囁く影

 その夜、リビラはレイクに付き添われて自宅に帰ってきた。家の中は真っ暗で、灯りをつけても人の気配はない。いつもは扉を開けた瞬間、美味しそうな料理の匂いが鼻孔をくすぐるのに、今日は何も迎えてくれるものがない。がらんどうのようなその室内は、リビラ自身の心の空洞くうどうのようだった。


「あの子……まだ帰ってないのね」リビラがため息をついた。

「こんな時間まで帰って来ないこと、今まで一度もなかったのに……」


「君と顔を合わせたくないんだろう」レイクが冷静に言った。

「あんな喧嘩をした後ではさすがに気まずいだろうからね。今頃ヘーデルさんのところにでもいるんじゃないか?」


 ヘーデル。昨日診療所に来たあの老婆のことだ。彼女は街外れの家で一人暮らしをしており、レイクが忙しい時にはシリカが代わりに薬を届けてくれ、そのまま話し相手になることも多かった。だから彼女はシリカのことを孫娘のように可愛がっていた。


「だといいけど……。あたし、あの子にちゃんと謝りたいのよ。あたしは自分の考えを押しつけるばっかりで、あんたの気持ちを全然わかってなかったって……。

 今日のことだってそう。あたしはただ……シリカが、父や母と同じ目に遭うんじゃないかと思って……」


 表情を曇らせて零しながら、リビラはぐっと拳を握り締めた。八年前の記憶が蘇る。リビラの目の前に迫る賊のナイフ。そこから目を背けた瞬間、誰かに身体を突き飛ばされ、次いで恐ろしいうめき声が聞こえた。恐る恐る目を開けたリビラの目に飛びこんできたのは、ナイフに胸を貫かれた母の姿――。


「……そうか、確か君の両親は、殉職じゅんしょくしたのだったな」


 レイクが表情を曇らせた。高名な水晶魔術師クリスタル・マジシャンだったリビラの両親。その噂は王都にいた頃のレイクの耳にも届いていた。連戦連勝だった彼らが、多勢で押しかけた賊との戦いで娘を人質にとられ、あっさりと命を落としたことも。

 確かその時、レイクの両親も殉職したはずだったが、レイクはその時のことをほとんど覚えていなかった。レイクに魔力がないと判明した時点で両親は彼に見切りをつけており、レイク自身、手のひらを返した両親に執着しゅうちゃくするつもりは毛頭なかった。


「……今でもあの時のことを夢に見るわ」リビラが苦悶くもんに顔を歪めた。

「あたしの目の前で絶命した二人の姿……。あの時あたしは誓ったの。もう絶対に誰も同じ目に遭わせない。誰よりも強い水晶魔術師になって、この街と、街の人達を護っていくんだって」


 リビラはそう言って天を仰いだ。そう、自分は強くなければならなかったのだ。弱みを見せればそこに隙が生まれる。かつての自分の両親のように。だからリビラは誰の力も借りず、一人で戦ってこなければならなかった。


「だが、それなら何故シリカを水晶魔術師にした?」レイクが不可解そうに尋ねた。


「水晶魔術師になるということは、彼女の命を危険にさらすことだ。君はそれがわかっていながらシリカを水晶魔術師に推薦した。何故だ? 君が一番守りたいのは、他でもない彼女のはずだろう?」


 リビラは視線を落とした。レイクの言葉は正論だ。シリカを危険な目に遭わせたくないのなら、妹を戦いに巻き込むべきではない。

 だが、リビラがシリカを水晶魔術師に推薦したのは他に理由があった。


「……あたし、あの子には、自分で自分の身を守れるようになってほしかったのよ。」


 リビラが噛み締めるように言った。レイクが片眉を上げてリビラの顔を見返した。


「あたしはいつまでもシリカの傍にいてあげられるわけじゃない。命の危険と隣り合わせなのは、あたしだって同じだもの」


 寂しげな笑みを浮かべてリビラが呟く。水晶魔術師である限り、自分の命がいつ失われるかもしれないという恐怖は常に心にある。自分が賊に刃を突き立てられる夢を見て、汗をかいて飛び起きることも珍しくない。

 だが、リビラはそのことを誰にも言い出せなかった。死を怖れているなんて思われてはいけない。水晶魔術師は常に強く正しく、人々に希望を与える存在でなければならない。両親から教えられたその言葉が、リビラに本心を吐露とろさせることを躊躇ためらわせていた。


「もし……あたしが賊や魔物との戦いに敗れて命を落としたら、シリカは一人ぼっちになってしまう」リビラは続けた。


「あの子はとても弱くて、人に付け入られやすい……。だからあたしは、シリカに一人でも生きていくための力をつけてほしかったのよ。そのために厳しいことも言ったけど……それが結局あの子を追い詰めてた。それで嫌いなんて言われちゃって、あたし、一人で空回りして馬鹿みたいね」


 リビラが自嘲じちょう気味に笑った。お姉ちゃんは私を利用しただけ――そう言ったシリカの悲痛な表情が脳裏に蘇る。シリカはきっと、自分だけ氷結召喚ができないことにずっと焦りを感じていたのだろう。それなのに自分は、そんな妹にプレッシャーをかけるようなことばかり言ってしまった。妹の力の発現はつげんを望んでいたのは、他ならぬ自分自身だというのに――。


