かり、ました」


 分かりたくない。怖い。嫌だ。

 でも、聞かなければならない。そう思った。


 病院の中庭まで移動した。周囲には誰もいない。ゆっくり話すにはちょうどいいのかもしれない。

 中庭のベンチに腰をおろして、おばさんは静かに息を整えた。


「……ちえは、もう長くないの」


 意を決して発した言葉は、すぐには信じられなかった。


「入院して暫く経った時に、先生に言われたの。日本では珍しい病気でね。手術しても、成功する確率はすごく低いの。あと、数ヶ月が限界だって」


 嘘だ。嫌だ。そんなの、信じたくない。


「最近までは症状が安定してて元気だったんだけど、昨日急に悪くなったの。……先生からは、覚悟してくださいって、言われたわ」


 何も、言えない。言葉が、思いつかない。


「ゆう君には、本当に感謝してるわ。ちえは、いつもあなたが来てくれたことの話をしてくれた。たぶん、あなたが来てくれたことがとても楽しかったんだと思う」


 嫌だ。そんなこと、聞きたくない。それじゃまるで。


「だから、ゆう君、あなたも覚悟して」

「!」

「それと、もう、ちえに会わせることはできないわ」

「え……」

「お願い、もう、時間がないの。せめて、私達が、いたいの」


 言いながら、おばさんは泣いていた。

 僕は、やっぱり馬鹿だった。一番つらいのは、ちえちゃんのご両親なのに。僕は、何も分からずにいた。


「分かりました。僕は大丈夫です。だから、ちえちゃんを大事にしてください」


 強がりだったと思う。でもそうしないと、僕も耐え切れなかった。

 それから、僕は病院へ行くのをやめた。

 辛かった。けど、そうするしかなかった。


 十日後、ちえちゃんは亡くなった。


 それから暫くの間、無気力だったと思う。でも、ちえちゃんを言い訳にしたくなかったから、表面上は頑張ってみた。

 ただ、何のために頑張ってるのか、分からなくなるときもあった。


 時間は、残酷だった。どんなに悲しく辛い気持ちを持っても、無情に過ぎ去っていく。

 同時に、優しかった。止まることがないから、歩くことができた。


*******


 月日が流れて、ちえちゃんの年齢を追い越して、気付くと二十歳の誕生日を迎えていた。

 なんだか、色んな後悔を抱えたまま大人になった気がした。

 そうして今日、僕は彼女のお墓に来ていた。

 お線香をあげて、手を合わせて。

 このままじゃ辛くなるな。そう思って帰ろうとした時、懐かしい人を見つけた。


「おばさん?」

「ゆうくん!?」


 そう、ちえちゃんのお母さんだった。


「良かった。ここにいたのね」

「え?」


 どういうこと?けど僕の理解が追いつく前に、おばさんはバッグからあるものを出した。

 それは、一つの手紙。


「ちえからよ」

「ちえちゃん、から?」

「そう、生前、あなたへ書いたもの。二十歳の日に、渡してって頼まれたの」


 どういうこと?ちえちゃんが、僕の二十歳の日に?なぜ?

 全く分からなかった。


「これを読むかは、あなたが考える事。私が言えるのは、それだけよ」

「……ありがとうございます」


 僕は静かに、震える手でその手紙を受け取った。


 誰もいない家の、僕の部屋。ベッドに腰を掛けて、手紙の封筒を見つめる。

 正直、見るのが怖い。

 でも、ちえちゃんが二十歳の僕に遺した手紙。

 今読まなければ、一生後悔する気がした。

 恐る恐る、僕は封を切った。


『ユウくんへ。この手紙を読むということは、私はもういません。だから、この手紙を書きました。

 実は、私はもう長くなくて、手術しても治る可能性が低いっていうのを知っていました。でも、ユウくんには言えませんでした。言うと、きっとユウくんは傷付く気がしたからです。隠してて、ごめんなさい。この手紙は、私の謝罪と、ユウくんへの感謝を遺したいと思い書きました。もし奇跡が起こって私が生き延びれたなら、この手紙は破り捨てます。ふふ、私らしいでしょ?でも、ユウくんがここまで読んでるのなら、きっと私はだめだったんだと思います。ユウくん、いつもお見舞いに来てくれて、ありがとう。寂しかった私にいつも元気をくれたのはユウくんです。ユウくんがいたから辛い闘病生活も頑張ることができました。

 けど、ユウくんの大切な時間を私に使わせてしまって、ごめんなさい。本当はもっと色んな事をしたかったんだと思います。なのに私のことを考えてくれて。私はユウくんに甘えていました。私はお姉ちゃん失格だなって思います。でも、どうしても嬉しさを抑えることができませんでした。だから、私は残り少ない人生を、甘えることにしました。甘えさせてくれてありがとう。甘えを許してくれたのは、誰でもないユウくんです。本当に、心から感謝してます』


