欲望の代償

 注射を打ち、簡単な食事を済ませると老人は生き返ったようになった。満足そうに腹をぽんぽんと叩き、息をつく。


「いやはや、あんたは本当に親切な人ですな、レイク先生。治療だけでなく食事までご馳走になれるとは」


「いえ、僕一人ではいつも余ってしまいますから、かえってよかったですよ」


 レイクが食器の片付けをしながら言った。診療所には簡易なキッチンが備え付けてある。診察で遅くなった時には泊まり込むことも珍しくないからだ。

 だが実際、どうしてここまで老人に親切にしてやらなければいけないのか、自分でもわからなかった。


「いや、それにしてもあんたの手さばきは見事でしたな」老人が言った。


「わしは元々血管が細くて、注射してもらうのにひどく時間がかかるんですわ。じゃがあんたはそれを一発で成功させた。ただの街医者にしておくには惜しいほどの腕じゃ。あんたなら王都でも重宝されるでしょうに、何故またこんな田舎町に引っ込んでおられるんです?」


 老人が無邪気に尋ねてきた。レイクは片付けをしていた腕を止めた。平静さを装って振り返り、努めて柔和にゅうわな笑みを浮かべる。


「僕はこの街が好きなんですよ。ここは自然が豊かで空気も美味しい。街の人も皆のんびりしている。人が多くてごみごみしている王都よりも暮らしやすいんです」


「ふうむ、そんなものですか。いや、しかし惜しいですなぁ。あんたほどの御仁ごじんが能力をくすぶらせているというのは」


「……僕は今の生活に満足していますから。この街の人達は僕を必要としてくれている。その期待に応えられれば僕は十分なんです」レイクが低い声で言った。


「そうですか。いや、てっきりわしは、先生はもっと大きな野望をお持ちかと思ったんですが」老人が顎をさすりながら言った。


「野望?」


「ええ、先生ほどのお方が、いつまでも単なる街医者に甘んじているはずがない。医者はあくまで仮の姿で、本当に目指すものは別にある……。そうお見受けしたのですが、見当違いでしたかな?」


 レイクは食器を机に置き、まじまじと老人を見返した。不穏な予感が胸の内を過ったが、それが何に起因するものかはわからなかった。


「あなたが何のことを言っているのか、僕にはよくわかりません。僕は幼い頃から医師を目指し、そして実際に医師になった。他に目指すものなど……」


 レイクはそこで言い淀んだ。老人の言葉が意味することにようやく思い当たったのだ。


「ふむ……ようやく思い出したようですな。あんたが過去に置き去りにしてきたものを。いや、実際には最初から気づいておられたのかもしれませんな。ただ、それが表に出るのを隠そうとしていただけで」


 レイクの心境を読み取ったように老人は言った。煮え立つような怒りを感じながら、レイクはぐっと拳を握り締めた。


「……あなたは何が言いたいんです? 僕の過去を調べ上げたんですか? 敗北感に打ちのめされていた昔の僕を引きり出し、嘲笑うつもりなんですか?だったら即刻出て行ってもらいましょう!」


 レイクが苛立ちを抑えきれずに叫んだ。あと一言でもこの老人が不愉快なことを言えば、本当に診療所から放り出すつもりだった。


 だが、老人はゆるゆると首を振ると、真面目くさった顔で言った。


「いいえ、その逆です。わしは先生を助けて差し上げたいと考えているんです。先生はこんなわしに救いの手を差し伸べてくださった。わしはそのご恩に報いたいと考えておるんですよ。」


「報いる? どうやって?」


「簡単なことです。わしはあんたの一番欲しいものを知っておる。そしてそれを授ける力を持っておるのですよ。わしが何のことを言っているかはおわかりでしょう?」


 レイクはまじまじと老人を見つめた。先を聞かずとも、老人の言葉が何を差しているかは明らかだ。それでもレイクは確かめずにはいられなかった。


「君はまさか……魔力のことを言っているのか? 君が僕に魔力に授けるとでも?」


 レイクが震える声で尋ねた。老人はすぐには答えなかった。動揺を押し隠すレイクの姿を捉えながら、ゆっくりと諭すように口を開く。


「残念ながら、わし自身が魔力を持っているわけではないのです。わしにできるのは、あんたが魔力を得るお手伝いをすることだけ。実際に魔力を手に入れられるか否かはあんたの手にかかっておる。レイク先生、あんたにその覚悟がおありかな?」


 老人はレイクの瞳をじっと覗き込んだ。レイクは金縛りにあったように動けなくなった。

 これが普通の人間なら、頭のおかしい老人の戯言ざれごととして一笑に付したことだろう。だがレイクにとっては、老人の言葉は呪いのように抗いがたい力を持っていた。

 それでもまだ、老人の甘言を鵜呑みにしないだけの理性は保たれていた。


「……君が何を言っているのか、僕にはまだよくわからない。君は僕に、覚悟があるかと聞いた。その覚悟とは何を意味するんだ?」


 老人が再びレイクの瞳を覗き込んだ。さっきまでは気づかなかったが、その憐れな風貌からは想像もつかないほど、老人の目はさかしげな光を放っていた。


「わしの言葉に従えば……あんたは必ず魔力に手に入れることができる」


 老人が静かに言った。


「じゃが、あんたはその代償として、全てを失うことになる。医師としての地位も、人々からの名声も……そして最愛の恋人も。

 あんたはそこまでしてでも、水晶魔術師クリスタル・マジシャンになりたいと思うのかね?」


 老人の眼光がレイクを捕らえた。その底の知れなさにひやりとしたものを感じながら、レイクは老人を見返した。


 全て。自分がこれまで築き上げてきたもの全てが、魔力を手に入れるという一つの行為によって水泡に帰する。それはどう考えても馬鹿げた取引だった。こんな怪しげな老人の言葉になど耳を貸さず、即刻家からつまみ出す。誰がどう考えてもそれが最も賢明な判断だった。


 だが、すでに呪いはレイクの全身を蝕み、彼から理性を奪ってしまっていた。

 魔力を手に入れる。幼い頃の自分が渇望かつぼうし、それでいてついぞ手の届かなかった力を、この老人の言葉に従えば手に入れることができる――。


「……教えてくれ。」


 沈黙が落ちた部屋の中に、レイクの渇いた声が響いた。


「僕は……どうすればいい? どうすれば、魔力を手に入ることができるんだ……?」


 その言葉を口にした瞬間、レイクは自分の身体から何かが剥がれ落ちていくのを感じた。まるで魚の身体からうろこが零れ落ちるように、ぽろぽろと音を立てて海底へと沈んでいく。


 それはレイクの仮面だった。人々がレイクに抱き続けていた幻影。親切で優しいレイク先生。今、その仮面が剥がれ落ち、彼の素顔が明らかになろうとしていた。


 診療所で見せたのと同じ、冷たい眼差しのレイクが。

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