 レイクが黙ったままリビラを見つめた。眼鏡の奥に見えるその怜悧れいりな目は、彼女の心の奥底を探ろうとしているように見えた。


「もし……シリカが本当に水晶魔術師を辞めると言い出したら、君はどうするつもりなんだ?」レイクが静かに尋ねた。


「そうね。あの子が水晶魔術師になって、一緒に戦ってくれたら嬉しいと思ってた。実際あの子はすごく一生懸命で、あたしの特訓にも文句一つ言わずに付き合ってくれた。でも……それがシリカを苦しめるのなら、あたしは水晶魔術師になんかならなくていいと思う。シリカにはシリカの人生がある。あたしの言葉に縛られて、自分の道を狭めなくてもいいって言ってあげないとね」


 リビラは努めて明るく言った。正直なところ、街に魔術師が一人しかいない状況はプレッシャーではある。たとえ力が未熟でも、シリカが一緒に戦ってくれたらどんなに心強いだろう。

 でも、リビラはシリカに戦いを強要したくはなかった。リビラはただ、妹に幸せな人生を送ってほしかっただけなのだ。


「送ってくれてありがとね。シリカ、まだ当分帰ってこないみたいだし、よかったらお茶でも飲んでく?」


 リビラがレイクに尋ねると、返事を聞くより早く台所の方に向かった。ポットに湯を沸かし、いそいそとカップを用意し始める。レイクは玄関に立ったまま、感情のこもらない目で彼女を見つめた。


「リビラ……君はやはり変わらないね。」


 レイクがぽつりと言った。


「君は誰よりもこの街や人々のことを考えていながら、他人の気持ちにはまるで鈍感だ……。自分の言動がどれほど周りの人間に影響を与えるかをわかっていない。

 もちろん君に悪気はないのだろう。君はただ、自分が正しいと思うことをしているだけだ。シリカに水晶魔術師になるよう勧めたのも、今になって辞めるように言ったのも、全ては彼女の身を案じてのこと。

 だが、リビラ。君は考えたことがあるか? 自分の何気ない言動が、どれほど周りの人間を傷つけているかを……」


「……レイク? どうしたの急に?」


 レイクのただならぬ様子に気づいたのか、リビラがいぶしげな顔で振り返った。レイクの眼鏡の奥に見える瞳が、心なしかいつもより冷ややかに見える。


「君は言ったね。水晶魔術師になることがシリカを苦しめるのなら、水晶魔術師になどなる必要はないと」レイクは続けた。


「だが僕に言わせれば、そんなものは選ばれた人間の傲慢ごうまんに過ぎない。選ばれなかった人間にはその選択肢すらない。彼らはただ、無力な自分自身に恥辱ちじょくを感じながら、選ばれた人間が栄光を浴びる様を、指をくわえて見ていることしかできないんだ。

 君にはわからないだろう? 生まれながらにして力を持たず、影のように生きるしかない人間の存在など……」


 レイクはそう言うと、ゆっくりとリビラの方に近づいていった。リビラは思わず後ずさったが、すぐに壁にはばまれて身動きが取れなくなった。


 レイクはリビラの眼前に立った。切れ長の瞳が、静かにリビラの顔を覗き込む。


「リビラ……僕は初めて出会った時から君に惹かれていた」


 息がかかるほど近い距離で、レイクがリビラにささやきかけた。


「君は強く、水晶魔術師としてこの街を護るという信念を持っていた。君の存在は周りの人間に勇気を与え、君のようになりたいと強く願わせた。

 僕はきっと期待していたんだろう。君の放つ強い光が、僕の存在をも照らしてくれるかもしれないと……。」レイクはそこでふっと笑みを漏らした。


「だが、結果は逆だった。君が輝けば輝くほど、夢に敗れた自分の惨めさが露呈ろていすることになった。君が水晶魔術師として成功を収めるたび、どれほど胸を掻きむしられたことか……。だが……それももう終わりだ」


 不意にレイクがリビラの身体を抱き締めた。いつになく優しい抱擁ほうよう。突然のことにリビラは戸惑い、目を瞬かせてレイクの方を見ようとした。その間にもレイクは抱擁を解かず、リビラの耳元で囁いた。


「リビラ……。君には感謝している。君のおかげで、僕は心の奥底にある宿望しゅくぼうに気づくことができた……。僕に必要なのは医師としての名声などではない。そう……君なんだよ、リビラ」


「レイク……?」


 始めと同じくらい唐突に、レイクがリビラの身体を離した。彼女の両腕に手を添えたまま、静かな眼差しでリビラを見つめる。リビラも不安げにその目を見返した。そうして見つめ合っている時間が、途方もなく長く感じられた。


 先に目を逸らしたのはレイクの方だった。視線を脇にやり、何かを諦めたようにふっと息を漏らす。その横顔にはいつにないうれいと、悲愴ひそうな決意が浮かんでいた。


「許してくれ……リビラ」

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