 一文字ずつ丁寧に書いてあって、ちえちゃんらしさが出ていた。

 僕はこみ上げるものを堪えつつ、一枚目を後ろにやり、二枚目に目を通した。

 二枚目に書いてあった言葉は、簡潔だった。


『次の紙に書くことは、もしかしたらユウくんを傷付けるかもしれません。もし辛いと思うなら、もうこの手紙は閉まってください。書いておいてワガママですが、私はこれ以上ユウくんを傷付けたくないです』


 ……少し目を閉じて、僕は次のページを読むことにした。

 静かに、紙を移した。


『ここから先を読んでくれることを、喜んでいいのか分かりません。でも、偽りない私の気持ちを書きます。

 私は、ユウくんのことが大好きです。お姉ちゃんとしてではありません。一人の女の子として、ユウくんに恋をしています。

 ずっと昔から、あなたのことが大好きです。私の誕生日、私を好きって言ってくれた時、あの日、私はユウくんから幸せをもらいました。だって、大好きな人が、好きって言ってくれたんです。信じられませんでした。でも、ユウくんの目は真剣で。だから、私は信じることができました。本当は泣きそうなくらい嬉しくて、それくらい幸せだったんだよ。

 でも、大好きだからこそ、私は諦めるしかなかったの。

 だって、私、死んじゃうんだよ?そんな人が、ユウくんを好きって言っていいわけ、ないよね?ユウくんはこれからもっともっと幸せになるべき人なのに、私が縛ったら、だめなんだよ。だから、私は耐えたの。頑張ったんだよ。

 でも、ユウくんが帰ったあと、涙を堪えることができなかった。私は、自分が大好きな人を、私を好きって言ってくれた人を、傷付けたの。こんなの、許されるわけないよね。でも、辛かった。どうしようもないくらい辛かった。なんで私死んじゃうの?どうしてこんな病気になったの?なんでユウくんと一緒にいられないの?何もかもが辛くて。でも、それでもユウくんには会いたかった。だから、ワガママを言ったの。ごめんね、私のワガママで苦しめて。

 でも、もう一つだけワガママを言わせて。

 これからユウくんは、違う出会いがあって、私じゃない人が隣にいることがあるんだよね?そんなの、嫌だよ。なんで私じゃないの?ユウくんを好きなのは私なんだよ?私が隣にいたいよ!ユウくんの恋人になって、結婚して、ユウくんと幸せな家族になりたかったの。なのに、なんで叶わないの?ほかの人がそうなるなんて、やだよ。私の好きな人を取らないで。私が、私が大好きなの!なんで神様は残酷なの?私は恋したらだめだったの?ねえ、ユウくん、私、もうどうしようもないくらいあなたが大好きなの。やだよ、死んじゃう私が縛ったらだめなのに、ほかの人と幸せになるユウくんを、祝えないよ。私が、隣にいたいの。やだよ、やだよ、やだよ!ユウくん、大好きだよ!

 これを読んでいるユウくんへ。本当にごめんね。私、ユウくんを傷付けてばかりだよね。大好きな人の幸せを願えないなんて、最低だなって思う。だから、この手紙は私のワガママなの。これは、ユウくんの為に遺したんじゃないの。私自身のためなの。ユウくんを傷付けて、そうやって私が生きてあなたを愛した証にしたいの

 でも、やっぱりユウくんには幸せになってほしい。もし今の願いが叶うなら、私の恋を知った上で、あなたに幸せになって欲しいです

 ユウくんへ。私、佐々木ちえは、あなたを、心から愛しています』


 涙が止まらなかった。僕は、本当に大馬鹿野郎だった。大好きな人の本当の気持ちに、何も気付けなかった。

 僕はその日ずっと、手紙の前で泣いていた。


*******


 僕は十年振りに、彼女の前に来た。これまで一度も訪れなかったのは、僕なりのけじめだった。

「ちえちゃん、今までこれなくて、ごめんね。正直辛かったけど、その辛さが、必要だった気がしたんだ。……実は、僕、結婚することにしたんだ。都合のいい言い方をすると、僕は君への気持ちを忘れてはいない。忘れない上で、結婚することにしたんだ。今まで出会って付き合った人、何人かいたよ。でも、うまくいかなかった。でも、今の彼女は違ったんだ。ちえちゃんのことを話して、ちえちゃんへの想いを打ち明けても、認めてくれて、支えてくれて、僕を好きでいてくれた。だから、僕は彼女を幸せに、……違うね、一緒に幸せになりたいって思えたんだ。……僕のお嫁さんはちえちゃんが決めたみたいだね。そう考えるのは、勝手かな?ちえちゃんは怒るかな?ヤキモチは焼きそうだね。分かってるよ。でも、そういうの全部受け止めるから。だから、僕を信じて」

 ……一方的だったな。でも、お互い昔からそうなんだ。だから、僕らはこれでいいんだと思う。

 僕は帰ることにした。今度は、彼女と一緒に訪れると誓って。


 一瞬、優しい風が吹いた。

 それはちえちゃんの声のような気がして。

 気のせいかもしれない。でも、僕には聞こえたんだ。


『大丈夫だよ』

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誕生日への手紙 伊藤紗凪 @sana_ito

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